14、世話役の仕事
この世界を支配する全四カ国の中で、極寒の国と呼ばれる北国ラウグリア帝国。その歴史は古い。しかし、千年以上もかけて守り続けて来たという皇室主権の歴史は、今、打ち崩されようとしていた。
現皇帝であるラプソディアは長年病に臥せっており、とても人前に立てるような状況でさえなく、当然国政の指揮など取れるはずもない。代わりに玉座に座るのはその第一子であるシルディア皇太子殿下だ。しかし、彼も自身で政権を握ることはなく、国家の象徴として君臨するのみであった。——実際に政権を握っているのは軍隊だ。
北軍は、東国ヤンムの国土をその占領下とし、次に西国エウリアの国土をも手に入れようと企んでいた。目指すは世界制覇だ。エウリアさえ手中に入れれば次は南下し、南国アズニーにも戦をしかけるであろう。
ゆえに、西国の巫女を攫い、「東国を北国ラウグリアの一部と認めろ」という交渉を持ちかけたのも、その口実でしかなかった。最初から西国からの許可をもらおうだなんて思っていない。西国が巫女を攫われたことに反発し、北国へと戦を仕掛けてくればそれでよかった。それを引き金にいて、北と西の戦争が勃発する。
——西国へ文書を届けた北国の軍が、皆殺しに遭った。喜べ、これで西への攻撃の動機が立つぞ。
軍の最高権威であるスターリン将軍はそう語った。彼は己の軍が全滅したことさえ、戦の引き金になるのならば「喜ばしい」という。すなわち、最初から西国へ届けられた北軍は捨て駒だったのだ。また、軍人が命を落とした。しかしそれが丁重に弔われることはない。彼らの命は捨てられる——。
皇太子シルディアの世話役であるオレーク・ナイザーは、仰々しいほどの溜め息を吐いて、狭い休憩所に置かれた椅子に深く腰掛けた。知らず知らずのうちに疲労を溜めていたのであろうか、体が重い。北国の冷気から皇宮を守る二重の窓が、彼の吐きだした息で曇る。青年は無言のまま、窓辺に寄りかかった。
西国の巫女がこの北国へと誘拐されてきてから、一月が経とうとしていた。しかし、この一月の間、巫女は皇宮内での自由を許されており、奔放に暮らしている。他国へ誘拐されていることを忘れてしまっているのではないかと疑わしいほど、彼女は自由奔放だ。だが、しかし——そろそろ軍が動き始める頃であろうとは思っていた。オレークは窓から見下ろした先に見える処刑場を眺め、そこに並んだ国賊たちを見下ろす。軍は、確実に、動き始めていた。
実際に、国内の反対勢力の公開処刑が始められたのは今から十日ほど前のことだ。「国賊」と呼ばれ処刑されるのは、軍に従わぬ軍人や貴族の人間だった。これ以上の戦を望まない保守派の者共は、次々に王宮内に作られた処刑台の上で、首を落とされた。そしてこれは他の軍人や貴族たちへの見せしめでもある。それは、北軍の絶対的な権力に逆らうべからずという圧力であった。
そしてその北軍にとって、「鍵」とも呼べるのが皇太子シルディアの存在である。軍事力では適わぬ不思議な『力』を持ったこの少年を、軍は恐れ、だが武器として大いに利用し、活用していた。そのために重要となってくるのが、皇太子の世話役として始終彼に付きっきりになる、オレーク・ナイザーの存在だ。軍は何かとオレークを呼び出し、彼に指示を下した。そもそも、オレークがシルディアの世話役となったのも、軍からの上意である。
オレークは寒空を見上げ、回想した。——あれは、丁度今から三年前のこのような寒い日のことだった。
皇室の小間使いとして生まれ育ったオレークは、他国からの迎賓客をもてなす小間使いとして平和な日々を送っていた。そんな彼の平穏に突如変化が訪れたのは、今日のような冬の始まりのことであった。
——オレーク・ナイザー。皇太子シルディア殿下の世話役に任じる。
突然彼を呼び足したのは、軍の最高権威、スターリン将軍である。当然軍の最高権威になど逆らうことのできない一端の小間使いに下された命令は、破格の昇進であった。
オレークは、素直に、仰天した。
皇家の人間の世話役と言えば小間使いの中では最も位が高い。貴族の位と照らし合わせてみれば、その権力は侯爵ほどにも値する。今までしがない下吏の一人でしかなかったオレークにとっては、有り得ないほどの出世であった。
