I 第13班のウィディアス
《午前四時半》
凍てつく空気を切り裂くような暁鐘の音が鳴るか鳴らないかのうちに、分厚い木製の扉が鼓膜を破るほどの勢いで蹴り開けられた。
「起きろ、ウジ虫ども! 貴様らが今日も他種族の餌にならないための、素晴らしい朝だぞ!」
教官の怒号と、ベッドの木枠を粉砕しかねない棍棒の音が響き渡る。十五人がすし詰めになった薄暗い部屋で、少年たちは弾かれたように一斉に飛び起きた。
黒髪の少年『ウィディアス』も例外ではない。ただ、彼が他の新兵と少し違ったのは、教官が扉を蹴る数秒前にはすでに薄目を開け、硬い革鎧の紐に指をかけていたことだ。
「……ったく、毎朝毎朝、もう少し優しく起こしてくれないもんかね」
小声で誰にも聞こえないように毒づきながら、彼は隣でまだ白目を剥いて寝こけている同室の仲間___気の弱い新兵『ルカ』の脇腹を、容赦なく肘で小突いた。
「ぐぇっ!?」
「起きろ。あのゴリラ教官に頭カチ割られたくなかったら、三秒でブーツ履け」
よだれを拭いながら体を起こすルカを横目にウィディアスは誰よりも早く外の広場へと駆け出した。薄氷の張った井戸水を頭から被りながら、(冷たっ! 死ぬ!)と心の中で絶叫する。
彼は特別な血筋でも、天賦の才を持つ戦士でもない。どこにでもいる、少し口が達者で悪戯好きな、ただの十五歳の平民だ。
しかし、彼にはこの地獄を生き抜く理由があった。
《午前八時》
泥濘に足をとられる演習場。
「腰を落とせ! 獣人の突進だぞ! 恐怖で目をそらした奴から内臓をぶちまけることになるぞ!」
教官の罵声と鞭の音が飛び交う中、十五人の少年たちは横一列に肩を密着させ、長さ五メートルを超える重厚なパイク(長槍)を構えていた。
ウィディアスは、泥まみれのブーツで石突を必死に踏み固める。
両手で握り込んだ太い木の柄は、すでにマメが潰れた手のひらを容赦なく削り、血が滲んでいた。隣に立つ仲間の肩がガタガタと震えているのが伝わってくる。
無理もない。正面から自分たちの倍以上もある質量の化け物が突っ込んでくるのを想定しろと言われて、平常心でいられる人間などいない。
一歩でも恐怖で退けば、陣形は崩壊し全員が死ぬ。それがこの世界で人間が生き残るための、残酷な絶対ルールだ。
(痛えし、重てえし、寒いままだし……最悪だぜ)
ウィディアスは奥歯を強く噛み締めた。柄を握る腕の筋肉が悲鳴を上げている。だが、彼の瞳の奥の光だけは、決して死んではいなかった。
(でも、絶対にここでへたるもんか)
ただの兵士の使い捨ての駒として、名もなき泥の中で終わる気は毛頭ない。
「おい、お前ら! 歯ぁ食いしばれ! ここで倒れたら今日の夕飯の豆スープ抜きだぞ!」
ウィディアスは隣で震える仲間たちを鼓舞するように、わざと明るく、少しだけふざけたような声で叫んだ。
教官の「私語は慎め!」という怒号と共に飛んできた鞭の先端がかすり、ウィディアスは「痛っ!」と情けない声を上げたが、不思議と第十三班から、先ほどのガタガタという震えは消えていた。
泥にまみれ、理不尽に削られながらも、十五歳の少年はただ前を、夢の先を見据えてその足を踏ん張っていた。
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《正午》を過ぎる頃には、十五人の少年たちは誰もが口数すら失っていた。
午後の教練は、砦の防衛線を補強するための塹壕掘りだった。冷たい泥に膝まで浸かりながら、重い鉄のスコップを振るう。他種族の侵攻を少しでも遅らせるための、文字通り命綱となる作業だ。
「おい、ルカ。手が止まってるぞ。教官のオッサンがこっち見てる」
