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初恋の相手が私だと今さら気づいても遅いです

「貴様…、王太子である私の婚約者に危害を加えるとは…。」


私を睨みつける美しいエメラルドの瞳。

この方にお会いするのは二度目だ。

六年前、私はこの方に恋をしたのだ。


私が幼いころ、体の弱い母の為に、父は王都から離れた空気の良い、長閑な田舎に別邸を建て、そこに愛する妻と娘である私を住まわせた。伯爵家の嫡男として生まれた父と隣接する子爵家の令嬢だった母は、いわゆる幼馴染というもので、子供のころから体が弱く美しかった母を一途に思い続けた父が、ようやく長い初恋を実らせて結婚したそうだ。

子供のころの父と母を知る侍女長のベスは、懐かしそうによく話して聞かせてくれた。


「旦那様はそりゃぁ、もう、一途でしたよ。奥様が風邪を引いたと聞けば、大量の花束を抱えてお見舞いに走り、元気になったと聞けば、奥様が気に入りそうなお菓子を王都から大量に手配しては奥様に食べきれないと怒られて…。本当に、微笑ましいお二人でした。」


フフッと笑うベスの表情が幸せそうで、見ているだけで幸せな気持ちになる微笑ましい二人だったのだと憧れた。

「いつか私もそんな風に好きになれる人に出会えるかしら?」

「ええ、きっと。アリアンジュ様は奥様に似てとてもお可愛らしいですし、きっと大きくなったらお嬢様に夢中になる殿方が沢山現れますよ。」

「そうだったらいいなぁ。でも私、一人でいいわ。私を好きになってくれる人。私もきっと好きになるのは一人だけだと思うから。」

「旦那様に似てお嬢様は一途なのかもしれませんね。」



私が6歳のころ、どうしても、もう一人産みたいと母が願い、父が渋々折れて、年の離れた弟が出来た。優しく愛情深い父と、体は弱くとも明るく穏やかで美しい母。そしてまだ小さい天使のように可愛い弟と共にとても幸せに穏やかに暮らしていた。

だが、体の弱かった母は弟が2歳の誕生日を迎えた翌日に静かに息を引き取った。


母が亡くなってからは別邸で過ごすことが辛いと、父は私と弟を残して王都の屋敷へ戻った。

それまでも定期的に仕事で戻っていたが、母がいたころは暇さえあれば顔を見に来ていた父は、一向に別邸に足を運ばなくなってしまった。


もともと愛情深い父だ。

私達を忘れたわけではなかったが、母に似た私を目に映すことも辛く、体に負担をかけて産ませた弟の顔を見るのも悲しい。向き合うことが出来るようになるまで様子を見ようと、隠居した祖父母と、屋敷の者たちで話し合い、私がデビュタントを迎える15歳になるまでは離れて暮らそうということになった。


思えば田舎で良いところといえば空気がきれいなことと、静かなこと、自然が多く近くに温泉あるということ以外、ほとんどなにもないところで成長した私は、とても令嬢らしくない少女に成長した。

木登りはするし、虫は平気で触れるし、近くの村に住む子供たちと共に遊んだり、弟が生まれてからは一緒に野山を駆け回ることもあった。

貴族令嬢らしく淑女教育はしっかりと受けて必要な知識は家庭教師により身に付けてきたが、王都の令嬢たちのように、人と人との探り合いや、表面上だけの付き合いというのはひどく苦手で…。

もちろん、いつか夢見た恋に落ちるなんてこともなかった。

そして母が亡くなって二年、母の記憶がなく、姉の私にべったりの甘えん坊に育った弟のローレウスの四歳の誕生日プレゼントを買う為、私は侍女のベスに弟を頼み、王都へ向かった。


王都の屋敷に着いたが、連絡していた父は急な仕事が入り不在で、様子を見に来ていた母方の伯父の息子のアイザックが共についてきてくれることになった。


そこで彼に出会ったのだ。


プレゼントをアイザックと探している時、偶然アイザックの知り合いに会った。久しぶりなのだろう。楽しそうに話し始めた彼に、気になっていた向かいの書店にいると合図をしてその場を離れた。


店で弟の喜びそうな本を買い、出た所で途方にくれている子供2人に出会った。

疲れたように壁にもたれかかり、グッタリとした様子が気になり、アリアンジュは声をかけた。


「あの、どうかされましたか?」

いきなり話しかけて来たアリアンジュに警戒するようにフードを被った子供が睨みつける。

彼を庇うように前に立った黒髪の少年が言葉を選ぶように返事をした。

「少し迷ってしまって…。共に来た者とはぐれてしまったのです。お恥ずかしい話、お金もスラれてしまって…。」

「まぁ…それはお困りですね…。私も王都は久しぶりで詳しくはないのですが、近くに兄がいるので、お家の方に連絡して貰うようにお願いしてみますね。」

出来るだけ安心させるようにと笑顔を見せると、ホッとしたように黒髪の少年が小さく微笑んだ。

グーギュルギュル……。

その時、フードの子供からなかなか激しいお腹の音が聞こえた。

目を丸くして見ると、フードで顔を隠すようにしているが、隙間から見える頬が赤く染まっている。


「あの、良かったらこれ…。」

先程父にお土産として買ったクッキーの缶をだして渡す。

「あ、いや、でも…。」

相変わらず警戒する様子のフードの子供の手に無理やり渡し、ふと気づいて離れた。

「待ってて。」


きっとお腹が空いているという事は長い時間飲み物も飲んでいないのだろう。

今日は日差しが強く、あの格好はかなり暑かっただろう。

すぐ近くにあるお店で果実水を2つ買うと、急いで2人の前に戻った。

「はい、これも。ちゃんと水分とってないと倒れてしまうわ。」

「ありがとう…。」

2つとも黒髪の少年に渡すと驚いた顔で受け取った。

こちらを見つめながらそっと口をつける。

味を確かめた後、少年はフードの子供にもう一つを渡した。

我慢出来なかったのか、フードの子供も怖々口をつけたあと、勢いよく飲みだした。

「私もさっき、買って飲んだの。とても冷たくておいしいでしょう?」

フフッと笑うとフードの子供がそのフードを外した。

「ありがとう…。生き返った。」

そう言って笑ったその子はとてもキラキラ輝く金髪に、宝石みたいな綺麗なエメラルドの瞳のとても美しい少年だった。


わぁ、王子様みたい…。

「生き返ったって…、大袈裟ね。フフッ、でも元気になったのなら良かった。」

「君、とっても可愛く笑うね。名前は?」

「みんなアンジュって呼ぶわ。」

「アンジュか。可愛い名前。」

「あ…ありがとう…。あなたは?」

「僕は…ごめん、言えないんだ。でも、いつか、君に今日のお礼を伝えに会いに行くよ。」

そう言って、アリアンジュの手を取ると、そっと口付けをした。

「!!」

あまりに王子様な行動に真っ赤になって固まっているアリアンジュを下から覗き込む。

「ふふ、真っ赤になって可愛い。決めた!僕、いつか君を妻にする。必ず迎えに行くから誰とも婚約せずに待っててね。」

その時、バタバタと2人を探す大人の男性達が、こちらに向かって走ってくるのが見えた。


「良かった。無事に共の者達が見つかった。アンジュ、約束忘れないでね。」

そう言って彼らの方へ去っていった。

共にいた黒髪の少年が

「ありがとうございました。またいつか…お会いできる日を楽しみにしてます。」

そう言って頭を下げてからフードの子供の後を追って走り去った。


手にあの少年のぬくもりが残っている。

しばらく真っ赤になったまま、アリアンジュは呆然としたまま、彼らが消えて行った方向を見つめていた。

心臓がドキドキする。

もしかしたら、これが、恋というものなのかもしれない…。


あれから六年。

弟と共に王都に戻ってきたアリアンジュは、本日、とうとうデビュタントを迎え、生まれて初めての城の舞踏会へ父と共に参加していた。


「綺麗だよ、アンジュ。やはりお前はお母様によく似ている。」

母の死からようやく立ち直った父は、穏やかな愛情のこもった瞳でアンジュを見つめた。

母と同じピンクブロンドの緩やかにカールした髪をハーフアップにして、母がローレウスが生まれた記念にと買ってくれた瞳と同じ色のピンクサファイヤのネックレスを身に付けた。

父からデビュタントの記念にと贈られた、同じピンクサファイヤのイヤリングを飾ったアリアンジュは、誰もが振り向くような可憐な令嬢に変身した。

中身は相変わらず田舎育ちの素朴な少女のままだったが、鏡に映った母に似た容姿に、アリアンジュは嬉しくなった。

「お前の王子様に会えるといいね。」

そう言って笑ったのは従兄のアイザックだ。

城で文官として働いている彼も、今日は朝から伯父と共に駆けつけてくれて、また会場で会おうと手を振ってくれた。

彼には、初恋の王子様の話を何度も聞いてもらった。

いつか私を迎えにきてくれるのだと一生懸命話す私を、からかうように笑って同じ話を何度も聞いてくれた。


六年もたてば、容姿も声も変わっているだろう。

とくに男の人は声変わりもある。

あの時は私より少し年上か同じくらいに見えた。

一緒にいた黒髪の少年はそれよりもっと落ち着いて見えた。

私、わかるのかしら…。


でも、そんな不安はすぐに消えた。


王族の入場と共に彼を見つけたからだ。


「アンジュ?どうした?」

呆然と視線を奪われたままのアリアンジュに父が心配そうに顔を覗き込む。


「あ…いえ。お父様…あの方は…。」

「あの方…?」


間違いない。

彼だわ…。

なんて素敵に成長されているの。

艶やかに輝くカールした金髪に、美しいエメラルドの瞳。

王妃様と同じ色…。

彼は…本当の王子様だったんだ。


「…あぁ、王太子殿下を見ていたのか。フフ、素敵な方だろう?絶世の美男子として有名な方だよ。隣にいるのが婚約者候補のオールポート侯爵家のアンジェリカ様だ。」


父の言葉にドキドキとなっていた鼓動が急に冷えた気がした。

「…婚約者…。」

「ああ。去年のデビュタントで彼らは運命の出会いをしたそうだ。詳しくは知らないが、お互いに夢中だそうだよ。」


寄り添いあう二人は美男美女でお似合いだ。

婚約者候補の令嬢はスラリと背が高く、美しいブロンドの髪。瞳はエキゾチックな赤で、とても妖艶で美しい令嬢だ。

立ち姿から姿勢の良さや品が滲み出ていて、堂々とした佇まいが美しい方…。


あぁ、あの出会いを大事に思っていたのは私だけだったのね。

そうよね…。

王都にいれば出会いなんてきっと沢山あっただろうし、あれほど美しい方だもの。

彼を好きになる人は大勢いたはず。

初恋を夢見て忘れられなかったなんて…滑稽ね…。


「アンジュ?どうした?体調が悪いのか?」

私の体は母と違って弱くないのに、心配そうに私を見つめるお父様にニコリと笑った。

「いいえ。少し緊張してしまったの。少しだけ風に当たってきてもいい?」

「私もついていこう。」

共に移動しようとした時、すぐ隣にいた令嬢がフラリと揺らめいた気がして振り返る。

見ると、顔色が真っ青になった小柄な令嬢が、フラフラと揺れている。

慌てて体を支えて声をかけると、一緒に来た兄が離れてしまったタイミングで貧血を起こしてしまったそうだ。控室に侍女がいるというので、知り合いに声を掛けられ話し始めた父に声をかけてから、アリアンジュは令嬢を控室へ送り届けた後、一人でバルコニーに出た。


