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元婚約者様、赦しの許容範囲を超えました

掲載日:2026/08/12


 リンクルート子爵家は三人に女の子がいた。一番上の姉はルアと言い二番目の姉はリリアと言った。そして最後にクレアが生まれたが、その六年後待望の跡取りが生まれた。

 姉たちはどちらかがリンクルート家の後を継ぐと思っていたらしく二人とも婚約者選びには慎重だった。

 だが弟が産まれてことで後を継ぐのではなく嫁に行くことが確定した。

 一番上に姉のルアは直ぐに持って来られた釣書から一番まともそうなラッカート男爵家の嫡男と婚約をした。二番目の姉のリリアも学園に入る前にジェラント子爵家の嫡男との婚約を勝ち取った。

 ルアは悔しがったがすでに結婚は秒読みだったので仕方なく諦めてラッカート男爵家に入った。

 そして三歳上の姉リリアも学園を卒業するとさっさと結婚した。

 それが四年ほど前の事だった。

 それからクレアも学園に入って一年ほど前に婚約が整った。

 リンクルート家は八年前に母が流行病で亡くなりこれまで弟ウィルの世話はずっとクレアがやって来た。

 姉たちはよく言った。

 『リリア、あなたが最後までこの家にいるんだからウィルの世話はあなたがするのが一番よね。それに私たちは学園もあるし婚約者との交流もあるでしょう。だからウィルの事はお願いね』

 父は領地の仕事が忙しく子供たちの世話はほとんど出来なくて結局クレアがいつも貧乏くじを引いた。

 

 上の姉は学業には一切興味がなく頭にあるのはいつも夜会のドレスをどうするかとか婚約者や男性の気を引く為のおしゃれだった。

 そんな中クレアは幼い頃から本が好きで計算も得意だった。

 おまけに上に姉は母親譲りの子爵令嬢とは思えない美しい金髪で淡いブルーの瞳をしていたがクレアは父の色を引き継ぎ濃い茶色の髪に黒い瞳だった。愛嬌も悪く勝気に見える切れ長の目。そのせいでクレアは愛嬌がないとか冷たいとよく言われたのでクレアは人と距離を置くようになった。

 それでも父が困れば手伝いをした。貧乏子爵家では執事を雇う余裕もなかったし父も多忙だったからだ。父はクレアがいて助かると言ってくれると嬉しかった。

 もちろんウィルの世話もクレアの仕事だった。着替えを手伝い一緒に遊んだ。夜眠れないと言えば絵本を読み聞かせ熱が出れば何度も額のタオルを替えたり苦い薬を嫌がるウィルの為に薬の飲ませ方を工夫したりした。そのうちこまめにウィルの面倒を見るのも苦痛でなくなった。

 可愛いウイルが笑ってありがとうと言ってくれると胸の中が温かくなって子守が楽しかった。例えウィルが姉と同じ金髪で淡いブルーの瞳でも。

 

 

 昨年、リンクルート家は干ばつに襲われた。作物や出荷予定の薬草が枯れ果て領民の暮らしにも困窮する有様で、リリアの婚家であるジェラント子爵家からも援助を受けたがそれでも足りなかった。そんな所にバークスター伯爵家から融資の話を受けやっと危機を乗り切った。

 クレアの婚約はバークスター伯爵家の希望だと聞いていた。クレアが執務を手伝い幼い弟の世話もしていると聞いたらしく夫人となる人に伯爵家の執務も手伝って欲しいと決まった婚約で顔合わせもしないままだった。

 でも、伯爵が望んでいるのだからクレアの婚約は希望に満ちたものになるはずだった。

 だが、婚約者のアントンはそうではなかったらしい。

 初めての顔合わせではあからさまに言われた。

 「俺はお姉さんが金髪だからてっきり君も同じかと、いや、その髪色も悪い訳じゃないんだが、それにしても黒い瞳は珍しくないか?」

 「そうでしょうか。やはり冷たく見えますか?」

 クレアに胸はズキンと疼いた。悲しいけど我慢して薄ら笑いを浮かべた。でも、そう言ったアントン様も茶色の髪に茶色の瞳ですねと言いそうになったがぐっと堪えた。

 「誰もそんな事言ってないだろう。何だその顔は‥」

 それっきりアントンはクレアを見る事はなかった。

 それから形だけの月に一度のお茶に誘われた。

 場所は王都でも人気のカフェだった。

 だが、アントンはクレアをまともに見る事はなかった。イライラしながらお茶を一杯だけ付き合うと、いつも、ではと言って立ち上がった。

 クレアは引き止めることも出来ずただお辞儀をして去って行くアントンを見送るだけだった。 

 こんな状態で果たして結婚出来るのかも分からなかった。家に帰れば父が忙しそうに手伝いをして欲しいと言い、ウィルからは勉強を教えてほしいとせがまれた。

 それはクレアに取ったら自分の存在を確認出来る事で打ちひしがれた気持ちを忘れさせてくれる時間でもあった。

 もちろん忙しそうな父にアントンとの事も言い出せなかった。

 アントンとの付き合いが上手くいかないまま半年が過ぎていた。


 最近バークスター家にミスティと言う女性が引き取られたと聞いた。彼女は元アントンの乳母だった人の娘で乳母が亡くなりバークスター夫人が気の毒にと引き取ったと人伝に聞いた。

