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13、闇

 自室を飛び出したカグワは、まっすぐシルディアの部屋を目指した。この皇宮に囚われてから日も経って、この道にも慣れたものである。それにしても、暖房器具のない廊下は寒い。カグワは薄手のドレス一枚で部屋を出てきてしまったことを後悔しながら、肌寒い廊下を早歩きで抜け、まっすぐ皇太子の部屋のある階へと向かった。

 部屋に残してきたユタヤの様子が気にならないわけではないのだが、だからと言って引き返すわけにはいかない。引き返したところで彼にかける言葉も見つからない。それに、シルディアの料理について説明をしなくてはいけないことは事実なので、まずは彼に会いに行くことにした。ユタヤについては、それから考えよう。


 皇太子の部屋の階にある十数個の部屋は、ほぼ全てが皇太子シルディアの私室であった。寝室の他にも遊戯室や、食堂、ホールや公務室などもある。しかし、寝食を含めた大概の生活が広い寝室一つで賄えてしまうため、シルディアは他に用のない場合ほぼ一日の全てをその寝室で過ごしていた。ということも、すでにカグワは知っている。

 夕日が空を赤く染める頃、そろそろシルディアも夕飯を食べる頃合いであろう。それはそれは立派な食堂を持っている彼であるが、恐らく今日の夕食もいつも通り寝室の中で取るはずだ。カグワは食堂の横を素通りして、まっすぐ廊下の突き当たりにあたるその寝室の扉の前へと歩を進めた。そして辿り着くと、とんとんとその巨大な扉を叩く。

「シルディア? カグワです。入ってもいいかしら?」

 扉に顔を近付けて中に聞こえるようにと声を張り上げると、すぐさま内側から返事があった。

「いいよ。勝手に入ってきて」

 はつらつとした声だ。機嫌がいいのだろうか。

 了解を得たカグワはゆっくりと巨大な扉を開くと、部屋の中へと足を踏み入れた。

「お食事中だったらごめんなさい。どうやら昼間、私の部屋に来てくれたみたいだけど、丁度その時いなくて。というのも、実はね……」

 貴方が今食べてるご飯を作っていたのよ、と続けようとして、カグワは口を噤んだ。確かに部屋の中から声はしたのに、彼の姿がどこにもない。それどころか、寝室に置かれた食卓の上には途中まで夕食の用意をした痕跡があったが、それだけであり、夕食の用意をしてくれるはずの小間使いの姿さえ見つけられない。

「……シルディア?」

 一体部屋の主はどこにいるのだろうかと部屋の中を見渡していると、「ちょっと待っててくれ」という彼の声が響いた。その声は、どうやら部屋の中央に置かれた寝台の上から響いている。その方向へちらりと目線を向けると、寝台には天蓋から紗幕が完璧に下りており、その中が見えないようになっていた。彼はあの中にいるに違いない。

 夕食の準備すら途中にして、小間使いは一体どこに行ってしまったのだろうかと不思議に思いながらも、カグワはその寝台へと近付いた。とりあえず彼がそこにいるのなら、事情は彼から聞けばいい。

 そう思って彼女は寝台へと近付いて、しかしふと、足を止めた。部屋に入ってきた時は気付かなかったが、寝台の方へ近付くと、徐々に聞こえてくる音がある。——ぎしぎしと寝台の軋むような音と、そして若い女の吐息のような溜め息のような妙な声だ。

 なんだろう、とカグワは首を傾げた。「なにしてるの」と言って寝台の方を覗いてもよいものか、いやしかしシルディアは「ちょっと待ってて」と言ったのだからそれに従い待つべきなのか。迷いながらも、一歩一歩カグワは寝台の方へと近付いて行く。近付くにつれ、女の声が鮮明に聞こえるようになった。吐息混じりに「殿下」とシルディアを呼んだり、「もうやめて」と否定を述べたりするが、あまり嫌がっているようには聞こえない。まるで若い女が媚を売るような声である。

 が、カグワが寝台のすぐ傍までくると、その声が止まった。代わりに、喚いていた女が走り回った後のように息を切らしている。一体何が起こっているのだろうかと、カグワがついに紗幕を開こうかと手を伸ばすと同時に、内側から紗幕が開かれた。