会場の熱気から一変。

涼しい風を感じてホッとする。

王都に来てまだ間もないアリアンジュには知り合いはほとんどいない。

従兄のアイザックとその妹のカタリーナくらいのものだ。

なんだか急に独りぼっちな気分になり、小さく息を吐いた。


「この六年。繰り返し思い出してたのにな…。」

私だけだった…。

素敵だったな…。本当の王子様だったなんて…。


「あの…すみません…。」


ぼんやりとしていたアリアンジュの背後から落ち着いた低い声が聞こえた。

知り合いはいないから私ではないと、そのまま何とはなしに庭園を覗き込んでいいると、すぐ真横からもう一度、声をかけられた。


「あ…アンジュ…?」


「え…?」


振り向くと、漆黒の髪に美しいゴールドの瞳の精悍な青年が立っている。

その瞬間、既視感に襲われる。

…この方は…。


「アンジュ、だよね?」

真っ直ぐにアリアンジュを見つめるその瞳はひどく真剣で、胸がドキリとする。

「あの時の…フードの彼といた…。」

「やっぱり…!」

パッと表情を明るくさせた青年はそのまま騎士のように膝をついた。


「あの時は本当にありがとうございました。私はシリル・セジャンカート。ずっと貴女を探していました。どうか貴女のお名前を教えて頂けませんか?」

セジャンカート…って…!

筆頭公爵家ではないの!

王妹が現セジャンカート公爵夫人だったはず…。


「あ…私はアリアンジュ・レオノーラと申します。お会いできて光栄でございます。」

「アリアンジュ…。だからアンジュ…。」

「はい。家族は皆私をアンジュと呼びます。」


アリアンジュがニッコリ笑うと彼は硬直したようにこちらを見つめたまま静止した。

「あの…セジャンカート公爵令息様…?」

首を傾けて見上げると、ハッとしたように顔を背けた。

握った手を口元に当てたまま、顔を赤くしている。

「あの…。」

「いや、すまない。再会できて浮かれてしまって…。ゴホンッ!その…良かったらシリルと呼んでください。きっと年下だろうと、デビュタントの度にあなたを探していました…。ようやく会えた…。」

最後は独り言のように呟いたシリル様にドキンと心臓が鳴る。


あの頃と変わらず、落ち着いた知的な雰囲気に、アリアンジュはフフッと笑った。

「律儀な方なんですね。あんな何でもない出来事を忘れずに…探してくださるだなんて…。こちらこそ、ありがとうございます。王都には最近来たばかりで、知り合いもいなかったので嬉しいです。」

目を細めたまま、シリル様を見上げると、穏やかに笑い返してくれる。


「当たり前です。あんなに、自然に困っている人に声をかけられる人なんて…会ったことがなかったので…。その、王都にはいなかったんだね。」

「はい。私の母は体が弱く、空気の良い田舎の別邸で暮らしていたんです。7年前に母が亡くなった後も、母に似た私や弟を見るのが辛いと…父とは、離れて暮らしていたんです。デビュタントを機に弟も一緒に王都に出てきました。」

「そうか…。私で良かったら、君の友人になりたいんだけれど…ダメかな?」

「!!良いのですか?…嬉しいです…。私の事はアンジュと呼んでください。」

「ありがとう、アンジュ…。…アンジュ、会場に戻ったら、友人である私と踊ってくれるかな?」

「まぁ…、もちろんです。デビュタントの最初のダンスは父と踊る予定ですので、その後、踊って頂けますか?」

「ありがとう。ではまずは会場までエスコートさせてくれるかな。」

「はい、お願いします。」


背の高いシリル様の腕に手を添えて会場に戻る。私を探していた様子の父の所へ送られ、一度彼と離れた。

「彼はセジャンカート公爵家の嫡男で、宰相の補佐官だぞ。アリアンジュは可愛いから見初められたのか。」

「まさか!…実は以前、王都へ遊びに来た折にお会いしたことがあるのです。友人になりました。」

「友人…。いや、それにしたって…彼は氷の令息として有名な…。」

思案する面立ちで父が黙る。

氷の…?

穏やかで優し気な彼には似つかわしくない気がするけど…。

その時、王太子殿下と婚約者候補の令嬢のダンスが始まった。


美しい二人のダンスに周囲の者達がホウッと感嘆の息を吐く。

「なんて美しい二人…。でも、アンジェリカ様ってとてもキツイ性格だって聞くわ。」

「王太子妃になるための教育を婚約者に選ばれる前から受けていたそうよ。」

「父君のオールポート侯爵は権威に固執しているから…。元から王太子妃の座を狙っていたんだろう。娘が美しくて良かったな。」

「婚約者ではなく、婚約者候補らしい。侯爵は戦争推進派だろう。穏健派の陛下の反対があったと聞く。」


周りの声に聞き耳をたてながら、アリアンジュは優雅に踊る二人を見つめた。


艶やかなブロンドも美しいエメラルドの瞳も記憶のままだ。

王太子殿下は私より二歳年上だったはず。出会った時は十二歳。

もう少し幼く見えたのに、今は素敵な青年に成長されたのね。

もともと、遠い存在だったのだわ…。


胸に残る甘ずっぱい初恋の記憶がキリキリと心を締め付ける。

六年も思っていたのだもの。

すぐに忘れるなんて出来ないだろうことは、わかっている。

まして想像以上に素敵に成長された姿を見てしまったのだもの。


王族のダンスが終わり、皆が拍手を送る。

その後、今年デビュタントの者達がそれぞれのパートナーを伴ってダンスフロアに移動する。

父に誘導され、アリアンジュは初めての舞踏会でのダンスを踊り始めた。


「今更だが…アンジュ。別邸で二人を残したまま…寂しい思いをさせて悪かったな…。」

踊りながら、小さくつぶやく父の言葉にニコリと顔を上げた。

「いいえ、お父様。私もローレウスもお父様を愛しています。お父様が私たちを愛していることもわかっています。だから寂しくなかったですよ…。」

「…ありがとう…。やはりお前はエレナに似て…優しいな…。」

「これからは私達が傍にいますから…お父様も寂しくないですよ。」

「ああ…、そうだな。」


愛情のこもった瞳で見つめる父の穏やかな表情に、アリアンジュは明るい笑顔を見せた。

そうだわ。今日は私のデビュタントだもの。

楽しまなくちゃ、もったいないわ。


笑顔で踊るアリアンジュの姿に周りがざわめいたことに、アリアンジュは気付いていなかった。


「あの…可憐で美しい令嬢はどこの令嬢だ?」

「見たことがない…!下位貴族の令嬢だろうか…。妖精のようだ…。」

「踊っているのはレオノーラ伯爵だ。では別邸で暮らしているというご令嬢か…。亡くなったレオノーラ伯爵夫人も可憐な方だったが…、よく似ていらっしゃる…。」


デビュタントの令嬢たちのダンスが終わり、父と会場に戻ると、すぐにシリル様が来てくれた。

「美しいお嬢様、どうかあなたと踊る栄誉を私の与えてくれませんか?」

またも、膝をついてまるで王子様のようにダンスを申し込む彼の姿に真っ赤になる。


「…喜んで。」

「ありがとう、アンジュ。伯爵、お嬢様をお借りいたします。」

「セジャンカート公爵令息殿、どうぞよろしくお願いします。」

父とシリル様の様子を恥ずかしそうに見つめながら、アリアンジュは自分が周囲の注目を集めていることに気付いた。


みんな、こちらを見てる…?