 彼は月に一度の茶会にミスティを連れて来た。

 彼女は平民が着るには上等と思える服を着ていた。胸元と袖口に美しいレースのついた可愛らしい花柄のワンピースだった。

 ミスティの髪色はミルクティー色で瞳は穏やかな茶色だった。

 クレアはただそれだけで胸が痛んだ。

 そんなクレアの気持ちもお構いなしに彼は今まで見たこともない笑顔を浮かべミスティを隣に座らせてメニューを広げた。

 「ミスティ、ほら何がいい?」

 「アントン、でも、今日は婚約者さんとの」

 「そんなの気にするな。なあ、クレア。君だって母を亡くして落ち込んでいる女性が少しくらい同席したっていいよな?」

 「はい、構いません」

 「なっ、ほらいいからここは王都でも人気のカフェなんだ。ミスティは初めてだろう?何でも好きなものを頼んでいいぞ」

 2人の距離は顔が触れるほど近い。

 ミスティは広げられたメニューに釘付けでアントンは一生懸命説明をしている。

 クレアはそんな2人を見ることに耐えられず席を立った。

 「すみませんアントン様、私少し気分が悪いのでお先に失礼します」

 「あの、もしかして私が来たから?」

 「おい、クレア。そうなのか?お前、さっきも言ったよな。彼女は可哀想な「そんな事関係ありませんから、私の都合です。ミスティさん気になさらず楽しんで行ってください。では、失礼します」

 「まあ、そう言う事なら仕方がない。では、クレア気をつけて帰ってくれ」

 「はい、失礼します」

 アントンは見送る事もなくクレアが席を離れると直ぐに視線をミスティに向けた。

 そんな彼を見ながらカフェを後にした。


 それからしばらくして二番目の姉のジェラント子爵家のパーティに招待された。アントンを誘ったが用があると言われクレアはひとりでパーティに参加した。

 ジェラント子爵家のパーティでは姉のリリアが妊娠中で途中で具合が悪くなり急遽クレアが義理兄タイラーのパートナーを務めることになった。

 義理兄は招待客に妻の妹なんだと紹介される度、ずいぶん雰囲気が違うと言われてすっかり気落ちした。

 そんな所にアントンがミスティを伴って現れた。

 アントンはまるで婚約者をエスコートするような仕草でミスティを会場に連れて入って来た。

 ミスティはピンク色の可愛らしいドレス姿でアントンの腕に絡みついている。緊張しているのか何度も上目遣いでアントンを見つめている。

 夜会の灯りがミスティの甘い髪色を照らし出しなお一層彼女の庇護欲を駆り立てる。

 アントンは時折彼女の耳元に顔を近づけ何やら囁いている。

 周りから見ればどう見てもお似合いのカップルにしか見えない。


 クレアはこのパーティに誘った時のことを思い出していた。

 『姉の嫁ぎ先でパーティがあるのです。婚約者を同伴して参加しないかとお話があったのですが』

 『お前の姉の嫁ぎ先は子爵家だったよな?じゃ、別に行かなくてもいいだろう。俺は忙しいんだ。悪いが行くならクレア一人で行ってくれ』

 確かそう言われた。なのに彼はミスティを同伴して来ている。

 

 「あれはクレアの婚約者じゃないのか?」

 どうしようかと悩んでいると先に義理兄のタイラーがアントンに気づいた。

 「はい、彼は都合が悪かったと伺っていたのですけど」

 「婚約者を放っておいて別の女を?おまけにここが君の姉の嫁ぎ先と知ってか」

 タイラーは呆れたような顔でアントンを見据えた。

 アントンも当家の嫡男と顔が合い挨拶をしようと思ったのかこっちに近づいて来た。

 アントン側からはクレアはちょうど木の影になっているらしく見えていないようだ。クレアはさっと木の影に身を潜ませた。

 「これはこれはジェラント子爵令息のタイラー殿。アントン•バークスターです。賑やかなパーティですね」

 「ようこそ、ジェラント家に。バークスター伯爵令息、そちらの方は?」

 「はい、彼女はミスティ。うちで乳母をしていた者の娘でして、彼女の母が亡くなりましてね。我が家でミスティを引き取った次第でして、こう言う場所に来るのは初めてなんです。失礼があったら大目に見てやって下さい」

 「ミスティと申します」

 ミスティはえへっと笑ってぺこりとお辞儀をした。

 「しかしバークスター伯爵令息が平民を同伴してパーティに?」

 「いえ、それはですね、彼女も母を亡くして今日は元気づけようと思って同伴したんですよ。貴族たるもの弱きものに優しくするべきでしょ」

 「アントン、このおじさんひどいわ」

 ミスティがジロリと睨むタイラーを指差した。

 タイラーはそんな小娘など歯牙にもかからないとばかりに相手にもせずアントンに言い返す。

 「ですがあなたには婚約者がいるでしょう?それも私の妻の妹のクレアが!」

 「えっ?クレアのご親戚で?」

 「何を言ってるんだ!私の妻は元はリンクルート子爵家の次女ですよ。あなたこそクレアを放っておいて他の。それも平民の女を連れて我が家に来るなど信じれませんが」

 「いや、これは誤解なんだ。ミスティはただの乳母の娘で。彼女が気落ちしているから元気づけようとしただけで」

 「それにしては先ほどから二人に距離はかなり親密ですけど」

 そう言いながら木の影からクレアが出て来た。

 「アントン様」

 「ひっ!お、お前は」

 アントンは幽霊でも見たかのように奇声を上げた。

 「お忙しいと伺っておりましたがミスティと出かけるのは別という事なのですね」

 「それは、お前のような辛気臭い女と一緒だと気分が悪いからだろう」

 アントンは吐き捨てるように言った。

 「そうですか。思えば最初から私の事はお気に召さなかったみたいですから」

 「当たり前だ。いきなり知らない女と婚約しろと言われおまけに多少見目でも良ければと思っていたら残りくじでも引き当てたような根暗なお前だったんだぞ!少しくらい同伴を断られたからと言って文句を言えるのか?お前のような奴の婚約者でいてやるだけでありがたいと思え!」

