10、無償の愛
仗身の心得——いかなる時にも主の後ろを離れず、主の危機を逸早く察知し、己の身を捨てても主を護るべし。
その心得を胸に刻んでもう幾年の月日が過ぎたことだろう。まだ一桁の年の頃から、主を護ることを心に誓って今まで生きて来たが——青年は今、誰もいないがらんどうの部屋の中に一人取り残されている。
ユタヤは、主のために用意された広くて落ち着かない部屋の隅、窓際にあぐらをかいて座ったまま、ぼんやりと外の景色を見つめていた。
カグワを追って時空の狭間に飛び込み、共にこの北の地へ投げ出されてから、そろそろ十五日が経とうとしていた。
カグワが皇太子や将軍と謁見をしたあの日からも数日過ぎて、カグワは人質としてここに囚われていることを逆手に取り、やりたい放題だ。少女は、人質であるからには危害を加えられることはないだろう、と踏んで、自由気ままに皇宮の中を徘徊する。それでも初めのうちは、何があるかわからないから、と彼女の勝手な行動を案じていたユタヤであるが、あまりにも彼女が奔放なものだから、最近では案ずることすら馬鹿らしく思えるようになった。
あの後宮にいた頃と何も変わらない。カグワの君は自由だ。
そして今日も取り残されたユタヤは一人、部屋の窓辺に佇んでいた。日は高いが、窓ガラスを一枚隔てた向こう側は恐ろしく寒い。秋も深まり、この北の地では昼間でも気温はそこまで上がらないという。夕方になってもまだ戻らぬようなら、彼女を探しに行こうと決めて、しばらくは窓辺で休むことにしていた。彼女には彼女の思惑があるのだろうから、あまり無闇にそれを邪魔してもいけない、と思う。
なにがなんでも主を護ろうと、時空の狭間に飛び込みここまでやってきたが、獣を封印された自分は今とても、無力であった。武器となる刀たちも、西の国で変化した際に全て置いて来てしまった。
北の地はなにもかもが『力』によって統一されていた。実際にはどうかわからないが、ユタヤはそういう印象を受けていた。故に、ユタヤにとってはこの皇宮の廊下を歩くことでさえ恐ろしい。『力』とは見えない圧倒的な何かである。見えない何かを恐れるのは、生き物としての本能だ。
そんな中で、カグワは強かった。カグワ自身も巫力を封印されてしまっているはずなのに、カグワは見えない何かを恐れない。そんな状況下で、カグワのことを自分が護ってやるのだと思うこと自体がおこがましくも思えるくらいに、彼女は強かった。
カグワを護るのだと、それだけを目的に生きて来たユタヤはその任務から解放されてしまうと他にやることもなかった。仕方なく、ぼんやりと外を眺めている。寒さから逃れるために二重に張られた窓の外、それまで高く昇っていた太陽が、雲によって覆われた。天気がくずれそうだ。ひょっとしたら雪が降るのではないか。
ユタヤに近い部分だけ、窓が結露していた。ユタヤの体温で暖まっている所為だろう。その白く曇った硝子をなんとはなしに服の袖で拭おうとした、その時、不意にトントンと扉がノックされた。
こんな時間に誰だろう、と思う。カグワの面倒を見てくれている小間使いのユーリなら、今カグワが部屋にいないことは知っているはずだ。他の誰が来たにしろ、当然用事はユタヤではなくカグワにあるはずで、今此処にカグワはいないのに、と困惑していると、扉は無遠慮に開かれた。
「あれっ? カグワ、いないの?」
大雑把な仕草で開かれた扉の向こうから現れたのは、なんと、この国の皇太子であった。
何故こんなところまで、とユタヤは面食らう。今までにも何度かカグワが彼の部屋へと呼び出されたことはあったけれども、彼が自らわざわざ此処まで足を運んで来たことは、一度もなかった。
「申し訳ございません、殿下……今、かぐわの君は皇宮内を散策中でして」
ユタヤは慌てて窓際から彼の方角を向いて膝をつく。皇太子シルディアは今しがた自室から出て来たのか、皇太子とは思えないような軽装をしていたが、それでも放つ気迫は皇太子以外の何者でもない。