「いこう、アンジュ。」

ニコリと優しく微笑んでダンスフロアにエスコートしてくれるシリル様の腕に手を添えながら、落ち着かない気持ちになる。

「あの…、シリル様。なんだか周りが私たちを見ているような気がするのですが…。」

「あぁ…。きっとアンジュが可愛いから注目しているんだよ。」

「…!!そ、それはないかと…。」

「でも、今は私だけを見てくれるかい?」

甘く微笑まれて落ち着かない気持ちになる。


身体を動かすのが好きなアリアンジュは、ダンスも得意だ。

弟のローレウスと一緒に家でも踊ったりしていたが、講師の先生と踊る以外、大人の男性と踊ったのは父とアイザック兄様だけだったため、緊張していた。

でも、シリル様とのダンスは全く違う。巧みに体を誘導してくれるのか、羽が生えた様に動きやすい。

これほど楽しく踊ったのは初めてだ。


「すごい!シリル様。ダンスがお上手なんですね。まるで羽が生えたみたいに動きやすいです。」

「よかった…。いつかデビュタントで再会したら、ダンスを申し込もうと練習していたからね。」

「もう…、そんなこと…。」

きっと今までも何度も美しい令嬢たちと踊ったんだろうな…。

目の前にはサラサラと揺れる少し長めの黒い髪に、美しい金色の瞳。5年前に出会った時よりずっと低くなった落ち着いた声は耳に心地よく響き、アリアンジュよりも頭一つ分以上高い身体は鍛えているのか均整がとれていて男らしい。

従兄のアイザックは剣が苦手でヒョロッとしているため、全然違って見える。

「アンジュ…。その、ベルナルド殿下は…君との約束を忘れたわけじゃないんだ…。」

「あ…。…フフ…。大丈夫ですよ。シリル様。あれから六年経ったのです。あんなたった1度出会っただけの私の事を覚えているはずがありません。」

「でも、見ていただろう…?さっき、殿下を…。」


言葉を選ぶように気遣いながら心配そうにアリアンジュを見つめるシリル様の様子に、本当に私は隠し事が出来ないのだなと反省する。さっき、父にも心配させたし…。


「実はあの出会いは私の初恋だったのです。生まれて初めて可愛いだなんて言ってもらえて、いつか迎えに行くだなんて言われたら、そりゃ、恋に落ちちゃいますよね…!でも、思い出だけで…思い出すだけで楽しかったんです。この六年。それだけで充分です。それに、シリル様が私を覚えてくれていたから。王都に友人も出来たし、過去の私を褒めてあげたいくらいです!」


ニッコリと笑うと、切なげに金色の目を細めて小さく笑い返してくれる。

お優しい方…。あの時も、殿下を守るように私の前に立ち、でも声をかけてきた私にも誠実に受け答えをしてくれた。別れる時も御礼を言って頭を下げた。

今考えたら公爵家の嫡男なら、もっと無礼で傲慢でもおかしくなかったのでは…。


ダンスが終わる間際、シリル様はギュッと手を握った。

「アンジュ。私が必ず、殿下に話してみるからもう少し待っててくれるか?」

驚いて見上げると、どこか傷ついたような迷子の少年の顔が見え隠れする。

初恋だなんて言ったから…気を遣わせた…?

本当にいいのに。

もう殿下には愛する方がいて、婚約も決まりそうだという。

ゆっくり首を振る。

「本当に…大丈夫なんです。思い出は思い出のままで…。ありがとうございます、シリル様。それよりもシリル様の事をお聞きしたいです。」

「…!ではまた、貴女に会いに行っていいかい?」

「もちろんです。私は王都にいますし、シリル様以外まだ、友人もいないのですからね。」

明るく笑って言うと、フッと優しく笑い返してくれた。

「ああ、そうだね。アンジュは私以外友人がいないのだった。それなら唯一の友人としては色々王都を連れ出して案内しないとね。」


和やかに笑いあいながらダンスを終えると、父の所までエスコートしてくれる。

「レオノーラ伯爵、また近々お嬢様をお誘いさせて頂いてよろしいですか?」

「…!も、もちろんでございます。その…アンジュは、ずっと田舎の別邸で暮らしていたので、王都には慣れておりません。その…。」

「ええ。大丈夫です。彼女は私の恩人です。何事からも守りますのでどうかお任せください。」

「ありがとうございます。」


「じゃあ、また。手紙を送るよ。」

そう言って優しい笑顔を残して戻っていった。


「驚いた…。あんなに穏やかに話されるシリル様を見たのは初めてだ…。」

「え?そうなのですか?」

父が呆けたようにシリル様の消えて行った方向を見つめている。

その時、アイザックが驚いた顔で近づいてきた。


「アンジュ!お前、すごいな。あの氷の宰相補佐官と踊るなんて!」

「アイザック兄様。氷…?え?シリル様が?」


「ああ、俺、初めて見たよ。あの方が笑っているところ。いつも無表情で淡々としていて、十八歳という若さで宰相の補佐官に任命されたっていう天才なうえ、母親は王妹のビステリア王女殿下。王位継承権もあるし、あの顔で公爵家の嫡男。令嬢の人気は凄まじいのに、一向に女性に興味を示さないからついたあだ名が氷の宰相補佐官。」


「……シリル様って…誤解されやすいのね…。」

「いや、違うだろ。お前が特別なんじゃないの?」

特別…。

私を覚えていてくれて探してくれていた…。

デビュタントで初めて参加した舞踏会ですぐに見つけて声をかけてくれた…。


カァッと急に恥ずかしくなって顔を赤くするアリアンジュにからかうようにアイザックが肩をポンポンと叩いた。

「お前の王子様は金髪じゃなかったっけ?」

「それが…。」


ずっと初恋の話を聞いてもらっていたアイザックには話しておこうとアリアンジュは初恋の王子様が誰だったのか、シリル様と知り合うことになった話を聞かせた。


「本当に王子様だったとはな…。すごいな、アンジュ。いや、でもベルナルド殿下には婚約者が…。」

「……ええ…。ショックだったけどね…。でも仕方ないかなって思う。私達一度しか会ってないのよ。覚えている方が不思議なくらいだったのよ。」

切ない表情になるのは許して欲しい。

だって本当に大切な恋だったから。


「でもシリル様は覚えてくれていたんだろ。これから大変だぞ、アンジュ。滅多に踊らないシリル様が、デビュタントの令嬢をダンスに誘い踊ったって会場は大騒ぎだ。注目されているぞ、お前。田舎育ちのお前にはわからないだろうけど、令嬢の嫉妬って怖いからな。気を付けるんだぞ。」


とりあえず、俺と踊っておくかと明るく笑ってダンスフロアに誘ってくれる。

アイザックは母の兄であるマルゴー子爵の嫡男だ。

アリアンジュより6歳年上のアイザックは子供のころから面倒見がよく、妹のカタリーナと一緒に私の面倒をよく見てくれた。ローレウスの事などは目にいれても痛くないほどの可愛がりようだ。

領地も隣接しているため、暇さえあればしょっちゅう様子を見に来てくれる優しい兄のような存在。


「令嬢の嫉妬も怖いけど、お前可愛いからな。ダンスに誘いたくてソワソワしている令息たちが沢山いるぞ。そっちも気をつけろよ。まぁ、シリル様の後にダンスに誘う猛者がどれだけいるかわからないけどな。」


そういって心配しながら注意をしてくれるアイザックをありがたく思っていたが…。

その後、身に染みて実感することとなる。


アイザックとのダンスが終わった後、ひっきりなしに誘ってくる令息たちのダンスを断り、疲れた私は従妹のカタリーナを探して会場の端へ移動した。

近くの給仕の者から果実水を受取り、喉を潤わしていると、後ろから突き飛ばされたのだ。

「身の程を知れっ。」

小さく聞こえた女性の声には悪意があった。


グラスは空だったため、零すことはなかったが、倒れこんだところがマズかった。


軽くぶつかったのは先ほどベルナルド殿下と優雅に踊っていた婚約者候補の令嬢だったのだ。

「キャッ…!貴女、何?」

ギロリと睨まれる。

美しい方が怒ると迫力があるのね…。

ぼんやりと見上げたまま、謝罪の言葉を口にしようと口を開いた時…。


「大丈夫か?アンジュ。ケガはしていないか?貴様、王太子である私の婚約者に危害を加えるとは…!」


ベルナルド殿下が庇うように令嬢の肩を抱き寄せ私を見下ろした。


美しいエメラルドの瞳にアリアンジュが映る。


『決めた!僕、いつか君を妻にする。必ず迎えに行くから誰とも婚約せずに待っててね。』

キラキラした瞳で真っすぐに言ってくれたあの男の子と目の前の殿下が重なる。


目の前の瞳にはあの時の親しみも何もこもっていない。

あるのは冷たい感情だけ…。


「し、失礼いたしました。申し訳ございません。オールポート侯爵令嬢様。お怪我はありませんか…?」

転んだ時に打ったらしい膝の痛みを抑えながら、立ち上がろうとするが震えて力が入らない。


その時…スッと目の前に手を差し伸べられた。

「アンジュ、大丈夫かい?」


「シリル様…。」

心配そうに眉を寄せて、こちらを覗き込むシリル様の手がアリアンジュの手を握る。

その時、フゥッと息が出来たような気がした。

「あ、ありがとうございます…。」

「立てるかい?見ていたけど、誰かに突き飛ばされたね。」

ギロリとシリル様がアリアンジュの後ろを睨みつけると、後ろで息を飲む音が聞え、戸惑ったような空気がその場を支配した。


「…”アンジュ”…?」


声のした方を見るとベルナルド殿下が驚いたようにこちらを見つめている。

「シリル…、アンジュと言ったか?」

私を立ち上がらせて、大丈夫かどうかを確認すると、シリル様はゆっくりと殿下を振り返った。


「ええ。彼女は”アンジュ”。ベルナルド殿下。アリアンジュ・レオノーラ嬢です。」

「アリアンジュ…。アンジュ…?君は…。」

「殿下、私、ぶつかったところが痛とうございます。少し休みたいですわ…。」


その時、オールポート侯爵令嬢が殿下にしなだれかかり、ハッとしたように殿下が彼女を見つめた。

「あぁ、すまない。少し別室で休もうか。…君も気をつけなさい。」


「はい…。申し訳ございませんでした…。」


去っていく二人の背中に謝罪した後、気遣うようにフワリと優しく肩に手を置かれた。

「足を痛めただろう…?大丈夫か?」

シリル様の顔が近くて驚く。

「だ、大丈夫です。ただの打ち身なので…。」

「とりあえず、医務室へ行くか…?」

「いえ、そこまでは…。ありがとうございました。父の所へ戻ります。皆さまもお騒がせして申し訳ございませんでした。」

周囲に謝罪すると、アリアンジュを突き飛ばした者が居たであろう周辺にいた者達が気まずそうに目を逸らした。

シリル様が睨みつけているからだ。


「あぁ、レオノーラ伯爵が迎えに来たようだ。この後は無理して踊らない方が良い。」

「はい。お気遣いありがとうございます、シリル様。」

少し情けない笑顔を向けると、困ったように笑い返してくれる。

やっぱり…全然氷の宰相補佐官様ではないわ…。

温かい方…。


「失礼しました。娘が何か…。」

父が心配げにシリル様に頭を下げる。

「いえ、お嬢様に何も非はありません。心無い者に突き飛ばされ、巻き込まれたのです。足を痛めているので、どうか帰ったらゆっくり休ませてあげてください。」

「ありがとうございます。アンジュ、大丈夫か?つかまりなさい。今日はもう帰ろうか。」

「そうですね…。シリル様、今日は本当にありがとうございました。」

「いや…。また、連絡します。アンジュ、気を付けて帰るんだよ。」

アリアンジュの頬にかかるピンクブロンドの髪をそっと優しく手で払い耳にかける。

その甘い仕草にドキリとしてしまう。


その様子に、周りの者達が息をのんだ。


貴族の令息と言うのはこんなに甘いものなのかしら…?