 アントンは頭ごなしにクレアに怒鳴りつけた。

 タイラーはその様子を見て大きなため息を吐いた。

 「クレア、いいのか?こんなのが婚約者で?」

 「いいえ、もう我慢の限界です。父に言って婚約はなかった事にして貰います」

 「いや、責任の一端はうちにもある。俺が義理父様に事情を説明してやる」

 二人でそんな事を言っていると突然ミスティが苦しみ始めた。

 「く、くるしぃ」

 ミスティが胸を押さえ倒れ込む。

 「ミスティ?おい、大丈夫か。クレア、これも全部お前のせいだ。覚えてろよ!」

 「ええ、せいぜい、彼女の介抱でもなんでもしてあげればいいわ。じゃ、さようなら」 

 クレアはスッキリした顔でアントンにそう告げた。アントンはミスティを抱える様にして帰っていった。

 「クソ!覚えてろよ!!」

 そう吐き捨てて。

 翌日タイラーが事情を説明してくれてクレアも今までの事を話した。 

 父は火山が噴火でもしたかと言うほど烈火の如く怒った。直ぐにバークスター伯爵に事情を説明したところバークスター伯爵家から婚約は解消という事で済ませてもらえればと話が来た。

 こうやってクレアの婚約は学園の卒業間近に解消になった。伯爵からは実に残念だと言われアントンは伯爵からかなりお叱りを受けたらしい。ミスティは屋敷から出され伯爵家の商会で働き始めたらしい。アントンは彼女を連れ歩く事は出来なくなりかなり荒れているとも噂で聞いた。

 クレアはショックだった。だが、いつまでもくよくよしている訳にも行かないわよと姉からはハッパをかけられ卒業してすぐに小規模の夜会から出席するようするようになった。



 *~*〜*



 この日の夜会はローランド侯爵家で開かれるものだった。

 参加した夜会ではこの所の水害の話が出た。あちこちの領地で川が氾濫して家が流されたり畑を失った人がたくさん出た。そのせいで尊い命が奪われ教会の孤児院は子供が溢れているらしい。

 令嬢たちからも孤児院の手伝いや差し入れをしたらどうかと声が出た。 

 クレアは弟の世話をしていた経験から子供が喜ぶ遊びや菓子の好みなどを話した。

 ついでに父の執務で培った知識で穀物や布の調達方法や馬車の手配についても講釈を述べた。

 特に薬を飲ませるコツを話すと場は一気に盛り上がったところに嫌味の様な横槍が入った。

 「チッ!偉そうに。女が余計な事に口出しするんじゃない」

 振り返ればアントンだった。彼は同伴者はいないらしくひとりだった。クレアと同じように次のお相手でも探すつもりなのだろう。それにしてはかなり酒が入っているらしく喋りながらよろめいた。

 アントンは近くにいた友人に親しげに肩に手をまわす。

 「ああ、あういう女は一緒にいると疲れる。だろ?」

 その直ぐ隣にいた男も口を開く。

 「おまけになんだ?あの重たげな髪色、目は真っ黒かよ。女は柔らかな色合いがいいよなぁ」

 「ああ、でしゃばり女は引っ込んでろよ」

 

 今日クレアはこの夜会に参加するのもかなり勇気がいった。なのにまさかアントンと鉢合わせそんな辛辣な言葉を浴びせられるとは夢にも思っていなかった。

 だから、かなり傷ついた。

 逃げ出せば負けだと思った。でも、どうしてもその場にいる事は出来なかった。

 走って夜会の会場を後にする。

 気づけば後ろからアントンが追って来た。

 「待てよ。おい、クレア!」

 「あなたにそう呼ばれる覚えはありません」

 「なんだよ。堅いこと言うな。お前まだ一人なんだろう?良かったらこれから一緒にお茶でもどうだ?」

 「そんな気もないくせに。いい加減にして下さい」

 アントンはさらに距離を詰めてすぐ目の前まで近づいた。

 「相変わらず強気だな。そんな女を物にするのもいいかもな。おい、クレアこっちに来い!」

 アントンに手がクレアの腕を掴んだ。

 いきなりの事で焦ったクレアが叫ぶ。

 「きゃぁ、誰か助けて〜」

 「ばか、大きな声を出すな。いいから楽しい思いをさせてやるから、おい、お前らも手伝え」

 いつの間にかアントンの友人らしい男が二人いた。


 クレアはアントンの腕を振り解く。馬車はもう目の前にとまっている。必死で馬車に飛び乗ろうとして躓いた。

 「クレア嬢ではありませんか?どうしたんです?」

 「この人たちに絡まれて、どうやらお酒が過ぎたらしくて」

 ジークが三人を睨みつける。

 「絡んでなんか、クレアに飲みに行こうと誘っただけだ。おい、行くぞ」

 アントンはばつが悪そうに急いで逃げて行った。


 「大丈夫か、怪我は?」

 「いえ、ありません。それよりあなたはジーク様では。どうしてこんな所に?」

 昨年クレアはすでに学園に入っていたが、家が困窮していると聞いて何度か我が家に帰っていた。父を手伝っている時に王宮からやって来た財務管理官のジークと知り合った。彼はリンクルート家の立て直しに派遣された。気さくでウィルも懐いていて勉強まで教わったと聞いていたが仕事が終わって王都に帰ったとウィルが残念がっていた事を思い出した。