 しゃっという軽快な音とともに、中から現れたのはこの部屋の主である、シルディアだ。彼はどことなく乱れた金の髪をかきあげた。どことなく艶っぽいその仕草に、嫌な予感が走る。

「お待たせ。悪いね、女中が本気になるものだから」

「本気?」

 彼の言葉の意味がわからずに問い返すと、シルディアは不適に笑んだ。そして、紗幕をさらに大きく開くなり、自分の後ろ、寝台の上に転がっている女に向かって声をかける。

「ほら、立て。西国の巫女君の前で失礼だと思わないのか」

 カグワはその女の姿を見て、動転した。

 以前、シルディアの部屋を訪れた時にも寝台の方から出て来た女中であった。シルディアが「暇つぶしに遊んでいた」と言ったあの女中である。

 女の纏っていた衣服はあられもなく乱れ、あちらこちら肌が露出している。特に下半身の乱れがひどく、大きく開脚された下肢の間まで見えていて、当然他人のそんな箇所を見たことなどなかったのでカグワは慌てて目線を逸らした。

 女はゆっくりと起きあがると、乱れた服を必死で整えながら、寝台から下りる。よろよろとその足取りはおぼつかない。

「夕飯の支度は後でいい。今は席をはずせ」

 皇太子にそう命じられ、「はい」と女は弱々しく頷くと、はあと大きく深呼吸してから、やはりおぼつかない足取りで部屋を出て行った。その後ろ姿を見送りながら、どきどきとカグワの鼓動は波打って止まらない。

 一方のシルディアは涼しい顔をしていて、誰もいなくなった寝台の上に腰掛けるとすらりと足を組んだ。彼は乱れた白金色の髪を撫でながら、こちらを見上げてくる。

「話を途中で遮ってしまったね。俺が君の部屋を訪れた時、いなかったのは、何をしていたからだって?」

「え、と……貴方の夕飯になる料理を作っていたからだけど……」

 だから少々味が悪くても許してね、と茶化しに来たつもりが、そんな文句は全てどこかへ吹き飛んでしまっていた。そもそも夕飯の準備がまだ整ってもいないのに、そんな話をしても仕方がない。

 すっかり動転しきったカグワの様子を見て、シルディアはくすと笑った。彼は澱んだ青い瞳を細めて、少女を見上げる。

「さっきの女が気になる? 大丈夫さ。快楽が行き過ぎただけだ」

「え……」

「さすがに今回は意味がわかるだろう? それとも巫女を育てる後宮では全く教わらないのか?」

 そんなことはないけど、とカグワは口籠った。

 実際、さすがのカグワにも、今回は彼が一体何をしていたのか予想がついた。女ばかりの後宮ではあるが、教養として命の生まれる過程は教わる。だが、だからと言って当然その現場を見たことなどなく、ましてや経験などないわけで、動転していた。

 そんなカグワの心を読んだように、シルディアが呟く。

「知識としては知っているが、実際にどのようなものかは知らない、といったところか。——俺が教えてやろうか」

「え?」

 どういうこと、と尋ねるが早いか、シルディアに腕を引っ張られてカグワはバランスを崩した。そのまま転がるように寝台の上に押し付けられて、思わず目を瞑る。が、思ったほどの衝撃はなく、いかに彼の寝ている寝台が柔らかな物であるかを知った。

 目を開くと、自分の上に覆いかぶさるようにして、シルディアが寝台の上に四つん這いになっていた。さらりと金髪が流れて彼の顔に影を作る。

「カグワは十五だったけ……まだ幼いが、できない体の作りではない」

「なに……」

「まあ、色香はないが、顔立ちは悪くないし、なにより巫女であるという事実がそそるじゃないか」

 彼の言う言葉の意味のほとんどを理解できずに、カグワは目を白黒させた。ただ、彼によって体の自由を奪われて今は逃げることは愚か動くことすらままならないという事実だけは、理解できる。シルディアはそんな少女を見下ろしてくすと笑った。

「怖がることはないよ……俺は幼少期から、この行為の精緻なやり方ばかりを教わった。だからさっきみたいに女を腰砕けにするなんて造作もないことだ。それは例え純潔の少女が相手でも変わらない」