「散策中? 一人で?」
「はい」
「護衛も連れず?」
「ええ」
「不用心だな……人質だから滅多なことがない限り害されることもないだろうとでも思っているのかな」
「いかにも……」
「まあ、事実、そうだろうけどね……特にこの皇宮内には軍人もいないし、安全だ」
そう呟いたシルディアは、カグワのいないことを知って諦めて部屋を出て行くかと思えば、ずかずかと部屋の中央までやってくると、食卓の椅子を引いてどかりと座った。彼は堂々と足を組んで、頬杖をつく。
「カグワが出て行ってからどれくらい経つの?」
「……朝食を取ってすぐ後ですから……そろそろ二刻は過ぎるかと」
「へえ。じゃあそろそろ帰ってくるかな」
「さあ……それは私にも存ぜぬことでありますが」
「まあいいや。ちょっと此処で待つよ。何か暖かい飲み物はない?」
「……今すぐに」
まさか皇太子ともあろう身分の人間が、こうも安易に居座ろうとするとは思いもしなかったため、内心動揺しながらもひた隠し、ユタヤは立ち上がった。今朝ユーリが置いて行った茶の葉と、暖炉にかけられた湯がまだ残っている。主の身を護るのが仗身の本業とは言え、茶をいれることくらいなら満足にできた。
食卓に座ったまま興味深そうにきょろきょろと部屋を見回しているシルディアは、この部屋の内装を見るのは初めてのようだった。皇太子とは言え、さすがに皇宮に無数にある部屋一つ一つの内装までは知らないのだろう。
「……思ったほどは、広くないんだな」
ぽつりと皇太子は呟くが、とんでもないことであった。もともとカグワの住んでいた後宮の三の宮にさえ、此処まで広い部屋はなかった。
「此処に二人でいるのは狭くない?」
「……西国ではこれほど広い部屋はいくら巫女の君と言えどお持ちではありませんでしたゆえ……狭いと感じたことなどございません」
「そう? でもベッド一つしかないじゃない。二人で寝てんの?」
「まさか。私には床の上で十分でございます」
「ふうん」
どことなくつまらなさそうに答えた彼の前に、注いだ紅茶を差し出す。これでユタヤの役目は終わりだ。カグワを待つという皇太子の邪魔にならないようにと部屋の端に控えようと身を引くと、「待てよ」と皇太子本人に止められた。
「ちょっと、お前とも話してみたかったんだよね」
「私と、ですか……?」
「おう。だって俺、獣人って見たことなかったからさ」
北国には、全く獣人がいないのだという。ユタヤも知識としては知っていた。
「ちょこっと話をしようよ。向い側、そこ、座れよ」
言ってシルディアの差した先は、彼の座っている食卓の向い側だ。皇太子と対面することになる。ユタヤは慌てて首を横に振った。
「滅相もございません……私は後ろに控えておりますゆえ、気になることがあれば何でもお申し付けください」
「まあ、玉座に座っているならそれでもいいんだけどさ……此処、ただの食卓だろ。後ろに控えられると茶が飲み難くて仕方ない。誰も見てないんだし、いいじゃないか。そっち座れよ」
まるでかぐわの君のようなことをおっしゃる、と思いながら、ユタヤは仕方なくその言葉に従った。とは言え、ユタヤの主はあの奔放なカグワである。このような高貴な身分からの異例な指図にはすっかり慣れていた。
「名前は確か、ユタヤ、だったよな」
「私なぞの名前までも覚えておいでですか……恐縮であります」
「覚えてるよ。カグワの口からしょっちゅう聞くからね」
「……勿体ない」
「随分とへりくだるじゃないか。俺、よくわからないんだけど、仗身っていうのはそんなに下役なのか?」
「仗身が、というよりも、我々巫女の仗身は獣人と決まっておりますから。獣人は、本来高貴な御仁と話せるような身分ではございません」
「へえ、不思議だ。獣人は差別されてるわけだ」
「……我々は、人でありながら、畜生類でもありますゆえ」