泥だらけの顔を拭いもせず、ウィディアスは隣で息も絶え絶えになっている気の弱い同室の仲間――朝、彼が容赦なく肘打ちで叩き起こした少年――を小突いた。
「む、無理だよ、ウィル……もう、腕が上がらな……」
「馬鹿野郎、ここで倒れたら連帯責任で俺たち全員、夜まで土嚢担ぎの刑だぞ」
口では憎まれ口を叩きながらも、ウィディアスはサッとルカの足元に転がっていた重い土の塊を自分のスコップですくい上げ、外へ放り投げた。
教官の視線を盗みながらの、手慣れた悪戯のような手際だった。
「ほら、俺が半分掘ってやるから、お前は動いてるフリだけしとけ。その代わり、今日の夕飯の豆スープ、お前の分の豆は俺がもらうからな」
「……恩着せがましいよ、ウィルゥ……」
泣き笑いのような顔で悪態をつくルカを見て、ウィディアスは「へっ」と鼻で笑い、再び泥の中へスコップを突き立てた。
やがて日没の鐘が鳴り、夕食の薄いシチューを這うようにして胃に流し込んだ後、第十三班の少年たちは、ようやくあの息苦しい十五人部屋へと帰還した。
獣脂の蝋燭が弱々しく揺れる中、ウィディアスは下段ベッドに腰掛け、刃こぼれだらけの支給品の剣を磨いていた。
油と細かい砂をまぶしたボロ布で、根元から剣先に向かって「ジャリ、ジャリ」と擦っていく。
ふと、彼は布を動かす手を止め、鈍く光る安物の鉄の刃を見つめた。
(こんなナマクラ剣じゃ、獣人の分厚い皮を斬るどころか、自分の指先だって怪しいもんだ)
だが、彼の瞳の奥に宿る光は、この薄暗い部屋の誰よりも強かった。
ウィディアスの夢は、単にこの地獄のような最前線から生きて帰ることではない。平民の使い捨ての駒として一生を終えることでもない。
___この国の軍の頂点、『第一騎士団長』になること。
それが、彼の胸の奥底で燃え続けている野望だった。
本来なら、由緒正しき血統を持つ貴族の身内しか座ることの許されない、黄金の鎧と宝剣をまとった絶対的な地位。泥にまみれ、毎朝教官の棍棒に怯える最下層の訓練兵が口にすれば、ルカでなくとも腹を抱えて笑い転げるか、気でも狂ったのかと哀れむような夢物語だ。
しかし、ウィディアスは本気だった。
(貴族だか何だか知らないが、温かい暖炉の前で地図を眺めてるだけの連中に、この泥の冷たさがわかってたまるか)
戦場で理不尽な命令で死んでいく仲間の死に怒りを抱き、圧倒的な力を持つ他種族への恐怖を知り、それらをすべて最前線で味わい尽くした様な、そんな生き残った人間がトップに立たなければ、この狂った戦争は絶対に終わらない。
ウィディアスは誰にも聞こえないほどの小さな息を吐き、再び剣を磨き始めた。
ジャリ、ジャリと、鉄を削る音が夜の兵舎に響く。
この安物の剣が、いつか国軍を統べる『第一騎士団長の宝剣』に変わるその日まで。十五歳の少年は、悪戯っぽい笑みの裏にギラギラとした野心を隠し、今日も泥水の中で足を踏ん張るのだ。
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獣脂の蝋燭が「ジリッ」と音を立てて燃え尽きかけ、十五人部屋は深い闇と寒さに包まれようとしていた。
ウィディアスが剣を磨き終え、ボロ布を床に放ったとき、上段のベッドから身を乗り出したルカが小声で話しかけてきた。
「……なあ、ウィル。お前、なんでそんなに必死なんだよ。教官に殴られようが、泥水飲まされようが、いっつも目だけは死んでないっていうか……」
ルカの声には、明日の訓練への絶望と、得体の知れない親友への呆れが混じっていた。
ウィディアスは藁のベッドに寝転がり、両腕を頭の後ろで組むと、暗闇の天井に向かってニヤリと笑った。