 「どうしてと言われても、ここは私の家ですので、まあ、私は成人してここに住んではいませんが、母が夜会に出てパートナーを探せとうるさくて」

 ジークは相変わらずタメ口口調で言った。

 「まあ、ここはジーク様の。そうでしたか。では、私、急いでいますのでこれで失礼します」

 「待ってクレア、いや、クレア嬢」

 「えっ?」

 クレアはもう一度馬車に乗ろうとして足首に力を入れた。その途端、踏み板が傾いた。

 「危ない!」

 ジーク様がクレアの身体を支える。

 きゃっ!

 クレアが悲鳴を上げた。

 「大丈夫ですか?」

 「はい、なんとか。ありがとうございます」

 クレアはジークに支えられ彼の身体が異常に熱い事に気づいた。

 「ジーク様、もしかして熱があるのではありませんか?」

 彼は落ち着き払って言った。

 「それでさっきから目眩がすると‥」

 「しっかり。誰かを呼んで来て」クレアは御者に声を張り上げたまま地面にジークと座り込んだ。彼はすでにぐったりしていてクレアの肩にもたれる様にしている。

 「すまない」

 クレアの荒んだ気持ちが一気にふにゃりと頽れた。

 全く、この人は。

 ジーク様は相変わらずだ。

 リンクルート家では支払いが間に合わない。取り立てが騒いでいる。父と私がぎゃあぎゃあ騒いでいても、涼しい顔で無いものはないんだと一喝。

 債権者の取り立てにもその一点張りでそのくせ王宮の役人が介入しているから取りっぱぐれにはならないと筋道を立てて理路整然と説明して債権者を黙らせたり。

 あるがまま。無いものはない。痛い時は泣け。目の前の事を受け入れろ。そんな考えの人だった。

 「手当するから連れて来て」

 慌ててお母様がやって来て彼は使用人に屋敷に担ぎ込まれた。

 「あなたも一緒に」

 「でも、迷惑ですから、このまま馬車で帰れば問題ありませんから」

 そんなやりとりを聞いたジーク様が言う。

 「王都に住まいがあるのか?」

 クレアは学園を卒業したので王都に住んではいない。何軒か夜会をはしごするつもりで宿を取っている。馬車は頼んだもので宿まで帰るだけだ。

 「宿を取っていますから大丈夫です」

 「なおさら帰せないじゃないか。またあいつらが来たらどうする?俺はこの通り当てにはならんし、もう、いいから今夜はうちに泊まれ。母上、私の知り合いです。先ほど元婚約者に絡まれていたので今夜は泊まらせて下さい。お願いします。なっ、だから遠慮はいらない」

 ジークはお母様にそう言うとクレアに指を立てた。

 「そう言うわけには、ご迷惑です」

 さっきジーク様は言った。お母様がパートナーを探せとうるさく言っていると。私のようなものが勘違いでもされたら迷惑になる。いや、既に彼にお母様は嬉しそうな顔をしている。

 「迷惑なもんか。むしろここで再会できた事が嬉しいくらいだ」

 「クレアさん、ジークがここまで言うんです。さあ、遠慮なさらずどうぞ」

 とうとうお母様まで屋敷に案内されてクレアは諦めた。

 押し切られるように屋敷に通された。

 ローランド家の客間に通されその夜は泊まる事になった。

 流石は侯爵家、客間は素晴らしい調度品に囲まれている。ベッドもふかふかでシーツはシルクで肌が蕩けそうなほど柔らかい。

 そのせいか夜になってもなかなか寝付けなかった。廊下からは何度も人が行き来する気配がしてとうとう夜中に扉を開けて使用人に声をかけた。

 「もしかしてジーク様の容態が悪いのですか?」

 「熱が下がらなくて、それがジーク様は子供の頃から薬を飲むのを嫌がられて‥」

 使用人が盆の上の薬湯を見た。

 「まあ、そう言う事なら私にいい考えが、少しキッチンをお借りしても?」

 クレアは今まで何度もウィルに薬を飲ませる事に苦労して来た。そのせいで薬を飲みやすくする秘技を身につけた。おまけに我が家は薬草を扱っていてその手の事には詳しい。

 クレアは熱冷ましの薬草に甘みのある甘草を混ぜた粉末をほんの少しの湯で小さな丸薬状に丸める。そこに色々な味のジャムをまぶす。それを一口に切り分けたパンにジャムを塗って一緒に挟む。これなら食事も一緒に取れて一挙両得だ。