「あー、聞いたことがある。西国では獣人を蔑んで人畜と呼ぶこともあるとか」
「……」
ユタヤはシルディアの対面に座ったまま、表情の一つも変えずにそっと目を伏せた。初めて獣人の獣の姿を見た人間は大概それを「化け物」と呼ぶ。そのためか、獣人そのものを人畜と呼ぶ人間もいるらしい。が、幸か不幸か、まだユタヤは直接それを言われたことはない。
「俺からすれば、『力』を持つ人間も獣人も等しく化け物だと思うけれどね。人智を越えたなにかを『力』と呼ぶのなら、獣人のそれだって同じ『力』だろうと」
しれっと言うシルディアは、確かに化け物並みの『力』を所持していた。だが、だからと言って彼の『力』と獣人を並列にしても良いものか。
「我々の「獣」は、いわゆる『力』とは異なり、自意識で操れるものではありません。今でこそ殿下や巫女君の術によって「獣」を制御しておりますが、術さえ解けてしまえばただの獣と同じ」
「あはは。それこそ俺と一緒じゃないか。俺もたまに自分の『力』が制御できなくなって困ることがあるよ。そのたびに犠牲者がでる」
「……私には殿下のお持ちのような『力』のことはよくわかりませんが……それでも殿下が人であられることには変わりありますまい」
「なるほど。確かに俺の『力』は暴発しても、俺が俺であることに変わりはないな」
シルディアは頬杖をついたまま、面白そうに笑った。その『力』を含んだ強い眼差しにはまっすぐとユタヤの姿が捕えられている。
「一つ疑問なんだけど、獣人っていうのは結局人なの? 獣なの?」
「……そのどちらとも言い難い存在です。どちらにもなり得ると」
「まあ、そうだよなぁ……今でこそ姿は完璧に人だけど、獣にもなれるわけだし。人にしては力が強すぎるってカグワも言ってたし、でも考える脳は人のものだろう」
「……はい」
「でも、基本的には、人の姿をしている時は機能は人と同じっていうことだよな?」
「はぁ、基本的には……」
シルディアの質問の意図が読めず、ユタヤはひとまず頷いた。確かに人型の時には、二足歩行であり、人と同じ物を食べ、同じように喋る。基本的には人間と同じ機能をしていると思う。
そして、次のシルディアの質問に、瞠目した。
「ってことは、生殖機能はどうなるんだ? 人型だと、人間の男と同じなのか?」
「……は?」
全く予想していなかった問いかけに、口が縦に開く。獣人に関して興味を持って尋ねてくる人間は、主であるカグワを筆頭に、山といたが、それを尋ねられたのは初めてだった。
「お前、人で言えば十八なんだろ? 人間の娘に興味はないのか?」
「な、にを……」
「それともそこは獣の性なのか? 人間ではなく、同種の雌にしか興味はない、と」
「……」
言葉を失う。そんなわけないじゃないかと言い返したい気持ちもあるが、獣人を知らない相手に怒っても仕方がない。ユタヤは一つ溜め息を落としてから、冷静に答えた。
「……恐らく、人間の男と同じではないかと。少なくとも獣の性ではありません」
「ああ、そうなの。じゃあカグワと同じ部屋は辛くない?」
「……」
再び言葉を失った。何と答えて良いやら全くわからない。というよりも、どうしてそんなことを聞かれているのだろうと思う。よりによって皇太子殿下が、何故そのようなことを問うてくるのか。
その訝るような表情から、ユタヤの心を読み取ったように、シルディアは笑った。彼はカップの紅茶を飲みながら顔を傾けて、さらりとその金髪をなびかせる。
「皇太子ともあろう者が、下世話な話を、とでも言いたげだね。そうか、聖女の園だったという後宮では、こんな話をすることもなかったんだろうな」
「……御意」
「でもね、皇太子だからこそ詳しいのさ。俺は幼い頃から性について下世話なものではなく、神聖なものとして教わった。皇室の人間として、次期王として、俺の最も重要な役割は遜色のない跡継ぎを作ることだからね」