アイザック兄様しか知らないから、全くわからないわ…。


その後は、父と共に陛下にデビュタントの挨拶に行き、そのまま帰路に就いた。


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「アンジュ。お前に手紙が届いているよ。」


デビュタントの舞踏会から10日後。

アンジュの元にはいくつかの家から、婚約の打診の手紙が届いていた。


「さすがお嬢様。あの数時間しか参加できなかったのに、こうして婚約の打診の手紙が届くなんて…!」

嬉しそうに笑うベスに、アリアンジュは何とも言えない微笑みを見せる。


顔も知らない方からの手紙に、なんと返事をすればいいのかわからない。

何人かと挨拶は交わしたが、結局踊ったのはシリル様とアイザック兄様だけ。

そのアイザック兄様は婚約者がいる従兄だし、シリル様は私の初恋を知っている友人だ…。

初恋は見事に砕け散り、印象も最悪だ。

愛する婚約者に危害を加えたと思われたのだから…。


テーブルに置かれた数枚の手紙を何とはなしに見つめていると、差出人にシリル様の名前を見つけた。

あぁ!本当に手紙を書いて下さったのね。

私も御礼の手紙と一緒に、何かお品を…と思っていたけど…。

急いで手紙の封を切ると、目を通す。


『親愛なるアンジュへ

先日はずっと会いたかった貴女と再会出来て夢のようだった。

貴女とダンスが出来たことも、とても嬉しかった。素敵な時間をありがとう。

足のケガは大丈夫だっただろうか?どうか、大事にしてほしい。

今度良かったら、一緒に出掛けないか?今有名な劇団が王都に来ていてチケットが手に入ったんだ。

六年前の御礼もしたいし…。貴女からの良い返事をまっている。   シリル・セジャンカート  』


「まぁ…セジャンカート公爵家のシリル様からですか?すごいですね、お嬢様。あの方は氷の宰相補佐官と呼ばれていて…。」

「フフ…知っているわ。でも、本当の彼はとても温かい方だったわ…。返事を書かないと…!ベス、便箋と封筒をお願い…。あと、親切にしてくれた方に御礼の品ってどんなものが良いかしら…?」

「そうですね…。刺繍をしたハンカチとか…。でも、婚約者がいらっしゃる方だと失礼になりますね…。」

「婚約者…。シリル様は婚約者の方はいらっしゃるのかしら…。」

そういえば、彼は殿下より年上の十九歳。公爵家の嫡男なら、いてもおかしくはないわ…。でも、こうして観劇に誘ってくださるというのは…。

「氷の宰相補佐官様には婚約者はいらっしゃらないようですよ。令嬢からの人気は高いのですが、近づく令嬢みんな、冷たくあしらわれているようですよ。」

「そうなのね…。だったら、御礼に刺繍を頑張ってみようかしら…。」

「よいと思います。早速ハンカチと刺繍糸を用意しないと。」

嬉しそうに部屋を出て行くベスの背中を見送りながら、フウッと長く息を吐いた。


「長いまつ毛だったな…。」

私を冷たく見つめるエメラルドの瞳を縁取る長いまつ毛。

艶やかに輝く金色の髪。

ベルナルド殿下は私を見ても何も思い出さなかった…。

そしてアンジェリカ様を私の愛称と同じ、”アンジュ”と、愛おしそうに呼んでいた…。


私は彼の”アンジュ”ではないのね…。


六年も思い続けた淡い初恋はなかなか心から出て行ってくれない。

思い出す度、切ない溜息を吐くことになる。

オールポート侯爵令嬢の美しい紅玉の瞳。艶やかに輝くブロンドの長い髪もスラリとした背の高いスタイルの良いドレス姿も、何一つ、私には無いものだ。


「ダメね。もう、忘れないと。それより、この手紙に返事をしないと…。」


ベスが持ってきてくれた便箋にシリル様への返事を書く。

彼の事を思い出すと温かい気持ちになる。

美しいあの金色の瞳を持つ彼への刺繍はどんなものにしようかしら…。


そして今日、シリル様とのお出かけの日がやってきた。

予定より少し早い時間に迎えに来てくれたシリル様は、舞踏会の時と違ってカジュアルな装いだ。

そんな格好も素敵なのね。


「お待たせしました。今日はお誘い、ありがとうございます。」


迎えに出たアリアンジュを目に映した瞬間、シリル様が静止する。

「…可愛い…。」

「ふぇ…?」

聞えた言葉にカァッと赤くなり、おかしな声が出たアリアンジュに、慌てた様にゴホンと咳き込んだ。

「いや、あまりに可憐で可愛いから、見惚れてしまった。先日のドレス姿も素敵だったけれど、今日もとても綺麗だ。良く似合っている。」

「あ、…ありがとう…ございます…。シリル様もとても素敵です…。」

「ありがとう…。い、行こうか。」

お互い照れながら馬車に乗り込む。後ろには満面の笑みのベスと、何とも言えない顔をした父、そして見送りに出てきたローレウスがいる。


「お姉様、いってらっしゃい!お土産買ってきてね。」

ギュッと抱き着いてきたローレウスの頭を撫でて、同じ目線になって抱きしめると、甘えるように抱き返してくる。

「いい子にしててね。」

「はい、お姉様。」


すると、横からフワリとシリル様がローレウスを抱き上げた。

「わぁ!高い!!」

思わず声を上げたローレウスにシリル様がニコリと笑う。

「今日は君のお姉様をお借りするよ。お土産は私が買ってくる。次は君も一緒に出掛けようか。」

「え?いいの!?」

「あぁ、もちろんだ。どこか考えておくよ。」

「ありがとう!二人とも、楽しんできてね。」


可愛い天使の様なローレウスに見送られ、馬車に乗り込む。


「ありがとうございます、シリル様。」

「ん?何がだ?貴女の弟君は素直で可愛いな。どんなものを喜ぶだろうか…。」

真剣に考え始めたシリル様の表情にフワリと温かい気持ちが拡がる。


「あの…先日は本当にありがとうございました。それで…これ…。拙い出来で申し訳ないのですが…御礼です…。」


ベスに綺麗に包んでもらった刺繍したハンカチを渡す。

美しいシルクのハンカチに、悩んだ結果、感謝と言う花言葉をもつピンクの薔薇と、シリル様の瞳の色と同じ金色の糸でイニシャルを入れた。


「ピンクの薔薇…君の瞳と同じ色だ…。嬉しい。ありがとう、アンジュ。大事にする。」


嬉しそうに目を細めたシリル様の言葉に、自分の瞳と同じ色の刺繍をしてしまったと気づく。

だから、ベスはニヤニヤしていたのね。

それにしてもどうして、こんなに親切にして下さるのだろう…。

もしかしたら、殿下の事を自分の事のように申し訳なく思って気遣って下さっているのかしら…。

もしそうなら、申し訳ないわ。私が初恋だなんて言ってしまったから…。

「どうした?アンジュ。」

優しい笑顔を見せるシリル様にいえ…と、小さく返事をする。


劇場に着くと、案内された席は特別席で個室になっている。

ものすごくお高いのではないかしら…。

飲み物も用意されたそこはゆったりと座れるソファー席になっていて、劇も真正面で見れるとても素晴らしい席だった。

「初めての観劇がこんなに素晴らしい席だなんて…ありがとうございます、シリル様。」

「たまたま…手に入っただけだよ。こちらこそ、付き合ってくれてありがとう。」


歓談ののち、劇を満喫し、感動の心持のまま二人で出たところで、まさかのベルナルド殿下とオールポート侯爵令嬢に鉢合わせしてしまった。


「シリル…。その…女性は…。」


じぃっとアリアンジュを見つめるベルナルド殿下の瞳には探るような警戒の色が垣間見える。


「殿下もいらしてたんですね。こんにちは、オールポート侯爵令嬢殿。」

「まぁ、シリル様もいらしてたのね。あら、この方は先日の失礼な令嬢ね…。」


「あ…、先日は本当に申し訳ございませんでした。お怪我はなかったでしょうか?」

恐縮してアリアンジュが問うと、不機嫌そうに眉を寄せた。

「痛かったに決まっているでしょう?ねぇ、行きましょう、ベルナルド様。」

腕を引いて行こうとするオールポート侯爵令嬢に、戸惑ったように殿下が頷く。

「…ああ…。」


「お待ちください。殿下。この方は”アンジュ”です。貴方が探していた、六年前私たちを助けてくれた令嬢ですよ。」


「は…?」

その言葉に、驚いた顔でベルナルド殿下が振り向いた。


「何を言っているんだ…、シリル。”アンジュ”はこのアンジェリカだ。」

「そ、そうですわ!六年前、私が殿下と出会ったのです。変なことを言わないでください!」

焦ったようにオールポート侯爵令嬢がシリル様に叫ぶ。


「私はずっと殿下に申し上げてましたよね。アンジェリカ・オールポート侯爵令嬢ではない(・・・・)と。」

戸惑ったようなベルナルド殿下の様子に、アリアンジュは訳が分からなくなる。

私を探していた…?

殿下は私を忘れたわけではなかったの…?