 いい思いをさせてやる、と彼は尚笑うが、ふと、その笑顔の中にカグワは影を見た。なんだろう、まるで彼自身が闇に飲み込まれてしまっているみたいだ。その闇に気付いた瞬間、カグワは抵抗することをやめた。少年は、影の中で囁くように、言う。

「皇宮の外では連日人が死んで行く。奴らは望まずして命を落として行くんだ。それなのに、皇宮の中に生まれた俺は、命を作れと言われる。連日連日、女をやりたい放題だ。女どもも喜んで俺に組み布かれる。俺にとっては作業みたいなものさ――だからカグワも安心していい。君は初めての行為にして快楽に溺れられる」

 言って、シルディアはカグワの纏っている薄手のドレスに手をかけた。着衣の楽な衣服だった故に、簡単に脱げてしまう。その下から肌着が覗いた。カグワはその慣れた手付きでなされる一連の動作を、どこか俯瞰した心地で見ていた。——彼は一体何をしている?

「巫女は純潔でなくてはいけないとか、そういう決まりはある?」

「決まりは……特にないわ。純潔を奪われることもないけれど」

「なら、今夜初めて奪われる。いいじゃないか。その相手が隣国の皇太子だなんて、派手な醜聞だ。国際問題になるかな?」

「さあ……私にはわからない」

「少なくとも、君の仗身は怒るだろうな」

「……ゆたやが?」

「そうだ。俺が君の肌に触れて穢したと知れば、激怒するに違いない」

「ゆたやは……」

 言って、カグワは別れ際、こちらの方を振り返ろうともしなかった彼の顔を思い描いた。今、彼が何を悩んでいるかカグワは知らないが、彼の忠義はとてつもなく厚い。確かにカグワが泣き叫んでシルディアに無理矢理組み敷かれたのだとしたら、彼は激怒するだろう。だが、カグワは自分の上に覆い被さって次々に衣服を剥いでいくこの男に対して、何故か全く抵抗する気が起きなかった。

「ゆたやは……怒らないわ。私が貴方を受け入れたのだとすれば」

 そう呟くと、シルディアの動きがぴたりと止まった。彼は表情を失い、まっすぐとカグワを見下ろした。そして、手元からドレスを取り落とす。ぱさり、とそれが寝台の毛布の上に重なった。

「……受け入れるのか?」

「拒絶する理由が見つからないもの」

「……だとしたら、仗身はますます怒るだろう。いや、怒るのではなくやりきれない気持ちに苛まれるかな」

「どうして」

「どうして、と聞くか。仗身が仗身なら、主も主だな。君たちは立派な男と女でありながら、傍に寄り添って、何も感じないのか」

「だって、それが私たちにとっての日常だもの。男だとか女だとか、巫女だとか仗身だとか、そんなもの、何一つ関係ないわ」

「君がそう思っていても、向こうはそうじゃないかもしれないよ」

 吐き捨てるように言って、彼は少女の体を撫でる。カグワはそれにすら反応せずに、ただ茫然と目の前の男を見つめていた。彼の瞳の奥で時折揺らぐ「闇」の存在が気になって仕方ない。彼は一体どうして、こんなことをしているのだろう。これは命を育むための艶かしい交わりなどではない。——まるで何かから逃れるために必死に縋るような、そんな行為だ。

 体に触れても何の反応もしないカグワを見て、シルディアはふと動きを止めた。そして、首を傾げる。

「君は……本当に不思議だね。拒絶もしなければ受け入れもしないのか」

「……どうしていいかわからないから」

「突然男に押し倒されたりなんかしたら、大抵の女は恐怖から拒絶するか、あるいは望む所と喜ぶ場合もあるけど……そのどちらでもないんだね」

「だって私にはこの行為の理由がわからないんだもの。……貴方が命を宿すために連日女を組み敷いているのだとしても、その相手が私では意味がないわ。私は西国の巫女だから」

 皇太子には跡継ぎを作る義務がある。それならそのための女が必要だ。それは少なくとも、カグワではない。西国の巫女との間に子供が生まれたとて、それは北国の世継ぎにはならない。故に、この行為は無意味だ。それはシルディアとてよくわかっているはずなのに。