言われてみれば、至極当然のことであった。世襲でない巫女の世界では縁のない話であるが、皇室のように世襲の制度が布かれているならば、それは時代を創るための一大行事でもあろう。
「軍は、俺に『力』を発揮しろという。この国のためだ、『力』を使えという。皇室は皇室で、俺に子宝を作れという。この国のために立派な世継ぎを作れという。——そのどちらも、シルディアという一人の人間としての俺は見ていないんだろう」
同情を誘うようなその口ぶりに、些か困惑する。皇太子はそんなユタヤの様子など少しも配慮せず、「でも」と笑った。
「でも、カグワは俺のことを見てくれる。面白いことにね。誰も彼もが皇太子である俺を恐れるのに、カグワは少しも恐れない。普通の人間に戻ったみたいな感覚がする。いや、俺も普通の人間なんだなって気付かされる——な? お前もそう思うんだろう?」
同意を求められて、今度は迷うことなくしっかりと頷いた。
カグワは、獣人であるユタヤにも普通の人間と同じように接した。彼女を護らなくてはならない、自分は彼女の仗身だと強く自分に言い聞かせる一方で、彼女と一緒にいると自分が獣人であることなど忘れてしまいそうになることがある。自分は普通の人間なのではないかと——だがしかし、ユタヤの場合は、錯覚だ。
「しかし、私の場合は、普通の人間ではありませんから」
「だからこそ、感動も一入だろう。そういうところに惚れ込んで、彼女の仗身なんぞやってるんだろ?」
「確かに彼女の人柄には惚れ込んでおりますが、仗身である理由ではありません。むしろ、仗身であるからこそ人柄に惚れ込んでいるというだけのことで」
「人柄に、とかそういうことを言ってるんじゃない。不思議に思ってたんだよ。どうして、お前はあんなちっぽけな女に対してそんなにも献身的になれるのかなと。でもよくわかったよ。彼女は確かに魅力的だと思う。——そういうことなんだろう?」
ユタヤは大きく目を見開く。どういうことだ、としらばっくれることも出来たのに、それをしなかったのは生来の生真面目な性格ゆえであろう。というよりも、彼は何を言っているんだ、と思う。
「私がかぐわ様の仗身となったのは、まだ年端もいかぬ幼子の頃です。その頃より、私はかぐわ様をお護りするために生きるのだと誓ってきたのです」
「それは、彼女が巫力でお前の『獣』を封印していたからだろう? 一種の呪縛みたいなものじゃないか。その呪縛から解き放たれた今、何故お前は彼女に尽くす?」
「何故、って……」
「今お前の『獣』を封印しているのは俺だ。正確に言うならば、お前の主は今、俺じゃないか」
「それは……」
ユタヤは言葉に詰まった。考えたこともなかった。
確かに、巫女と仗身との誓約は、その『獣』の性を封じる事によって成立している。しかし、この北の国に来てカグワの『力』が封じられ、自分の『獣』までもこの皇太子によって封じられた時、一番最初に思ったことは、「このような状態で、どうやって巫女をお護りしたらいいのだろう」という不安でしかなかった。よもや、これで主が変わったのだなんて、思うはずもなかったのである。
ユタヤはしばし逡巡し、やがて静かに首を横に振った。『力』如何の問題ではないのだ。この胸に刻まれた誓約は、そうそう簡単に書き換えられるものではない。
「……それでも、私の主はかぐわの君です」
「それが妙だと言っている。あの女に惚れてる以外に、何の理由があってそうまで尽くす?」
「幼心に誓った、忠義です。ある意味では、それを愛と言い換えることもできましょう。ですが、それは殿下のおっしゃるような、男女間に芽生える愛ではありません。この方のためなら命を差し出してもいいと思える、忠義に基づいた無償の愛です」
「無償の愛……?」
シルディアの顔が、険しく歪められた。彼は肩肘をついたまま、己の頭髪をもてあそぶ。
「愛だとか、忠義だとか……そんなものが本当にこの世に存在することは、ないよ」