しかし、実際のところ、その昇進は手放しに喜べるようなものでもなかった。
今や王宮の隠し玉とも、北国ラウグリアの兵器とも呼べるシルディア殿下の世話役は、只人には務まらぬ。彼の存在自体が兵器と呼ばれるには、それだけの理由があるのだ。実際にオレークも、皇太子の世話役となってから精神や体を病んだ小間使い仲間を幾人も知っていた。恐らくオレークの前任の世話役も、気の病が原因で辞任したのだろう。
——何故私のような下位の人間に、そのような大役を。
命令は上意である。決して逆らうことなどできない。そうわかっていながらも、問わずにはおれなかった。まさか自分にその白羽の矢が立つとは思ってもいなかったから。
——オレーク・ナイザー、お前は下位の人間でありながら、その学識は高く、特に他国の迎賓客をもてなすためにいくつもの言語を扱えると聞いた。それは努力の賜物でありながら、天性の聡明さも手伝ってのことであろう。我々は、必ずしも上位の人間を皇太子殿下の世話役にしたいとは思っていないのだ。それよりも能力の高い人間を、殿下の傍に侍らせたい。
お前の他にはおらんのだ、と将軍直々に言われては、拒否することなど当然できようはずもなかった。「ありがたいばかりです」と頭を下げて、オレークはその日からシルディアの世話役となった。
——あれから、三年もの月日が流れた。
これは、皇太子殿下の世話役を務めた年月としては最長記録なのだという。それまでの最長記録がたったの一年だったことを思えばその三倍もの年月を超過したこととなり、華々しい記録であったが、とは言え、たった三年だ。それはお世辞にも長いとは言えない、僅かな時間の経過だ。
そして、西国の巫女を誘拐してから一月。動き始めた軍は、事の詳細を教えるために、世話役のオレークを呼んだ。
「そろそろ西国への進軍の準備を始めようと思っている。故に、反対勢力をあと三日で全て始末するつもりだ。その数ざっと百には満たぬ程度だが……時に、皇太子殿下の具合はどうだ」
将軍は、オレークにそう問いかけた。その質問の意図は、オレークもよくわかっている。皇宮の傍で人の処刑などをして人命を奪う場合、皇太子シルディアへの影響が懸念された。
皇太子シルディアは、人の負の感情、恨みや怒り、悲しみ、そして特に人の死に過敏だった。というのも、死んだ人間の魂や心を、彼の『力』は吸収してしまうらしい。かつて皇太子は「人が死ぬと、その死んだ魂が自分の元へ集まってくるんだ」と語った。オレークは『力』を持たぬためにその感覚を理解するのは難しい。だが、確かに皇宮周辺で人が死ぬと、皇太子はたびたび情緒不安定になった。そしてその不安定さが極限にまで至ると——爆発する。『力』が暴発するのだ。自分では『力』を押しとどめられなくなり、『力』による様々な災いが勃発した。
「今の所、まだ『力』の暴発の兆しは見えませんが、情緒不安定であることには間違いありません。一度に百近くの命が死ぬとなると……暴発は免れないかと」
「やはりそうか……ならばなるべく分けて殺すとしよう。その都度女でも抱かせて精神を落ち着かせろ。見目麗しい皇太子に身を捧げたいという女はいくらでもいるはずだ」
オレークは「御意」と言って下を向いた。
実際、女を抱けばシルディアの不安定が少しだけ改善されるのは事実であった。だが、そんなものは気休めにしかならない。結局のところ、そうして気を紛らわせているだけのことであり、そんなものでは気が紛れなくなった時が最後、堰を切ったように暴発する。
「しかし、今回はよく保っているな……。処刑はすでに十日以上続いている。常であれば、とっくに暴発が起こってもおかしくない頃なのに」
将軍の呟きに、オレークは頷いた。
その通りであった。確かに最近の皇太子は不安定であり、度々周囲に当たり散らしてはいるものの、それだけだ。実害はない。
「……おそらく、西国の巫女君の影響ではないかと」
オレークはぽつりと呟いた。脳裏に浮かぶ、黒髪の少女はいつでも笑顔だ。シルディアと同じ『力』の持ち主であり、国の象徴的存在であるというが、まるで彼とは正反対の少女であった。