 良薬口に苦し、されど子供にそんな理屈は通用せずがクレアの出した答えだった。苦いなら甘くすれば良い。

 「さあ、これを」

 「こんな物を?私が叱られます」

 使用人の腰が引けている。

 「そう?では、私が持って行きます」

 クレアは人の屋敷だと言う事もうっかり忘れてジークの休んでいる部屋に連れて行ってもらう。

 薄ら明るい燭台の向こうにジークが横たわっている。

 彼が苦しげにうなされるのを見てクレアは思わず駆け寄った。

 「ジーク様。まあ、こんなに辛そうだなんて、さあ、少し起きれますか?」

 クレアはすっかりウィルを看病していた頃に戻った気になっていた。

 大の男の肩に手を掛けて次には額と額をくっつけて熱をみる。

 「まあ、こんなに熱が高いなんて、もう、薬を飲まなきゃダメじゃないですか!」

 「く、クレア?どうして君が‥」

 「いいから、起きれます?私、いい物を持って来たんです。さあ、今からお楽しみですよ」

 クレアは完全にウィルの看病を思い出し楽しんでいた。

 ジークはクレアに促されゆっくり起き上がりベッドに背をもたれるとクレアがさっき作った丸薬を挟んだパンを一切れ彼の口元に近づける。

 「それは?」

 「私が作ったんです。美味しいですよ。さあ、一口」

 クレアはそう言いながら有無を言わさずパンをジークの口に入れる。

 「いや、今は食欲が‥って言うか。あ、ん、もぐもぐ。うまい!」

 クレアはジークがパンを一切れ食べたのを見計らうと、次のパンをまた一切れ差し出す。

 「美味しいでしょう?はい、次。今度は何味かしら?うふっ」

 「もぐもぐ、今度はイチゴだ」

 ジークもつられて答えた。

 「その調子、じゃ、今度は?はい」

 「これは杏か?」

 「はい、正解。ジーク様すごいです」

 クレアは次々と小さなパンを一切れ一切れジークの口に入れた。

 ジークは押され気味だったがそれでも空腹を刺激されたのか気づけば苦い丸薬を挟んだパン全てが無くなっていた。

 「はい、おしまい。喉が渇いたかしら?あの、飲み物はあります?」

 唖然としていた使用人が慌ててサイドテーブルにあったレモン水をグラスに入れてクレアに渡す。

 「ジーク様、さあ、水分補給も大事ですからね」

 「クレア、飲ませて」

 ジークは少し上気した顔でクレアに言った。

 「まあ、今日は特別ですからね。ゆっくりです。ゆっくり‥」

 近くで控えている使用人に目には信じられない光景が広がっていた。まさかこれが女嫌いで有名なジーク様のお姿?信じられない!と思っていたとはクレアが気づく事はなかった。


 *~*~*


 翌朝、ジーク様の家族と朝食をとる事になった。

 ジーク様のお母様はシャーリーという美しい金髪、紺碧の瞳を持つ美人でお父様は亡くなって今はお兄様のハント様が伯爵家の当主になられたと聞いた。

 兄のハント様もお母様譲りの金髪、紺碧の瞳だ。それなのにジーク様は黒髪で灰色の瞳でパッとしない。何だか自分と同じだ。

 クレアは、まあ、私ったら失礼だわと思った。

 クレアは昨夜のドレスは無理だろうと代わりにお母様が若い頃に着られていた室内着を借りてまでもいるのにと。

 食堂で席に着くとすぐにジーク様が現れた。

 彼はすっかり顔色も良くなっていた。思わず声をかけた。

 「ジーク様、もう具合はよろしいんですか?」

 「ああ、一晩寝たら良くなった。心配をかけた。クレア嬢のおかげだ。昨晩は、助かった。ありがとう」

 彼はクレアと目を合わせる事なく歯切れが悪そうに言った。

 クレアは完全に余計な事をしたからだと思った。

 「いえ、良かったです。私こそ不躾な事をして申し訳ありません。それに今朝もご好意に甘えて」

 「まあ、クレアさん、そんなこと気にしないで。それより、もう、ジークったらいつの間にこんな可愛いお嬢さんと?ねぇ、ハント」

 「ああ、全く、お前いつの間に」

 お兄様まで呆れている。

 シャーリー様は使用人から昨晩のことを聞いたのだろう。未婚の女性が夜中に独身男性の部屋を訪れて介抱までしでかしたのだ。どんな勘違いをしたのかくらい想像がつくと言うものだ。これ以上誤解をされてはとクレアは急いで訂正をする。

 「いえ、違うんです。確かに昨晩の事は差し出がましい事をしたと思っています。ですが彼は仕事で領地に来た時に知り合いになっただけの関係です。私はしがない貧乏子爵家の娘。決してジーク様に下心など持ってはいませんのでご安心ください」

 「あら、ジークはそうは思ってないんじゃないかしら?」

 「母さん、いい加減にしてくれ。クレア嬢にはまだ何も話していないんだ」

 「まあ、ぐずぐずしてたらこんな可愛いお嬢さんは直ぐに売れてしまうわよ。ねぇ、クレアさん、うちのジークはどうかしら?これでも見目はまあまあだし、真面目で仕事も出来るのよ。年はあなたよりほんの少し上で少し変わってるけど堅苦しい事は苦手で若いあなたにはいいんじゃないかしら」

 「だからやめろって言ってるだろう」

 「ジーク、頑張れよ」

 「兄さんまで、余計な事だろう!」

 ここでお母様とお兄様は席を立って出て行った。


 ジーク様は少し不貞腐れたような顔をしていた。

 それでも一度息を大きく吸い込むとクレアに向き合った。

 「クレア、あの、実は、君に話があるんだ」


 ダイニングの窓から入る日差しがレースのカーテンが眩い光を和らげている。

 その光を背に立ったジーク様の顔はかなり緊張しているように見えた。

 クレアはたった今彼の言った事を頭の中で繰り返す。

 話がある。何の?男性からの話と言えば‥?