「喜びはしないわ。この行為では何も生まれないから。恐怖もないわ。怯えているのはシルディア、貴方の方だから」

「なに……?」

 カグワはゆっくり腕を持ち上げて、自分の上に被さっている彼の顔を、そっと撫でた。その瞳は、何かに怯えている。何か——己の中に潜む「闇」の存在に怯えているのだろうか。

「貴方は……救いを求めているんだわ。闇に飲まれるのが怖くて、誰かに縋りたい。でも、その縋り方がわからないのよ」

 シルディアは驚いたように目を見開いた。彼は触れていたカグワから手を放し、起きあがる。そして目を丸くしたまま、カグワを見つめた。

「だから、夜な夜な女を組み敷くのね。跡継ぎが必要だからと理由を付けて。本当は、別に跡継ぎなんてどうでもいいのよ。ただ、人肌が恋しいの。誰かに抱きしめて欲しいのよ」

 シルディアが退いて体の自由がきくようになり、カグワもゆっくりと起きあがる。脱がされたドレスは寝台の横に落ちてしまっているが、気にしない。下着姿のまま、前へと身を乗り出して、彼の顔を覗いた。

「シルディア、貴方は愛が欲しいのね」

「愛? 愛なんて、俺は……」

「このまま貴方に組み敷かれて純潔を捧げるのは簡単よ。別に私はそんなものに固執していないもの。まかり間違って貴方の子を宿したっていいわ。私は巫女だから、新しい命を厭う理由もない。だけど、それは貴方のためにならない」

「俺のため、だと……?」

「お可哀想な皇太子殿下、一人で夜を越えて、たくさんの不安を抱えて。何も知らない数多の女たちにそうやって同情されて、体を捧げられて、それで満たされる? いいえ、そんなはずがない。だって、同情は愛ではないから」

 シルディアは首を横に振った。カグワは淡々と言葉を紡ぎ続ける。

「貴方は本当は、誰かに愛してほしいのね。皇太子だからともてはやされて、誰も自分のことなんて考えてくれない」

 聞きたくない、と耳を両手で押さえ、シルディアの細い体が怯えるように震えた。カグワはそんな彼の背中を撫でる。

「ただ『力』があるからと軍からは武器のように扱われ、何でも思うがままに、とこの皇宮に幽閉される。女たちは喜んで体を明け渡すけれど、それは貴方を理解して心から愛しているからではないわ。貴方が皇太子だからよ」

「……やめろ」

「誰も貴方のことをわかってくれない」

「……やめろと言ってるんだ」

「誰にも理解されない可哀想な皇太子さま。だからどうやって他人に縋っていいのかもわからない」

「うるさい! お前にだって、わかるものか!」

 シルディアは金切り声で叫んだ。きっ、とカグワのことを睨みつけて、頭を抱える。まるで何かに追いつめられた小動物みたいに、体を丸めた。かと思えば、今にも泣きそうな顔で、まくしたてていく。

「お前にだって、わかるもんか……! 俺には聞こえるんだ、民の声が……。死んで行く、人間たちの声が……!」

 カグワはかつて、シルディアの語った言葉を思い出した。


 ——見たくないのに見てしまう。聞きたくないのに聞いてしまう。やりたくないことをやってしまって、それを止めることができない。


 彼はそれを、『力』の暴発と呼んだ。確かに『力』の成せる技の中には、他人の心を読むものや、未来や過去を見るものがある。彼は自分の『力』を制御できずに、死人の心を読んでしまう。

「誰も彼もが、皇太子に、俺に救いを求めてくる……! 死んだ人間の魂が、夜な夜な俺に襲いかかってくるんだ! 助けてくれ、救ってくれ皇太子様と! 御慈悲を、と! まだ生きていたい、死にたくない、やり残したことはたくさんある……! 命を寄越せ、命を寄越せと……!」

 だけど俺にはどうすることもできない、と彼は言った。聞こえるだけで、どうすることもできないと。

「俺は皇太子だ……人並み外れた『力』も持っている……だけど、何もできやしないんだ! 人の命を救うことも、戦争を止めることも……! なのに誰も彼もが俺に救いを求めて、死んだ後にも彷徨って俺のところへやってくる。誰一人、俺を救ってはくれないのに……!」