「しかし…。アンジュは…アンジェリカは私たちしか知りえないことを知っていた。侯爵からも、間違いなくその日、王都へアンジェリカが遊びに行っていたと聞いたし、彼女には兄もいる。」


混乱する様子のベルナルド殿下に、オールポート侯爵令嬢が涙を見せる。

「信じて下さらないのですか…?シリル様にもその時お会いしたのに…!」

「そ、そうだ!お前も一緒に会っただろう!」


「いいえ。私は貴女にはお会いしておりません。アリアンジュ。君からも伝えた方が良い。オールポート侯爵令嬢は君のふりをして殿下に近付いたのだ。」

「ふりだなんて!!シリル様、あまりにもひどいわ!!あの時、親切でお二人を助けて差し上げたのに!!」

シリル様の言葉にオールポート侯爵令嬢が叫んだ。


あぁ…なんとなくわかってしまった。

そうか…。殿下は私を忘れたのではなく、彼女を私だと思っていらしたのね…。


「ベルナルド殿下…。お久しぶりです。いえ、先日もお会いしましたが…。六年前は名前を名乗って頂けなかったので、デビュタントの舞踏会で、もしかしたらお会いできるかとドキドキしておりました。王子様みたいだって思った貴方が、本当の王子様だとわかった時は驚きました…。思っていた再会にはなりませんでしたが、シリル様に気付いて声をお掛け頂いたのです。」


ニコリと笑うと、ハッとしたようにベルナルド殿下が目を見開く。


「ピンク色の瞳…。ピンクブロンドの髪…。その笑顔…!」


「違うわ!!ひどいわ、貴女、嘘を言うなんて信じられない!殿下。この女やシリル様の言葉なんて信じないでください。彼は私達の婚約を陛下に阻止するように言い含められているのです。だから情報を与え、偽物を用意したんですわ!」


涙ながらに訴えるオールポート侯爵令嬢の言葉に、キッとベルナルド殿下が私たちを睨みつけた。

「本当か?シリル。見損なったぞ。私たちの恩人に対する非道な振る舞い。私はアンジェリカを信じる。」

「殿下…!!」


目の前で茶番を見せられたような気持になり、何とも言えない気持ちでため息をつく。


「…シリル様…、もう良いのです。私の為にありがとうございます。きっと殿下にとっての”アンジュ”は私ではなくオールポート侯爵令嬢様なのでしょう。」

「しかし、アンジュっ…。」

申し訳なさそうにアリアンジュを見つめるシリル様に小さく首を振る。


「非礼をお詫びします。では、ベルナルド殿下、オールポート侯爵令嬢様、失礼いたします。」

静かに頭を下げると、アリアンジュはシリル様の腕を引き、彼らとは別の出口へ向かう。


しばらく無言で歩いていると、シリル様が立ち止まった。

「すまない、アンジュ…。」

途方にくれたような表情のシリル様に、思わずフフッと笑ってしまった。


「もう、良いのです、シリル様。私のためにありがとうございます。殿下はオールポート侯爵令嬢様の事を私だと思っていらっしゃるのですか?」

アリアンジュの問いにシリル様がため息をついて頷いた。

「去年のデビュタントの折、オールポート侯爵令嬢が、殿下に声をかけてきたんだ。私を覚えていますか?”アンジュ”でございますってね…。」

「まぁ…。」


「私の差しあげたクッキーは召し上がられましたか?と。他にも出会った場所や話した内容をやけに詳しく知っていて、殿下から聞いた時は本物なのかと思ったくらいだ。でも実際に会ってみて、全くの他人だとすぐにわかった。私の出会ったアンジュは見たこともない美しいピンク色の瞳だったし、髪の色もブロンドでも甘いピンクがかった可愛らしい色だった。それにいくら成長してもあんなに高慢な話し方や目をしない。」

キッパリと言い切るシリル様に顔が熱くなる。

「それにね。殿下は忘れているようだけど、アンジュには小指の根元にハートの形をしたホクロがあった。君に果実水を貰った時に見えたんだ。アンジュ、手袋を外してくれるかい?」


そう言われ、アリアンジュはゆっくり手袋を抜き取った。


右手の小指の根元に小さなハートの形をしたホクロが確かにある。

そんな事まで覚えてくれていたのね…。


シリル様は嬉しそうにそのホクロをそっと撫でるとそのまま手を取った。


「アンジュ。もしも…もしも貴女がもう殿下の事はいいと言うなら…私にもチャンスはあるだろうか…?」


真剣なその金色の瞳にドキンと大きく鼓動が鳴った。


「シリル様…。」

「…私は氷の宰相補佐官と揶揄されるような、愛想もない、仕事人間で面白みのない男だ。初恋を引きずってデビュタントの夜会の度に、忘れられない令嬢を探し続けるほどの諦めの悪さだ。再会して、また同じ笑顔に恋に落ちてしまった。」


それって…。

シリル様は私を…。


「すぐに答えは出さなくていいんだ。ただ、覚えていて欲しい。私は貴女の事を忘れられなかった。貴女に、今の私を知って欲しい。そして今の貴女を知りたいと思っている。」


ギュッと握られた手は大きくて温かい。

真っ直ぐに見つめる金色の瞳は真剣で、シリル様の言葉が本当なのだと思い知る。


「シリル様…。あの…。お時間を頂けますか?私も…シリル様を知りたいです…。」


アリアンジュの言葉にパッと嬉しそうに目を輝かせると、シリル様はフワリと笑顔になった。

「ありがとう、アンジュ…!行こうか。まだまだ連れて行きたい所が沢山あるんだ。」

そのまま手を握り歩き出す。


その日は王都で半年は予約が取れないと言われる有名なランチの店に連れて行ってもらい、ほっぺたが落ちそうなほど美味しいお昼を共にした。


一緒にローレウスのお土産を選び、一緒に出会った時の店で果実水を買って近くの公園で休む。


シリル様は終始優しく、気遣いに溢れていて、アリアンジュの一挙手一投足をまるで一欠片も見逃さないように、見つめていた。


そしてアリアンジュを屋敷まで送り、次の約束をして、帰っていく。


次に会った時には約束通り、ローレウスが楽しめそうな公爵家が所有する湖のある広大な芝生が広がる森へピクニックに行き、馬に乗せて貰い、あっという間にローレウスはシリル様に懐いてしまった。


シリル様に、妹のラナ様を紹介されて、そこから少しずつ、令嬢の友人も出来た。


「お兄様の幻の初恋姫が、実在したとは思わなかったわ!頑なにオールポート侯爵令嬢ではない、他にいるって認めなくて、殿下に初恋姫を取られて現実から逃避しているのかと思っていたの。」

思い出すようにフフッと笑って話してくださる公爵令嬢のラナ様は、明るい方で、友好国である隣国の公爵子息との婚姻が決まっている。

シリル様と同じ黒髪に、菫色の瞳の美しい方で、公爵令嬢なのに驕ったところのないさっぱりした方で、すぐに仲良くなった。


彼女が紹介してくれる友人も、素敵な方ばかり。

「こんなに素敵な方達が側にいるのに、なぜ、シリル様は婚約者がいなかったのかしら…。」

思わず呟いた言葉に、生温かい視線が集中する。

「あのね、何度も言うようだけれど、お兄様は公爵家嫡男。家族や親族の誰もが婚約を勧めてあらゆる令嬢を紹介したわよ。でも、心に決めた人がいるからの一点張り。」

呆れたようなラナ様の言葉に、隣に座っていらっしゃったヤーコブ侯爵令嬢がうんうんと頷く。

「そうですわ。私も3年前にシリル様と婚約者候補として顔を合わせた1人ですもの。でも、あの方は見事に私に興味も視線も欠片も向けて下さいませんでした。フフ…。今は私も尊敬出来る婚約者がいますが、当時は社交界で大人気のシリル様に憧れていた1人でしたからそりゃあ、ショックでしたわ。」


クスクス思い出すように笑ったリリアナ様は、プラチナブロンドのストレートの髪と青い瞳の美しい方だ。


「でも、シリル様の初恋姫…アンジュ様に会って忘れられないのは仕方ないって実感しました。明るくて、素直ですれてなくて。貴女、他家の侍女の方の名前まで一度会ったら覚えて笑いかけるでしょう?我が家のお茶会に貴女が来た日から、我が家の侍女は心を鷲掴みされたのよ。だけどちゃんと令嬢としての礼儀も知識も身についている。それに本当に…見惚れるほど、美しいピンクの瞳…。紛う事ない美少女よね。」


真っ直ぐな褒め言葉にカァッと頬が熱くなる。


「フフ…可愛らしい方ね。そうやってきすぐに赤くなるところも可愛いの。」


「あら、お兄様が帰ってきたわ。いつもこちらに顔なんて出さないのに。」


振り返ると、公爵家の庭園のガゼボにいる私達の元へ、シリル様が向かってくるのが見える。

ここ数日、急に隣国から使者が来ることになって、城に詰めていると聞いていたが、落ち着いたのだろうか…。

少しくたびれた様子のシリル様がこちらを見つめて…目が…あった…。


金色の瞳が一瞬で喜色を帯び、フワリと笑みを見せた。


あ…。


何枚もの絵画をめくるように、シリル様の表情の動きがゆっくりに見える。

時間が…とまったのかと思った…。


あぁ…。

好…き…。

私、この方が好き…。


「アンジュ…!」

すぐに目の前にきたシリル様の愛情のこもった瞳に、ありえないくらい心臓がバクバクと鳴る。

血が沸騰したように、ドクドクと音がするように感じて、アリアンジュは言葉を無くした。


「アンジュ…?どうしました…?」


景色がぼんやりとして、目の前の優しい金色の瞳を向けるシリル様以外の全てが消えた気がした。


水の中で声がするように、周りの音がぼんやりとなり、ただただ鮮明に聞こえるのはシリル様の低い声だけで…。


「アンジュ、大丈夫かい?」


そっと肩に手を置かれて覗き込まれた瞬間、アリアンジュはガタリと立ち上がった。


「も、申し訳ございません!私、急に用を思い出しました!!ラナ様、皆さま、シリル様、し、失礼します!」

令嬢にあるまじき素早さで立ち去ると、逃げるようにガゼボを後にする。

その様子をみていたその場にいた令嬢たちはアリアンジュの消えて行った方をポカンと見つめる。

アリアンジュの様子に動揺したまま、静止していたシリルに、ラナは慌てて声をかけた。

「お兄様!追いかけて!!」


この声にハッとしたように、シリルがアリアンジュの後を追った。

公爵家の屋敷は広く、まだ迎えが来ていなかった馬車止めでぼんやりと立っているアリアンジュを見つけると、シリルはその腕を捕まえた。


「アンジュ!!どうし……っ…!?」

顔を覗き込んだ瞬間、真っ赤に染まったアリアンジュの泣きそうな表情にシリルの心臓がドクンと鳴る。


「す、すみません…、シリル様…。失礼な態度を…でも、手を放して頂けますか…?」

小さく呟くような可愛い声に、シリルはドクンドクンと激しくなった鼓動を抑えるように、ゆっくりと問う。

「どう…して…?」

ドクンドクン…

「どうしてって…。わ、私…なんだかシリル様の顔を見たら…平常ではいられなくて……。」

ドクン…ドクン…

「平常ではいられないって…私の事を嫌いになった…?」

「そ、そんなわけ…!!」

焦ったように顔を上げた真っ赤に染まったアリアンジュの目の前にはシリル様の泣きそうな顔…。

「ち、違うんです…。そうじゃなくて…。」

「うん…。」

「私…さっき…きづいて…。」

「うん…。」

「私…シリル様が…。」


あぁ…私…。こんな気持ち…初めて(・・・)だわ…。

この六年…初恋だと思っていた気持ちと全然違う…。

恋が…こんなに大きく心を揺らすものだなんて…知らなかった…。


「アリアンジュ…、好きだよ。」

耳に心地よい、この数か月何度も会いに来てくれて傍にいてくれた彼の…かすれたような声が耳に響いた。

見上げると、熱を孕んだような真剣な色をした金色の瞳が真っ直ぐにアリアンジュを見つめている。


「好きだ…。アンジュ…。君は私をどう思っている?」

…!!