「巫女君がお越しになってからのこの一月、殿下は比較的落ち着いておられます。時折不安定になることもありますが、巫女と過ごすことによってしばし解消されます。それはもう、女を抱くような気休めの何倍もの効果があり……」
「ならばいっそ、巫女を抱かせろ」
将軍の言葉に、一瞬オレークは言葉を見失った。
「抱かせろ」などと将軍は軽々しく言うが、相手は隣国の宗教的最高権威、巫女の君である。そこらの侍女を抱かせるのとはわけが違う。——数日前のことであるが、実際に、シルディアの寝台から巫女とシルディアが二人で出てきたことがあった。オレークはシルディアが間違いを起こしたのではないかと、巫女の君に暴行を加えたのではないかとそれはもう顔色を青くしたが、シルディアに聞いたところ、「何もしていない」と言う。では二人仲良く並んで寝ていただけだとでもいうのか。問うと彼は、「性交なんてするよりももっと、心地良い経験をした」と笑った。具体的に何をしたのか、オレークは知らない。だが情緒不安定だった彼がすっきりとした顔色をしていたことと、隣国の巫女を蹂躙するような事態は避けられたのだという事実を知って、安堵した。——だが、それをまさか将軍が望むとは。
「将軍ともあろう方が、とんでもないことをおっしゃいますな。……そのようなことを皇太子殿下が行えば、国際問題となります」
オレークが優等な答えを示すと、くくと将軍は喉の奥で笑った。
「お前こそ馬鹿げたことを言うものじゃない。とうに国際問題などという枠組みは越えているだろう。これから我々は戦をするのだぞ」
そう言われてしまっては、納得せざるを得ない。確かに巫女を誘拐し、戦を仕掛けようという今、もはや巫女の貞操など、どうでもいいことなのかもしれなかった。
「もとより巫女を返そうなどとは思っておらん」
将軍は言う。神の代弁者である巫女も、彼にとっては国策の道具でしかない。
「西の奴らの縋る神の遣い、巫女の首を我らはいずれ打ち落とす。——それがこの戦の幕開けだ」
さらりと言い放つ彼の目に迷いはなかった。巫女の命の奪われる日はそう遠くはなさそうだ。
そういうことか、とようやくオレークは軍の策略を理解した。
軍が皇太子に命じて巫女を誘拐させたのは、宗教国家である西国の心のよりどころを奪うためだ。そのために、国家権力を握る西国の「王」を誘拐するのでは意味がなかった。神に最も近い存在である「巫女」を、そして西国一の『力』を持つ「巫女」を、北軍が奪って殺すことに意味があった。北軍は神さえ殺せるのだと、その圧倒的な『力』を西へと見せつけて戦意を喪失させるためだ。
しかし、もしもここにきて巫女カグワが殺されてしまったら——シルディアはどうなってしまうのだろうか。
オレークの心の中に、不安がよぎった。
将軍の元を離れ、皇宮へと戻り、小間使いたちの使う休憩室へとなだれこんだオレークは、その窓辺の椅子に腰掛けてぼんやりと外を眺めていた。
シルディアの世話役となり三年、たかが三年であるが、王宮内で自分は彼との付き合いが最も長い。だからこそ、わかるのだ。今のシルディアにとって、あのちっぽけな少女がどれほどの支えになっているのか——オレークにはとても代替できない、輝かしいほどの支えだ。
「——オレーク!」
きぃと音をたてて、休憩室の扉が開いた。飛び込んできたのは、彼の弟分である、ユーリという小間使いだ。
オレークはゆっくりと顔をあげて、彼の方を向いた。昔、まだオレークが迎賓客の小間使いをしていた頃は、毎日のように傍にいて、一緒に仕事をしたものだった。オレークよりも五つ年の若いユーリは、オレークにとっては本当の弟も同然だった。
「うわあ、此処でオレークに会うなんて久しぶりだなぁ……! 大丈夫か? 疲れてるみたいだけど」
ユーリもユーリで、オレークのことを本当の兄のように慕ってくれていた。世襲で代々賄われる皇室の小間使いたちは、皆親戚のようなものだ。オレークはこの少年のことを、まだ二足歩行もできないほど幼い頃から知っていた。
久しぶりに会った弟分を前に、思わず笑みが漏れる。オレークは彼の肩を労うように、はたいた。