 アントンとの事が脳裏をよぎると思わず握りしめた指先が柔らかな手の平に爪を食い込ませた。

 一気に現実が押し寄せる。

 何を馬鹿な事を考えているのよ。彼が私をどう思っているかなんて分かり切ってる。冴えない自分の容姿がどんなものかくらい知っている。

 口を挟めば出しゃばりだと陰口を叩かれていることくらい。

 でも、もしかしてそう言う意味ではなくて‥もしそうならどれほどうれしいかしれない。

 実はクレアはジークにほんの少し好意を抱いていた。でも、あの時は婚約していたのでそんな気持ちに蓋をしたのだ。

 期待してショックを受けるくらいならと思った瞬間アントンとの事が脳裏をよぎった。

 男なんて所詮みんな同じよ。自分の都合ばかり言うに決まっている。例え好意を寄せているからと言ったって本性はいやらしい獣よ!

 アントンから浴びせられた言葉や冷たい視線。心無い棘のある言葉に別の女にかける甘い囁き。

 クレアには向けられる事のないであろう行為の数々。おまけに昨夜無理やり連れて行かれそうにまでなった。

 二度と男なんか信じるもんですか。

 あっ!

 となると昨夜の行動は完全に失敗だった。クレアは自分の迂闊さに目眩がした。

 だが、ここで態度を示さないと後で後悔する羽目になるに違いない。

 クレアは心に誓う。そして一度息を吸い込むと真っ直ぐに彼を見据えゆっくりと彼に問いただした。

 「ジーク様、どういった話でしょうか?」

 「どういうと言われたら‥こ、こ、こん、こん」

 思った通り彼は取り乱した。やはり。わざと問い返す。

 「こん?」

 「コホン。いや、俺はしがない管理官だが財務管理局に席を置いている。そこには公正取引課もあって財務だけでなく貴族全般の不正な案件にも携わっているんだ。昨日の様子ではあいつは君に酷く失礼だった。もしかして婚約期間中もあんな状態だったんじゃないかって。君が困まっているなら俺がクレア嬢の婚約が不正なものだったと告発も出来る。そうすれば君の名誉回復と損害賠償金も取れるのではと思うんだ」

 そんな事を?何のために?もしかしてジークは昨晩の行動を不審に思って?

 「今更、そんな事をしたら火に油を注ぐような物です。きっと彼ももうやめると思いますからご心配なく」

 でも、アントンがあれ以来クレアの事を悪く言っていると噂で聞いた。それにあちこちで散財もしているらしい。昨夜のスーツもかなり値の張るものだった気がする。それにまた昨日のような事が繰り返されるかも知れない。でも、そこまで無茶はしないだろう。

 なのにどうして彼がそんな事を心配するんだろう。

 クレアは少し疑心暗鬼になりつつジークを見た。

 ジークはすぐにばつが悪そうに髪をくしゃりとかきあげた。

 「そうか。君がそう言うなら、でも、何かあったらいつでも頼って欲しい」

 彼はそんな事を思っていたのか。まあ、いやな気分にはなっているがそこまで困ってはいない。

 さっきあれほど男に心は許すまいと誓ったばかりだと言うのにほんの少し期待したせいかあっさり引かれるとアントンに拒絶された時より胸が痛かった。

 アントンは最初から私が嫌いだってわかったから。

 この際彼に期待しない為にもはっきり伝えておいた方がいいとクレアは決心する。

 「ありがとうございます。ですが、これ以上は結構ですので!」

 クレアは勢いが余って言葉尻が強くなった。

 「そんなに警戒しなくても大丈夫だ。それよりクレア嬢。聞いたんだが昨晩食べたパンの中に薬草が入っていたのか?」

 ジークは苦笑いしながら話を変えた。

 クレアも少し言い過ぎたと思い彼の尋ねた事にすぐに答えた。

 「ええ、ジーク様は薬が苦手とお聞きしたので、いつも薬嫌いな弟に薬を飲ませるのにあの方法で飲ませていたのでつい」

 思わず思い出し笑いが浮かぶ。

 「そう言えば家は薬草を育てていたな。それで薬草に詳しいのか?」

 彼もつられて顔が綻んだ。

 「はい、これでも多少の知識はありますよ」

 ジークはそうかそうかと頷いた。

 クレアの胸に灰色の靄がかかる。何でそんな事を聞くんだろう。

 「そう言えばクレア嬢は王都で暮らすのか?」

 「いえ、数件夜会に参加したら領地に戻ります」

 「そうか、仕事をする気は?」

 「父の手伝いをするつもりですので、あの、ジーク様。何を考えていらっしゃるのか知りませんが、申し訳ありませんが無理です」

 彼はいつだって物事をはっきり言う人だと思っていた。でも、今日の彼は何だか歯切れが悪い言い方でついそう言った。

 

 「すまない。少し言いにくくて、実は手伝って欲しい事があってほんの数日でいいんだ。帳簿を調べる簡単な仕事だ。クレア嬢はお父上の手伝いをして帳簿もわかるだろう?」

 彼は我が家に来たのは、もう一年近くも前の話。あの時立て直し尽力してくれた時にクレアが領地の執務を手伝っていた事は知っていたのでもちろんクレアが帳簿も付けれることも知っている。

 「でも、私のようなものが王宮管理官の仕事の手伝いなど」

 「ああ、いきなりで驚いただろう?俺の部下が急病で人員が足りないんだ。それで君なら信用できるし、何よりこの仕事、適任だと思うんだ。どうだろう。無理かな?ほんの二、三日でいいんだ」