その答えは…もう…一つしかないって気付いた…。


ポロリと涙が零れる。

「好きです…。私…シリル様に恋をしてしまいました…。」

 好きだと思うだけで涙が出てくる…。


流れる涙をそっとシリル様が震える指で触れた。


「私はずっと…初めて会った時からアンジュ、君に恋をしている…。再会してまた二度目の恋をした…。」

「シリル様…。」

フワリと長い腕が伸びてきて、アリアンジュはシリル様の腕の中に抱きしめられた。

優しい力加減で抱きしめるその腕は震えていて…胸がキュウッとなる。

そっとアリアンジュは小さな手をシリル様の背中に回すとキュッと抱きついた。


一瞬固く揺れた後、シリル様にギュウッと力強く抱きしめられる。


「私と結婚して欲しい…。絶対に幸せにする…。」

「はい…シリル様…。」


様子を見に来ていたラナ様や侍女達が陰で微笑ましそうに笑っていたことには気づかず、シリルとアリアンジュは馬車が来るまで寄り添っていた。


その日から、ますますシリル様は時間を見つけては頻繁に会いに来てくれるようになった。

今迄も甘かったのに、あれでも抑えていたんだと驚いたほど、会うたびにシリル様のアリアンジュへの態度は甘くなっていく。


氷の宰相補佐官と呼ばれるシリル様は、実はとても可愛らしい方だった。

共に見た観劇では感動して涙を流すアリアンジュにハンカチを差し出してくれた。でも、見上げた彼の目にもうっすら涙の幕が張られていたことには気づいていたし、アリアンジュの名前を口にするときは、いつも照れくさそうにはにかむ。

私を気遣うときや、気持ちを伝えてくれる時はいつも、心を落ち着かせているのか、ゆっくりと深呼吸をして、言葉を選んでから口に出す。緊張している時は瞳が揺れる。

三歳年上で、一年前から宰相補佐官として辣腕を揮っている大人に見えたシリル様は、アリアンジュの前ではいつも等身大の若者だった。


少しづつ、少しづつ、シリル様を知るたびに好きが積み重なっていく。


デビュタントの舞踏会から半年。

アリアンジュは再び、城の舞踏会に来ていた。


アリアンジュのドレスはクリーム色の上品なシルクの生地にシリル様の瞳の色と同じ金色の糸で豪華に刺繍が施されている。

首元を飾るのはブラックダイヤモンドのネックレスだ。

珍しいブラックダイヤモンドの周りを小さなダイヤモンドがグルリと縁取っていて、光に当たってキラキラと輝く。

今日のアリアンジュは全てシリル様からの贈り物で彩られていた。


あれからベルナルド殿下とは数回、顔を合わせたことがある。

シリル様の友人たちを紹介された公爵家のパーティーで、オールポート侯爵令嬢を伴った殿下に会った。

いつもどこか探るような視線を送ってこられる。

きっと友人を騙す悪い女に思われているのだろう。

殿下には必要以上に近付かず、礼節を持った態度で接して、こちらを睨みつけるオールポート侯爵令嬢にも出来るだけ、近づかないようにした。


いつも守るようにシリル様が傍にいてくれた。

殿下のいる場所ではどこか切なそうに瞳を揺らすが、アリアンジュが笑顔を見せると、ホッとしたように微笑む。

シリル様に相応しい人になりたい。

自分を気遣い、大切にしてくれるこの方を、幸せにしたい。

いつからか、アリアンジュはそう思うようになった。


今日は公爵子息であるシリル様と共に入場したため、王族の入場の前に会場に入る。


本日開催の舞踏会はベルナルド殿下の誕生日のお祝いなのだ。そのため、この国の貴族はこぞって参加している。

シリル様もこの日の為の調整でお忙しく、お会いしたのは二週間ぶりだ。

それでも公爵家の馬車で迎えに来てくれたシリル様は、会った瞬間シリル様の色を纏ったアリアンジュを見て顔を真っ赤に染めた。


「……っ…。」

言葉を無くしたまま呆然とアリアンジュを見つめるシリル様に、アリアンジュが少し近づくと、うろたえた様に後退し、目元を手で覆いハァッと息を吐いた。


「すまない…。自分で選んだものを身に付けてるアンジュは…最高に可愛くて…。あまりの可愛らしさに言葉を失ってしまった…。とてもよく似合っている。」

噛みしめるように伝えられた言葉に嬉しさと恥ずかしさでアリアンジュの顔も赤く染まる。


「ありがとうございます。シリル様も…とても素敵です。」

「ありがとう…。行こうか。」

「はい。」



そうして到着した王城はデビュタントの舞踏会よりも豪華に飾られ、殿下の誕生日だけではない雰囲気が漂っている。


会場に入るとすぐにアイザック兄様が挨拶に来てくれた。

「アイザック兄様!」

「アンジュ。すごい、見違えたな。とても綺麗だ。」

婚約者を伴って気安く挨拶をするアイザック兄様に、シリル様が驚いたように見ている。


「シリル様。こちらはマルゴー子爵令息様です。私の母方の従兄にあたります。」

「あぁ…。では、貴女が六年前、アンジュと共にいらしたお兄様、なのですね?」

「はい。アイザック・マルゴーと申します。あの時はご挨拶出来ずに残念に思っておりました。ちょうど友人のオールポート侯爵子息であるジュード殿と偶然会って、話し込んでいましたもので…。」


その言葉に、シリル様とアリアンジュは同時に顔を見合わせた。

「なるほど…。あの時、彼も近くにいたのですね…。」

シリル様の目がきらりと光った気がする。

そういえば、何度も私はアイザック兄様に初恋の話を聞かせたわ。

詳しい会話内容も、話したと思う。


それをアイザック兄様が他で話していないとは思えない。だってお酒を飲むと口が饒舌になってしまうアイザック兄様から情報を聞き出すのは簡単だろう。

ましてや政治と関係のない話。小さな従妹の初恋の話なんて、話す相手を警戒するはずがない。


ジュード殿は強国である北方の国の外交官を務める侯爵家の令嬢と結婚が決まっている。

国の内外で力を持つために、昔からオールポート侯爵家は、この国の王族との縁戚を望んでいたが、今、この国に王女はいない。ベルナルド殿下と、弟の第二王子と第三王子の三人の王子だけだ。

となると、娘を王族へ嫁がせることは一族の悲願だろう。


婚約者候補になる前から、オールポート侯爵令嬢は王太子妃教育に近い教育を受けていたと聞く。

妻の座を狙っていた時、王太子殿下が運命の出会いをして、その者と結婚すると決めたと冗談のような話を聞かされた。

相手はわからないとなれば、なり替わろうとするのは当然の話だ。


「アンジュ…。私は貴女を離すつもりは絶対にない。だが、私はこの国の宰相補佐官として、国ではなく自分の権威のことしか考えていないオールポート侯爵家の力は削ぐべきだと考えている。殿下は素直で穏やかな方だが、いささか自分に甘く、流される傾向がある。この先、殿下が王となり、アンジェリカ殿が王妃となれば、オールポート侯爵家の傀儡に成り下がるかもしれない。ジュード殿の婚約者のいる北方の国は強国で、いつこの国に牙を剥くやもしれない打算的な考えの国だ…。」


「…そうなのですね…。私に国の事はわかりませんが、嘘をついて立場を得ようとする方を、この国の王族の妃として認めたくはありません。」


真剣な二人の様子を、話の内容で何かに気付いた様にアイザックがジッと見つめている。

そして話が途切れた時に、苦し気に口を開いた。


「申し訳ございません…。私の…せいですね。すまない、アンジュ。お前の初恋を壊したのは私だったのか…。ジュード…、オールポート侯爵令息殿は私の友人だ。二人で酒を飲みに行ったこともある。きっとその時に、殿下の相手が私の従妹だと気付いて成り代わりを考えたのだろう…。私がジュードを追求します。」

「いや。貴方には証言が必要だった時に話してもらうだけでよい。殿下は素直で単純な方だ。もし、アンジェリカ殿が嘘をついていたと知れば、必ず追及して信用を無くすだろう。今までは思い出を知っているという点だけで信じていただけだ。外見も初恋の令嬢と異なる点が沢山あるのに、その違和感をその思い出だけで捻じ曲げて信じていたのだ。でも、ここには本物の、”アンジュ”がいる…。」