「そういうお前も疲れているんじゃないのか? あのお転婆巫女君の相手は大変だろう」
「まあね。でも俺が困るようなことはしないし、毎日毎日なんだかんだ楽しいよ。今日は皇宮の中庭で、雪のオブジェを作るんだって張り切ってらした」
まださして積もってもないのにね、とユーリは楽しそうに笑った。そういえば、ラウグリアの首都では、先日大雪が降ったところであった。とは言え、その後は晴れの日が続いているのでそれほど積もり残っているわけでもない。ラウグリアの冬の本番は、まだまだこれからだ。
「西国では北の方しか雪は降らんからな。巫女君のおられた後宮のある首都は、西国の最西端だ。南寄りでもなく北寄りでもない、丁度中間地点に位置している。四季の豊かな環境であるというが、雪は滅多に降らないんだろう」
「へえ。他国のことまでよく知ってるなぁ、オレークは」
「お前は少し勉強しろ」
「いいんだよ。後宮では雪が滅多に降らない、ってカグワ様が直接教えてくれたし」
「自分で仕入れた知識以外は、ガセかもしれんぞ」
「そんなことないでしょ」
「なら、西国の主食はなんだ?」
「えーと……鶏肉じゃないの?」
「馬鹿。小麦だ小麦。肉を主食にするわけがないだろうが」
「えぇぇ、俺ずっとそうだと思ってた……! そもそも、オレークが教えてくれたんじゃないか!」
「そんなの嘘に決まってるだろう。お前が何も自分では勉強しないから、いつ気付くだろうと思って嘘を教えたんだ」
「嘘っ? 俺、カグワ様に西国は鶏肉が主食なんですよね、って言っちゃったよ!」
「ほう、それでなんと?」
「後宮はそんなことはなかったけれど、市民はそうなのかもしれないわね、勉強になったわ、って! 嘘教えちゃったよ!」
「なら巫女君が気付くまで黙っておこう」
「駄目だろ! ちゃんと訂正しておくよ」
ひどいや、と嘆くユーリを見て、この弟分もまた、よく巫女に懐いていると思った。
彼も、そしてシルディアも、まさか軍があの少女を殺す算段を立てているとは夢にも思うまい。そしてそれを知った時、彼らの嘆きやいかほどのものだろうか。オレークが決して軍に逆らえないのと同じように、彼らも軍に逆らうことはない。殺される少女を、彼らは救うことができないだろう。
「あ……処刑だ」
窓辺に立っていたユーリが、ふと気がついたように窓の外を眺めて呟いた。
窓に寄りかかって物思いに耽っていたオレークもまた、自分の熱で曇った窓越しにその光景を見やる。
小間使いの休憩所は、丁度王宮の処刑場の見えてしまう位置にあった。皇室をそのような位置に置くわけにはいかないから、彼らの部屋が処刑場向きに作られたのは自然の成り行きと言える。ゆえに小間使いたちはたびたびその光景を目にしてしまうが、当然好んで見ることはなかった。
「……嫌な物を見てしまった」
ぽつりとユーリは呟いて、視線を逸らした。人が人の命を奪う、処刑——軍国になってからというもの日常的に行われる光景であるとは言え、気持ち良いものではない。そうだな、と呟いて、オレークは目をそらさずにその光景を見つめた。目を逸らしたユーリは薄汚れた床を睨みつけて、呟く。
「軍人の神経はわからないな……戦で他国の人間を殺し、処刑で自国の人間まで殺す」
「だがこの国では、軍人が最も強いし、位も高い」
「そんな強さはいらない。どんなに位が低くとも、俺は人の世話をする仕事がいい」
窓に背を向けたまま、ユーリはそう言った。その通りであるとオレークも思う。軍人になる利点とはなんだろう。地位か、金か、権力か。オレークも、そんなものは何一つ欲しくない。だが、世話役である自分が果たして今、誰かの役に立っているのかといえば、それも定かではない。結局、軍の言いなりになっている自分もまた、軍と同罪なのかもしれない。
オレークはなんとはなしに処刑を見つめていた。巨大な斧で首を落とされるその光景は、何度見ても惨たらしい。一度では人の首は切れず、少なくとも二度は斧が落とされる。一度で死ねればまだいいが、それで死ぬことのできなかった人間のもがき苦しむ様は目も当てられない。残酷な首のない死骸が、いくつもいくつもその場に積み重ねられて行く。