 ジークは必死でクレアを説得した。クレアはそんな彼にときめいてしまう。こんな気持ちになるべきじゃないってわかっているのに。

 でも、クレアは人が困っているのを放っておけない性格だった。

 「そこまで言われると、本当に二、三日ですよ」

 「ありがとう。そう言う事なら寝るのは我が家にすればいい。宿はどこ?直ぐに荷物を取りに行こうか」

 ジークは子供みたいにはしゃいだ。

 「ジーク様、食事がまだですよ」

 クレアは出て行こうとする彼を呼び止めた。


 *〜*〜*


 クレアは宿を引き払うとローランド侯爵家の小執務室でジークと隣り合わせに座って一緒に帳簿を見ていた。

 よく見るとその帳簿はバークスター伯爵家の物だった。三年前に遡って調べているのだが、どうしても年間の歳入と支出が合わない。繰越金の合計金額もあちこちの商会の支払いも帳尻が合わせてはあるが、細かく合わせていくとずれが出るのだ。

 ほぼ一日帳簿と睨めっこをして窓から夕陽が差し込む頃、ようやくクレアはおかしい所に気づいた。

 「ジーク様、ここ」

 「なんだ?」

 「この薬草ですが、我が家から破格のお値段で譲った物だと」

 「どうしてわかる?」

 「三年前、バークスター伯爵家で流行病が出たんです。父が薬草の手配をしましたが、その時の数が商会に収める時とは違って重さで売ったんです。普通薬草は束単位で取引するのです。だから間違いありません」

 「そうか、それで?」

 「それが買取金額が十倍で計上してあります。他にも雑費を称した支払いが定期的に行われています。二つとも支払いはいつも同じ商会です。これってダミー商会ではないかと、支出と見せかけて実は利益を移している。だから実際の利益の帳簿の上での金額にずれが生じているのでは?」

 「クレア!これに気づくなんて。この商会実はうちの監査局がすでにバークスター侯爵家の身内名義と調べがついているんだ。やっぱりな。凄いじゃないか。君は俺の思った通りの人だ」

 「そんな」

 そうやって二日でバークスター伯爵家の不正がはっきりした。

 そしてクレアは初めて知った。一年前困窮した我が家を救ってくれたと思っていたバークスター伯爵家がこれまでに我がリンクルート子爵家を食い物にしていた。借りたお金に付けられていた利息は一般の相場の5倍で我が家はそんな事も知らずにバークスター家に言われるまま支払いをしていた。

 バークスター家はクレアを婚約者にしたのも恩を売った相手なら黙って言う事を聞くと思っていたのだろう。

 クレアはあの父にあの子ありだと思った。嫡男のアントンには散々な目に遭わされて。

 我が家は完全に親子して大損しているって事だ。

 でも、ジーク様はどうしてこの仕事を私にやらせたの?もしかして私の気持ちを少しでも晴らそうとしてくれた?

 クレアはジークが自分の為にわざとあんな風に言ったのかもと思った。

 それから数日後バークスター伯爵家の商会に監査局の手入れが入った。バークスター伯爵は捕えられ嫡男であるアントンも事情聴取を受けるとジークから聞いた。

 そんな事情で我が家が借りていたバークスター伯爵家の借金は無くなる事が確定した。これで父もほっと胸を撫で下ろせるだろうとクレアはほっとした。

 

 その翌日クレアが予定していた夜会には参加出来なかったからとジークから食事に誘われた。

 王都の人気レストランでの夕食だった。

 クレアはアフタヌーンパーティに着て行こうと思っていたドレスを身に付けた。

 淡い茶色のスレンダーなドレスは少し大人びて見えた。あまり派手すぎず夕食をするにはちょうどいい感じに思った。

 髪は重くならない様シニヨンにしてアクセサリーは真珠のペンダントとイヤリングにした。

 「すごく綺麗だ」

 ジークは着替えを済ませて部屋から出て来たクレアを見つけると耳をほんの少し赤くしてそう言った。

 「ジーク様こそ、素敵です」

 彼は黒髪を整えダークグレーの正装で現れた。その姿にクレアの胸は一気に高鳴った。

 レストランの席に着いて二人でワインで乾杯した。

 これから食事が運ばれてくると思っていた時だった。

 ずかずかと遠慮なしに人が近づいて来た。

 「クレア!なあ、俺たちやり直さないか?確かに俺はミスティの事で君に少し我儘を言った。だが、もうはっきりわかったんだ。君が俺にとってとても大切人だって。だから今度は君を放っておいたりしない。夜会にも連れて行ってやる。宝石だって買おう。だから助けてくれ」

 「アントン様、ここはレストランです。その様な話をいきなり言われても困ります。お引き取り下さい」

 「クレア、そんな堅いことを、俺と君の仲だろう。なぁ、俺たちもう一度婚約し直そう」

 「アントン様、正気ですか?」

 「もちろんだ。俺は真剣なんだ。なあ、信じてくれ。もう一度やり直してくれたら何でもする」

 「おい、お前、いい加減にしろよ。クレアは嫌がってる。見ればわかるだろう!」

 「あんた誰だ?」

 ジークが椅子から立ちあがろうとしたのでクレアが止めた。

 「悪いけどそんなつもりはありません。引き取って頂けます?」

 「じゃあ、リンクルート家に話だけでもしてくれないか?三年前の薬草はあの値段が相場だったって言ってくれれば。なあ、それくらいしてくれたっていいだろう?うちはお前ん所を助けてやった恩があるんだ!」