突如、彼の口調が静まり返る。その静かすぎる口調に、本能的な恐怖を覚えた。目の前に座っている少年は、どこを見ているともわからない虚ろな眼差しで、何かを捕えている。
「そういった飾り立てられた美麗句はね、必ず何かを覆い隠すための言い逃れでしかないんだ。忠義は、利己の益を隠し……愛は、性の欲求を隠す……。それはただの言い訳だ」
背筋がぞくと震えた。そして、気付く。皇太子は今、ユタヤを直接見ているわけではない。ユタヤを通して別の誰かを見ているのだ。ユタヤには彼の置かれている状況はわからない。だが、恐らく、彼は幾度も忠義を利己の益のために裏切られ、愛を性の欲求でしか味わったことがないのだ。故に、ユタヤの忠義を信じない。
「それでも私は、忠義と愛を巫女の君に尽くします」
負けるものかと強い口調できっぱり答えると、俯いていたシルディアがゆっくりと顔をあげた。彼は薄く笑って、「しつこいな」と言う。
「それが利己の益でないと、それが性の欲求でないと、どうして言える?」
「私が獣人であり、かぐわの君が巫女であるからです。獣人に利己の益などありません。何故なら我々の性根は利益など考えぬ獣と同じだから。そして巫女の君に対して性の欲求を覚えることもありません。彼女は最も神に近い、神の代弁者だ。俗世とは切り離された存在なのです」
「ほう。なるほどね」
答えて、シルディアは口元を歪ませた。よかったこれで納得してくれたか、とユタヤが安堵したのも束の間、シルディアの笑みが蔑むような表情へとみるみるうちに変化していった。その変化に、慄く。
「だけどね、ユタヤ。それは差別と言うんだよ。さっき俺は、西国では獣人は人畜と呼ばれて差別されているんだねと言ったけれども、最も己らを蔑視しているのは、お前ら自身じゃないか。自分を獣と言う奴が、獣以上になれるはずもない。その上、お前は主だと言ったカグワのことまで差別するのか。巫女だから神の代弁者だからと言って、彼女を普通の女と捉えないのは獣人を普通の人と捉えないのに匹敵する差別だよ。彼女とてただの人間だと、どうしてお前は言わない?」
「……そういうつもりでは」
「では、どういうつもりなんだ」
責めるような口調で問いかけられて、答えに窮す。口をぱくぱくと開閉させているユタヤを前に、シルディアはにっこりと笑った。
「不愉快だよ、ユタヤ。実に、不愉快だ」
その笑みに、他人を拒絶するような覇気を感じる。この場から逃げ出したくなるような、威圧感を覚えた。
「出てけよ」
ゆっくりと発されるその言葉に、目を丸くする。皇太子は再びゆっくりと、続けた。
「この部屋から、出て行け」
この部屋はそもそもカグワのために与えられたものであり、そこにいていいとユタヤに言ってくれたのはカグワであるはずで、そこにやってきた皇太子は部屋の主を待っていた身で、何故ユタヤを追い出すのか。などと様々な疑問の繰り広げられる理性と、しかしながらもととは言えばこの皇宮自体が皇太子の物だと諭す心もあり、思考が複雑に絡み合う。
だが、頭の中こそ混乱すれど、目の前の男に「出て行け」と恐ろしいほどの覇気を含んで言われると、本能的にそれに従わざるを得なかった。逃げ出したくなるような思いで——いや、ユタヤは部屋から逃げ出した。
失礼いたします、と最低限の礼儀作法だけは徹底し、頭を下げて部屋の外へと飛び出す。当然、行く宛などない。
心臓が壊れるのではないかと不安になるほど、激しい音をたてていた。
——殺されるかと思った。
そんなわけがない。そんなわけがないとはわかっている。だが、あの皇太子の目で睨みつけられた時、そんなわけがないのに、命の危機を感じた。
武器など何も持たずとも、あの男はその目線だけで、人を殺めることができるのではないだろうか。
ユタヤはひとまず部屋から離れようと、夢中で足を動かした。彼の他には誰もいないだだっぴろい赤絨毯の敷かれた廊下に、彼一人分の足音が響いた。心臓の音は、鳴り止まない。