「…わかりました…。私も一緒に行きます。」


真っすぐに見つめたアリアンジュに、一瞬、シリル様の表情が苦し気に歪んだ。

「ああ…。頼む…。」

「シリル様!」

思わず、アリアンジュはベルナルド殿下のいる方へ体を向けた彼の腕を掴んだ。

「…シリル様。私が好きなのは貴方です。」

周りには聞こえないくらい小さな声で、でも、シリル様には伝わるようにキッパリと言う。


「………。」

「シリル様。忘れないでください。私は…あなたに恋をしたのです。」

もう一度その腕をギュッと抱きしめて彼に届くようにと伝えると、ぐるりとシリル様が振り向きそのままアリアンジュを抱きしめた。


耳元にハァ…とため息が聞こえて、アリアンジュは顔を上げた。

「本当に…アンジュには敵わない…。愛してる。」


困ったように笑って告げられた言葉に、アリアンジュが顔を赤く染める。

小さくよし…と聞こえた後、腕を解かれ、シリル様は完ぺきな紳士の笑顔でエスコートするように腕を出した。

「ベルナルド殿下に誕生祝の挨拶へ行こうか。」

「はい。」


敵わないのは私の方だ…。

こんなに素敵な人が私を思ってくれているだなんて、自分がどれほど幸運なのかと幸せを実感する。


アリアンジュはこの人を絶対に幸せにするのだと決意を新たに足を踏み出した。



お祝いの言葉を贈る会場の人々の集まる中心に、ベルナルド殿下がオールポート侯爵令嬢と共にいらっしゃる。すぐ近くで、その様子を満足げに見つめているのが、オールポート侯爵ね。

彼は外交の補佐官の任についているという事だが、幾度も外国と揉め事を起こしたことがあるという。

強気な態度で交渉の場に立ち、知恵は働くが場を乱すことが多いという事で、今は交渉時には立たせないようにしていると聞く。

戦争推進派で、平和主義の陛下とは合わないそうだ。


「いやはや、殿下。そろそろ例の件を発表しても良いのでは…?」


その時、オールポート侯爵がベルナルド殿下に近付き、合図を送る。

「あぁ、そうだな。この祝いの場でもう一つ、皆に発表したいことがある。」


声高らかに宣言するベルナルド殿下に、シリル様はまずい…と一言呟くと、近くに控えていた侍女からワインの入ったグラスをとると、オールポート侯爵令嬢に向けてワインをかけたのだ。

「キャ…!!いや、何なの!?」


幸い、ワインは彼女の手元にかかっただけで、ドレスは汚れなかったが、薄いシルクの手袋は赤く染まっている。

「何をなさるの!?シリル様。ひどい、ワインが…。」

「これは申し訳ございません。急いで替えを用意します。こちらへ…。」

「シリル。何をする!この前からお前、おかしいぞ。大丈夫かい?アンジュ。」

騒然とするその場に、アリアンジュは前に出る。


「あの…よろしければ私の手袋をどうぞ…。」


アリアンジュの姿を認めると、険しい表情を見せたが、よほどワインで濡れた手袋が気になるのだろう。

「ええ…頂くわ。全く…信じられない…!」

そう言いながら抜き取る。

近くの侍女から渡されたおしぼりで手を拭った後、アリアンジュが差し出した手袋を受取るために手を出した。


その時、ベルナルド殿下がその手を掴んだ。


「殿下…?」


白い美しいシミ一つないその手を、ベルナルド殿下がジッと見つめている。

そして手袋を差し出したアリアンジュの手も交互に見つめた。


「嘘だ…。」


愕然としたまま呟く殿下に、意味の分からない様子でオールポート侯爵令嬢が不思議そうにしている。


「アンジュ…アンジェリカ…。君は…君は六年前に出会った私の初恋の少女ではなかったのか…?」

「何を…。私がその時の少女ですわよ。何度も思い出話をしたでしょう?」

急に何を言い出すのかと眉間に皺を寄せたオールポート侯爵令嬢の手と、アリアンジュの手を掴んで並べる。


「だったら…なぜ、あの少女の手にあったハートの形をしたホクロが君になくて、シリルが本物だと言うこのレオノーラ伯爵令嬢にあるのだ?!」


「は…?ホクロ…?」


目を見開いたまま、オールポート侯爵令嬢が自分の手とアリアンジュの手を見る。


アリアンジュの右手の小指の根元にはハートの形をしたホクロがあり、少年にクッキー缶を渡した時に、ベルナルドも見ていたのだ。少ない情報の中で、褪せないように何度も思い出していたから、シリルと同じようにベルナルドもしっかりと記憶に残っていた。


そうだ。

ずっと違和感はあったのだ。あの出会いの後、妖精のように可愛い少女の記憶を忘れないように、何度も何度も繰り返し思い出した。


甘いピンクブロンドの艶やかな髪に、見たこともないピンク色の瞳。優し気な高い声。ハートの形の手のホクロ。

アンジュと言う名前。

アンジェリカに声をかけられたとき、疑わなかったわけではない。

でも、話した内容も、もらったクッキー缶。果実水。出会った場所。

全て間違いなく一緒で、アンジェリカの愛称がアンジュだと言われたときも、そうだったのかと納得した。

でも、彼女の友人はアンジェリカをアンジーと呼ぶし、ピンクの瞳が成長と共に色濃くなり、赤くなったと言われたら不思議に思いながらも、そんなものなのかと思ってしまった。


私はあの時、妖精のように可愛い少女が臆することなく困っているものに手を差し伸べ、安心させるように笑ったその純粋な笑顔に恋に落ちたのだ。

アンジェリカの笑顔は完ぺきな淑女の笑顔だ。

この目の前の美しい令嬢が、劇場で見せた可憐で優し気な笑顔ではない…。


私は…。


呆然と立ち尽くすベルナルド殿下に、慌てた様にオールポート侯爵令嬢が声を上げる。

「殿下!私です!だってレオノーラ伯爵令嬢には兄はいませんわ!!」


「兄…そうだ。あの時、近くに兄がいると…。」


「恐れながら殿下…。それは私が説明致します。私があの時兄と呼んだのは従兄のアイザック・マルゴー子爵令息の事です。私はずっと田舎の別邸で暮らしていたので、久しぶりの王都に出るため、従兄のアイザック兄様が共に来てくれたのです。」


真っ直ぐにベルナルド殿下を見つめたまま、アリアンジュはよどみなく答えた。


「…そう…そうだ…。あの時もそう言っていた。王都は久しぶりだと…。」


アリアンジュのピンクの瞳を見つめたまま、ベルナルド殿下は顔色を無くす。


アンジェリカは王都から離れたことはなかったはず。

王都が久しぶりと言うのは変だ。

なぜ、私はこれほどの違和感に目を逸らしていたんだ…。


「殿下!お願い。私を信じてください!!私を愛していると言って下さったでしょう?」

オールポート侯爵令嬢の叫び声に同調するように、父親の侯爵が前に出る。

「殿下。今日は娘との婚約発表をなさる予定でしょう!早く発表なさってください!」


その時、スッとシリル様が殿下の前に立つ。

「…ベルナルド殿下。私はずっと彼女ではないと伝えていました。初恋の少女である”アンジュ”でなくてもアンジェリカ・オールポート侯爵令嬢を選ぶというなら仕方がありません。ですが、もしもそうではないのなら、もう一度よく考えて下さい。この国の王太子であるあなたの決断は国の未来につながります。」


「っ殿下…っ!!」


縋りつくようなアンジェリカの視線にベルナルドは何の感情も浮かばない。ただ、騙されたという思いだけ…。


「すまない。皆の者、一旦私は下がる。アンジェリカ嬢。君も。」

「殿下!!」


ベルナルド殿下はシリル様とアリアンジュを見て共に来るよう指示を出すとに会場から出て行く。


騒然としたその場から慌てた様にベルナルド殿下を追いかけて出て行くオールポート侯爵と令嬢の後を、ゆっくりとシリル様はアリアンジュを連れて出て行く。


別室へ通されると、そこにはベルナルド殿下とオールポート侯爵と、令嬢。アリアンジュとシリル様の五

名と数人の侍従と侍女。そして、そこへ…陛下と宰相であるセジャンカート公爵が入室する。

一同が驚きのまま、頭を下げて礼をとる。


シリル様のお父様だわ…。かなりの切れ者として有名なセジャンカート公爵は、陛下の幼馴染でもある。

有能だが、穏健派で、強国である北方の国との平和協定を取り持った人物でもある。


「ベルナルド。何があったか説明せよ。」

陛下の短い問いに、ベルナルド殿下が小さく返事をすると先ほどの騒動を簡単に説明した。


「つまり、おまえが頑なに”アンジュ”としか結婚しないと言っていた令嬢は、アンジェリカ・オールポート侯爵令嬢ではなく、アリアンジュ・レオノーラ伯爵令嬢だったと…。なぜそのような誤解が生まれた?」


「ご、誤解ではありません!間違いなく殿下の初恋の娘は我が娘のアンジェリカでございます!!」


礼を欠いた発言に、セジャンカート公爵がギロリと侯爵を睨みつける。

「貴様に発言の許可は与えていない。なぜ、アンジェリカ嬢を初恋の”アンジュ”だと思ったのかと聞いている。」

「それは…アンジェリカがそう言って私に近づいたからです…。思い出の内容も知っていて、兄もいたし、名前もよく似た名前だった…。手のホクロは…いつも手袋をしていたから見たことがなかった…。」

「その少女を共に知るシリルは違うと言っていたであろう。なぜ、シリルを信じなかった?」


「それは…。シリルも彼女に恋をしたことを知っていたから…。違うと言って離れた瞬間に奪うつもりではと…そう思ってしまったのです。」


……


沈黙がその場を支配し、小さく陛下がため息を吐く。


「オールポート侯爵令嬢。虚偽の報告は王族への反逆罪と捉えかねない。もちろん、指示をした侯爵、お前もだ。」

陛下の厳しい視線に、ヒュッとオールポート侯爵令嬢が息を飲む。


「お、お待ちください。でも私は本当に…!だったら、この方が本物だという事をどうやって証明するのですか?記憶なんて時間と共に薄れていきます。どちらが本物かだなんて誰も証明できませんわ!それに、殿下は私自身を愛してくださっております!」


アンジェリカの言葉に、ベルナルド殿下が黙る。


「殿下…?」


「私は…初恋のアンジュを探していたのだ。あの日、出会った親切で明るい笑顔に恋をした。君が”アンジュ”だと言ったから約束通り、結婚しようと思った。”アンジュ”ではないなら…それは無理だ。君のせいで…私は本当の恩人にひどい態度を…!」