 クレアはアントンの剣幕に少し怯える。ジークは向かいの席で今にもアントンに飛びかかりそうな雰囲気だ。

 クレアは慎重に声を出した。

 「あなたもあなたの家も助けるつもりはありません」

 「そんな、直接君が迷惑した訳じゃないだろう。なあ、頼む赦してくれ。いや、赦して下さい。お願いします」

 アントンが頭を下げた。

 クレアはそんな姿を見て言った。

 「アントン様、申し訳ありません。あなただって商売人でしょう?だったら赦せる範囲があるはずです。私の心にだって許容範囲って言うものがあるんです。あなたへの赦しはもう許容範囲を超えています。それにこう言うものには取り置きもありません。分かります?すでに完売なんです。だからどんなにあなたが頭を下げても無理なんです。わかって頂けます?」

 アントンは瞬きをしてもう一度クレアを見た。

 「そんな、俺は‥」

 「お前、あちこちでクレアの悪口を言いふらしていたらしいな。自分がしでかした事を棚に上げて散々人のせいにしておいて謝れば許されるとでも思ったのか?もう一度その考えを改めた方がいいぞ。これからお前の家は大変だろうな。帳簿の改竄。その罰金と追徴金の支払いで伯爵家は破産するんじゃないか。今まで見たいな暮らしももう無理だろうな。女だって寄ってこなくなるぞ。何せお前は貧乏になるんだからな。まあ、しっかり頑張れ。わかったらさっさと帰ってくれ!」

 「家が破産?そ、そんな」

 アントンは真っ青になってふらふらとレストランから出て行った。

 


 「とんだ邪魔が入った。さあ、クレア気分直しにもう一回乾杯しよう」

 ジーク様がワインをグラスに注いでもう一度二人で乾杯をする。

 食事はパンプキンスープに仔牛のステーキ、温野菜の盛り合わせ。最後にイチゴのミルフィーユは席を移動してからになった。

 食事が終わると給仕が2階の特別席に案内してくれた。ここはテラス席でちょっぴりお酒が入ったクレアは涼やかな風にうっとりした。満天の星が甘い雰囲気をさらに盛り上げる。

 イチゴのミルフィーユと紅茶が運ばれて来ると給仕は下がった。

 二人きりの空間に思わずクレアは視線を逸らす。


 いきなりジークが跪いた。

 「クレア。聞いてくれ。俺はずっとクレアが好きだった。領地に行って君を見た時から、一生懸命執務を手伝う姿に、弟の世話を楽しそうにする君に、俺は心が温かくなって行った。俺は幼い頃からいつも兄に引け目を感じる子だった。両親も見目のいい兄ばかり構った。だから俺は少しいじけた所もあって年頃になっても女の子とまともに話すら出来ないかった。なのに‥クレア、こんな気持ちは初めてなんだ。だから俺、お前に上手く言えなくて何度も何度も告白しようとして失敗した。でも、今日は決めたい。クレア•リンクルート子爵令嬢、俺と結婚してくれないか。俺は宮廷貴族で爵位もない。でも、君のことを生涯愛すると誓う。君を大切にする。君がいてくれるだけで俺は幸せになれるんだ。だから」

 ジークの灰色の瞳に星の光が差し込む。真剣な眼差しにクレアは胸が熱くなる。

 彼の言葉がすっと心に染み込んだ。

 でも‥

 「ジーク様、いいんですか?私、ほんとに地味だし、出しゃばりだって言われてるし、あなたはすごく素敵で私なんかと釣り合わないんじゃ‥」

 いきなりジークに抱きしめられる。

 「誰が言った?クレア。君は俺にとって世界中で一番素敵な女性だ。この美しい髪もキラキラ輝く瞳も甘そうな唇も全てがこの世のものとは思えないほど美しい。それに君の心もすごく美しい。だろう?結婚してくれ」

 ジークにすぐ目の前でそう言われてクレアは頬を染めて頷くと言った。

 「ジーク様、喜んでお受けします」

 「ありがとうクレア、愛してる。生涯君を愛すると誓うよ」

 「私もあなたを愛しています」

 「やっと、やっと言えた。クレア。緊張した〜」

 ジーク様は大きく息を吐き出すとクレアを抱き上げてくるくる回った。

 クレアはいつの間にかジークの背中に腕を回していた。彼の体温を感じながら心から幸せを噛み締めた。

 そして本当の事を言った。

 「私こそあなたが好きだったの。でも、絶対無理だって諦めてた。今日食事が終わったら領地に帰るつもりだったのよ」

 「じゃあ、グッドタイミングだったって事か?」

 「そうみたい」

 ジーク様はガッツポーズをした。

 


 その後バークスター伯爵家はジークに予想通り破綻して爵位を返上した。伯爵一家は領地の片隅で労働者となって暮らす事になった。

 アントンはそんな暮らしは嫌だと賭博にのめり込み取り立て屋に追われて事故に遭い命を落とした。

 ジークとクレアは半年後に結婚して王都に屋敷を買った。ジークはクレアの能力を高く買っていて財務監査局にクレアを推薦して二人で一緒に働いている。いつも王宮に出勤しその姿は王宮でも熱々夫婦として有名になった。

 ある時クレアがあの没落したバークスター伯爵家のアントンと婚約していた事がわかり、アントンが彼女に赦しを乞いクレアが赦しが許容範囲を超えたと言った事が判明。

 王宮の者はいつしか二人を究極の赦し愛カップルと言うようになった。












 




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