(——多すぎやしないか)
ふと、オレークは気が付いた。処刑を終えて積まれて行く死骸の数が、多い。処刑の成された日のうちにその死骸は葬られるから、積まれている死骸が昨日おとといのものである可能性はないだろう。あれは全て、今日のうちに殺された残骸だ。
(……ざっと見て、五十はありそうだ)
オレークは目を細めて、その数を概算した。将軍はあと百近くの人間を始末しなくてはならないと言った。そしてそれを急いでいるとも言った。しかし将軍は、なるべく細かく分けて行うと言ったはずではないか。なのに、もうすでに半分以上の人間を一日で始末したことになる。
「……オレーク?」
窓の外、処刑場を見つめて難しい顔をしているオレークに気づき、ユーリもまた眉をひそめた。なにがあったんだ、と問うてくる。オレークはゆっくりと立ち上がった。その間にも、次々に国賊たちが斧で首と落とされてゴミのように捨てられて行く。
——皇太子殿下は、人の死に敏感だ。
——死んだ人間の魂や心を、『力』が吸収してしまうため、敏感だ。
——皇太子殿下は近辺で大量に人が死ぬと、情緒不安定に陥る。
——そしてその不安定が極限に達した時、『力』が暴発する。
——『力』の暴発は、只人には止められぬ、まるで天変地異のようなものだ。
——それは周囲の人間さえ巻き込み、最悪、その命さえ奪う。
(厭な予感がする……)
次々に過る予感を振り払い、オレークはひとまず処刑場の方へ向かい、事の子細を尋ねようと歩き出した。が、オレークが歩き出そうとした、その時である。——予感は的中した。
ぐらり、と突如皇宮自体が大きく揺れた。
「うわっ……なんだ?」
地震か、とユーリが辺りを見回している。それも致し方ないことだ。皇宮の中でさえ、この時折起こる天変地異の正体を知る者は少ない。
「……だから、多数殺せば免れぬと言ったのに」
オレークは小さく呟いて、休憩所を飛び出した。天変地異の正体の傍に、小間使いや女中がいるとまずい。巻き込まれる可能性がある。
「オレーク!」
驚いた顔をして、慌てて彼に続いて休憩所の外へ飛び出した弟分は、そのただごとではないという様相に気付いたようだった。そして何事かはわからないまでも、兄貴分の後に続こうとする。
「お前は此処にいろ!」
「どうして!」
「付いてきたところで役に立たんからだ!」
オレークはそう叫んだ。弟分は目を丸くする。未だかつて、オレークにこうも拒絶されたことがなかったためだろう。
そんな、と衝撃を受けた彼を見て、小さな罪悪感が芽生える。別に彼を役立たずだと貶したつもりはなかった。ただ、この天変地異を前にしては、役に立つ人間などいない。当然、オレークも含めてそうだ。だが、オレークには周囲の人間を隔離するという義務がある。否、待てよ。ふと、オレークは思いついた。大抵の人間はこの天変地異を前に、役に立たない。——だが、彼女ならば。
「ユーリ! 巫女君は今、中庭にいるのだと言ったな?」
「え? あ、ああ! 行くと言っていたから……!」
オレークは上階——皇太子の部屋のある階へと向かって走りながら、叫んだ。
「すぐに、巫女君を殿下の部屋へ呼んでくれ……! 殿下を助けてくれ、と!」
ユーリはさらにいっそう目を丸くして、だが、即座に頷いた。「わかった!」という声とともに、彼の走り去って行く足音が響く。いちかばちかでしかなかったが、あるいは彼女ならなんとかできるかもしれないという、一抹の期待を抱いた。
オレークは冷たい石段を駆け上り、皇太子の元をまっすぐ目指した。オレークはすでに何が起こっているのか、そしてその原因が何であるかを知っている。そしてそれが起こった時の対処法も、皇太子から授かった。故に、天変地異を止めることはできなくとも、巻き込まれて害を受けることはない。だがしかし、何も知らない人間は、害を受ける。——最悪、死に至る。
そしてその死がさらに災いを肥大させてしまうので、なんとしてでもオレークは被害者を出さぬよう、人々を隔離しなくてはならなかった。故に、走る。
これがオレークの仕事であり、役目であった。そしてそれ以外の何でもなかった。