 嗚呼、そうか、とカグワは彼を見下ろして氷解した。

 この可哀想な少年は、愛を知らないのだ。親の愛を知らない。兄弟の愛も知らない。無償の愛を知らない。皇太子、ともてはやされることは、愛ではない。

「シルディア……」

 今にも泣き出しそうな彼の背中を撫でて、次には綺麗な金髪を撫でて、カグワは優しく囁いた。彼の抱える闇を溶かすことができるのは、無償の愛でしかないと、思ったから。

「キスを、しようか」

 え、と拍子抜けした声がして、彼は顔をあげた。実年齢よりもいくつも幼く見えるあどけない眼差しで、カグワのことを見上げる。カグワはにこりと笑って、彼の髪を撫でた。そして、その綺麗な前髪をかきわけて額を出す。

「寝る前に、嫌な夢を見ないように。見たくもないものを見てしまわないように。聞きたくないものを聞かないように。おまじないの、キスよ」

 そう呟いて、カグワは彼の額にそっと唇を押し付けた。まだ記憶も定かではないほど昔、幼少の頃に、母が自分にそうしてくれたみたいに。また、後宮にきた後も、母代わり姉代わりとなったロマーナが毎晩そうしてくれたみたいに。

 不思議なもので、子供はこれだけで安心して夜を過ごせるのだ。そして隣に母が寄り添って寝てくれるだけで、嫌な夢の一つも見ない。それは巫力の修行にはならないが、幼子にとっては重要だった。そしてこの少年は、幼い頃から無償の愛を経験せずに育ったために、夜な夜な生まれ持った強大な『力』の働きで、未来の夢や過去の夢、そして見知らぬ人間の夢にまで同調してしまうのだろう。やがて、人の苦しみばかりを吸収してしまう。

「ね? これでもう大丈夫。一緒に寝ましょう?」

 シルディアはまるで憑き物が落ちたかのように邪気のない顔をして、目をぱちくりさせている。カグワはもう一度丁寧に彼の額に口付けて、にこりと微笑んだ。寝るにはまだ早い、ようやく日の落ちた頃だけれども、いいだろう。夕飯も食べていないわけだが、きっと朝には空腹で健康的に目が醒めるはずだ。

 カグワがころりとベッドの上に横になって手招きすると、それに誘われるようにシルディアもころりと横になった。先刻カグワを組み敷いて衣服を脱がして行った時の彼が嘘のように、大人しい。カグワの言葉に逆いもせずに、寝台の上に転がった。

 それでもまだ不安な顔をする彼を、カグワは転がったままぎゅっと抱きしめた。母親が子供を抱くように、彼を胸に抱いて、落ち着けるように背を撫でる。すると、途端に彼の顔から不安の全てが溶け出して行くのがわかった。瞳の奥に潜んでいた『闇』も、今はもう、見えない。

 安心しきった子供のように、彼はやがて穏やかな眠りの中へと落ちて行った。さすがに彼が何の夢を見ているのかは、カグワにもわからない。だが、その穏やかな寝息から、悪夢にうなされているわけではないことは明らかだった。

 気付けばいつのまにやらシルディアはカグワの肌着の裾を掴んで離さず、そのまま寝入ってしまったようだった。これではそっと彼を置いて帰ることもできない。

(……まあ、いいか)

 その大人しい寝顔を見下ろして、カグワはそう思った。夕飯を用意して置いておいてくれているはずのユーリには申し訳ないが、今日はこのままここで寝てしまおう。そして彼と一緒に朝を迎えよう。そうすればきっと、彼の中の闇も完璧に浄化されるはずだ。

 そう結論づけて、カグワもまた、瞑目した。やがて緩やかな時の流れの中で、睡魔がゆっくりと押し寄せてくる。

 カグワは穏やかな眠りの中へと埋没していった。


 少女はその頃、この北の大地でどのような動きがあったのか、何も知らない。

 北の軍国が、どのように駒を進めているのか、何も知らない。

 どれだけの人間が北の国で殺されているのか、何故殺されるのか、何も知らない。


 そして、今頃自室の中で、仗身である青年がどのような想いを抱いて彼女を待っているのかということさえも、何も知らずじまいであった。

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