「決まってんだろ。いつかあのゴリラ教官を、俺の専属の馬糞掃除係に任命するためさ」
「はぁ?」
「だから、俺がこの国の第一騎士団長になるってこと。温かい暖炉の前でふんぞり返って、特上の肉食いながら、あいつに便所掃除でも命じてやるんだよ」
ルカが「ぷっ」と吹き出し、慌てて両手で口を押さえた。他の新兵を起こせば袋叩きに遭うからだ。
「ばっかじゃないの! 第一騎士団長なんて、王族か大貴族の血を引いてなきゃなれるわけないだろ。平民の俺たちは、良くて捨て駒の歩兵部隊長………」
「ふんっ、馬鹿馬鹿しい。平民の泥ネズミが第一騎士団長だと? 腹が減っている時に笑わせるな」
突如、斜め向かいのベッドから、小馬鹿にするような鼻で笑う声が降ってきた。
声の主は、薄暗い中でも目立つ、泥と埃にまみれた金髪の少年だった。名を『ユリウス』という。
彼はシラミの湧いた粗末な毛布を、まるで高級な絹であるかのように気取った手つきで払いながら、ウィディアスを見下ろした。
「いいか、第一騎士団長とはな、我が家のように由緒正しき血統と、幼少期からの高度な教育を受けた者だけが就くことを許される神聖な座だ。お前のような、文字の読み書きすら怪しい平民が口にしていい役職ではない」
ユリウスは胸を張り、滔々(とうとう)と語り出す。
彼は元々そこそこの名門貴族の三男坊だったが、父親が派閥争いに敗れて家が没落。
多額の「血の税(免除金)」を払えなくなり、平民たちに混じってこの最前線の砦へ放り込まれたというわけだ。
プライドだけは一人前で、事あるごとに「我が家は〜」と見下してくるため、班の中では浮いている存在だった。
だが、ウィディアスは全く気にした様子もなく、ケラケラと笑った。
「はいはい、没落お坊ちゃん。その『由緒正しき血統』とやらのおかげで、今は俺たちと同じ泥水すすって、豚の餌みたいな豆スープ食わされてるわけだ」
「ぐっ……! こ、これは一時的な試練だ! 私がいずれ武功を立てて家名を再興すれば……痛ッ!」
ユリウスが熱く語ろうと身振り手振りを交えた瞬間、彼が先ほどから必死にやっていた「破れた靴下の修繕」の縫い針が、見事に彼自身の指に深く突き刺さった。
「い、痛ぁぁっ……! な、なんだこの粗悪な針は! 我が家にあった銀の針とは勝手が違いすぎる……!」
涙目で指をしゃぶるユリウスの姿は、どうにも間抜けで、憎しみや怒りを抱かせるようなものではなかった。
「お前、剣の素振りより裁縫の練習した方がいいんじゃねえの」
ウィディアスは呆れ半分、可笑しさ半分で笑いながら、自分の革袋から少しだけ丈夫な麻糸の切れ端を取り出し、ユリウスのベッドへ ポン と放り投げた。
「ほらよ。その腐りかけの糸じゃ、明日の一歩目でまた靴下が破けるぞ。貸しにしてやるから、お前が家名再興して偉くなったら、金貨十枚で返せよ」
ユリウスは放り投げられた麻糸とウィディアスの顔を交互に見比べ、カッと顔を赤くした。
「ふ、ふんっ! 平民の情けなど無用だと言いたいところだが……未来の英雄であるこの私が、足元の不覚で死ぬわけにはいかないからな。特別に借りておいてやる!」
そう言ってそっぽを向きながらも、ユリウスは麻糸をしっかりと握りしめ、不器用な手つきで再び靴下と格闘し始めた。
「……あいつはまったく。相変わらずだな」
「ちゃんと話してくれるのウィルくらいだから、構って欲しいんだよ」
「男に構う趣味はねぇつーの」
「はいはい」
ルカは笑みを浮かべ、静かに目を閉じた。
「……見てろよ、絶対ひっくり返してやるから」
「え?」
「マジだから」
「………うん」
そのウィディアスの声に冗談の響きがないことに気づいたルカは、小さく息を呑み、やがて黙って毛布を被った。