憎しみのこもった目でアンジェリカ様を見つめるベルナルド殿下の態度に、アリアンジュは何とも言えない気持ちになる。

私も同じ…だったのかしら。

今の殿下を知りもせず、知ろうともせずにもしも私をアンジュだと気付いてもらっていたら、何も考えず運命の再会だと結婚していたのか。


シリル様は…どうなのかしら…。

私が恋をしたのは、今、目の前にいるシリル様だわ。

もしもシリル様が私を”アンジュ”だから好きだと言ってくれているのなら…。


急に不安になり、となりにいるシリル様を見上げると、愛おしさに溢れた金色の瞳がアリアンジュを真っすぐに見つめていた。

違うわ…。

シリル様は私を…私自身を思って下さっている。

そっと手を伸ばし、アリアンジュの手を握ったシリル様の手を握り返す。


「そもそも、オールポート侯爵はどうやって息子の初恋の相手の情報を知りえたのだ?」

陛下の問いに、侯爵は黙り込む。

アンジェリカ様は愛されていると思っていた自信が泡沫の夢のように消え去り、呆然としている。


「陛下。発言を宜しいでしょうか?」

シリル様の言葉に、陛下が頷く。


「殿下と私が、アンジュに出会った時、彼女は近くに兄がいると言いました。その兄と言うのは彼女の従兄であるアイザック・マルゴー子爵令息です。彼はその時、少し離れた所で友人に会って話していたそうです。その相手がオールポート侯爵令息である、ジュード殿です。」

「なるほど…。それで成り変わりを企んだのか。オールポート侯爵家は我が王族を愚弄したのだな。」

「そんな!!まさかそのような事は…!!」

焦って陛下に縋ろうとした侯爵を、後ろからいつの間に入室していたのか、近衛騎士が取り押さえる。

「オールポート侯爵と会場にいるその息子、娘を別室へ連れていけ。侯爵、お前には北方の国への情報漏洩の疑いもあるのだ。詳しく話を聞かせてもらう。」

近衛騎士に連れられて、彼らは出て行くと、陛下はベルナルド殿下をジッと見つめた。


「父上…。このような事態を起こし、申し訳ございません。」


項垂れたような殿下の様子に、小さく陛下が息を吐く。

「お前の生誕祭。彼らのあの様子だと、私の許可なく本日、お前はあの令嬢と婚約発表をする予定だったのだな。バカ者が…。」

 

呆れたように首を振ると、陛下はそのまま、アリアンジュに視線を移した。


「そなたはレオノーラ伯爵のご令嬢か。今年デビュタントを迎えたそうだな。」

「…はい。アリアンジュ・レオノーラと申します。」

「…財務次官として働くレオノーラ伯爵は、愛妻家として有名だった。奥方を亡くした時は悲しみを紛らわす様に、仕事に没頭してしていた。彼は良い忠臣だ。そなたの様な可憐なお嬢さんがいればもう安心だな。遅くなったが、息子を助けてくれてありがとう。」

「…もったいないお言葉でございます…。」

陛下の優し気な視線にアリアンジュは恐縮して頭を下げる。


「して…、本物の”アンジュ”殿。不甲斐ない我が息子の話をきいてやってくれるか。」


そういうと、ベルナルド殿下を見る。


ベルナルド殿下がアリアンジュの前に立つ。

「アンジュ…。アリアンジュ嬢…。此度は申し訳なかった。大事にしていた思い出を、彼女にさも自分の思い出のように話をされ、愚かにも信じてしまった。本当はずっと君に会いたかったのだ。何度か出会った場所へシリルと共に出かけたことがある。実はデビュタントの時に君を見て、既視感に襲われた。しかし自分の信じていたものが崩れそうで思った以上にきつく当たってしまった…。」


そう…だったのね。

でも…

「いえ。私の事を覚えて下さっていたこと、とても嬉しく思います。私もあの時の殿下のお言葉に、ワクワクしたような幸せな時間をこの六年過ごさせていただいたんです。もう一度再会出来て嬉しかったです。」

「アンジュ…。あんなことがあったが、もしも出来るならもう一度最初から…再会から始めてもらえないだろうか。そしてあの時の約束を…っ!」

「申し訳ございません。」


「…え…?」

「申し訳ございません。私はシリル様と婚約しております。」


「婚約…。シリルと…?」


あっけにとられたように、口を開けたままベルナルド殿下がシリル様を見る。


「はい、殿下。私も殿下のお心を知っていたので、彼女が”アンジュ”だと何度もお伝えしましたが、信じて頂けなかったので…。自分の心を殺すのはやめました。忘れられなかったアンジュではなく、再会して知るたびに惹かれていく彼女に…アリアンジュ嬢に求婚しました。気持ちを受取って頂けて無事に婚約者となりありがたい限りです。」


「そんな…。しかしっ!アンジュ、君にはいつか迎えにいくから誰とも婚約せずに待っていてと…。」


「はい…ですが申し訳ございません。私は今、目の前にいるシリル様に恋をしたのです。シリル様をお幸せにしたいと、心から思ってしまったのです。殿下はきっと…思い出の少女を探していただけで…私を知っているわけではない。きっと殿下が私へ思う気持ちは恋ではなく思い出なんだと思います…。過去も思い出も…そんなものを凌駕する思いがあるのだと…私は知りました。」


「そんな…。」

縋るような殿下の表情に、陛下の声が刺さる。

「残念ながらフラれたな、ベルナルド。これでお前の初恋は良き思い出と切り替えろ。今後はお前もこの国の王太子として、自分の立場を理解し、考えて行動するように。今宵はお前が主役だ。会場に戻らねば、招待客も困るであろう。自分の役割を果たせ。」

「…はい…父上…。アンジュ…本当に…っ…。」


「ベルナルド殿下。お誕生日、おめでとうございます。素晴らしい一年となるようお祈り申し上げます。」

「……ああ…、ありがとう…。」


シリル様とアリアンジュが揃って挨拶をする。

陛下が退出し、ベルナルド殿下も続いて部屋を出て行く。


その場に残ったのはアリアンジュとシリル、そしてセジャンカート公爵の三人だ。

「父上、陛下について行かなくて良いのですか?」

「少し話したくてな…。…アリアンジュ嬢…。シリルの求婚を受けてくれてありがとう。シリルはこの通り、不器用だが一途だ。周りが何度言っても女性も婚約も避けていたシリルが、今は本当に幸せそうに笑うようになった。…どうか息子を頼みます。」


「父上…。」


「私こそ…今、シリル様のおかげでとても幸せです…。ありがとうございます。彼に相応しい人になれるように努力します。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。」


頭を下げたアリアンジュに、シリル様とよく似た笑顔で笑うと、セジャンカート公爵は出て行った。


「ありがとう、アンジュ。殿下にキッパリと断ってくれて…。少しだけ不安だった。」

嬉しそうに笑うシリル様に、アリアンジュは小さく笑い返す。

「私も…不安になりました。殿下が、オールポート侯爵令嬢が”アンジュ”ではないとわかった時、驚くほど何の気持ちも残していなくて…。初恋って何なのだろうって…。もしかしてシリル様も…そうなのではと…不安になりました。」


アリアンジュの言葉に驚くように目を見開く。


「まさか!私はアリアンジュを心から愛している。もちろん…思い出がきっかけではあるのだけれど…。君のデビュタントの日。恒例行事のように、私は会場を見渡して”アンジュ”を探していた。その時、フラフラと倒れそうな令嬢が目に入ったんだ。危ない…と、近くの侍従に声をかけて様子を見ていたら、…妖精の様な可憐な令嬢が彼女に気付いた瞬間、何の躊躇もなく声をかけて手を伸ばした。当たり前のように気遣いながら彼女を支えて会場を出て行く貴女を見ていた。あぁ…あの日のアンジュのように、困っている人に躊躇なく手を差し伸べることが出来る人がいるのだと…惹かれた…。思わず後を追ってしまって…ぼんやりと風にあたる貴女の瞳が”アンジュ”と同じピンク色だと気付いた。」


あの時…確かにすぐに侍従の方が来てくれたわ。

そしてすぐに控室に案内してくれた。

シリル様が呼んでくれたのね。


「初恋のアンジュは全然変わっていなかった。相変わらず当たり前のように人を助けるし、突き飛ばされても責めたりせず、逆に周囲に騒がせて申し訳ないと謝る礼儀や優しさを持ち合わせている。貴女があの日の”アンジュ”でなかったとしても、私は貴女に恋していた。」

そっとアリアンジュの頬に手を伸ばして親指で優しく撫でる。

その手つきの優しさに…アリアンジュを見つめる金色の瞳に籠る熱に、胸が苦しくなるほどときめいてしまう。


その手に手を重ねると、アリアンジュはニッコリと笑う。

「私も。私も、出会ってからいつも私を気遣い、楽しませようとして下さるシリル様が…、本当に好きです。会場に戻りましょう?私、シリル様ともう一度踊りたいです。」

「ああ。もちろん…。喜んで。」



その後、会場で仲睦まじく踊る氷の宰相補佐官が、婚約したという話がすぐに社交界で拡がった。

そしてオールポート侯爵令嬢が王太子殿下の婚約者候補から外れたという噂もすぐに拡がった。

実際、オールポート侯爵は、かなり後ろ暗いこともしていたようで、長く取り調べを受けているという。アンジェリカ様はあれから社交界で姿を現していない。


ベルナルド殿下からは実はあれから何度か謝罪と、もう一度やり直したいといった内容が書かれた手紙を受け取った。正直、今更初恋の相手が私だと気付いても遅いのだ。

結局王太子殿下には王命で、隣国の王女殿下との婚約が決まった。

北方の強国への対抗策として、二か国間の繋がりを盤石なものとするため、友好国である隣国との政略結婚である。王女殿下は見目麗しいベルナルド殿下との結婚をたいそう喜ばれたそうだ。

ベルナルド殿下は素敵な方だし、幸せになってほしいと思う。


そして…


「アンジュ、ただいま。」


今日も夫となったシリル様は私の姿を見つけると嬉しそうに笑う。

抱きしめてキスをして、ひと時もそばを離れない。

セジャンカート公爵夫人であるお義母様に、公爵家の夫人の仕事について学びながら、シリル様との幸せな結婚生活を送っている。

氷の宰相補佐官と呼ばれていたシリル様は、今では妻を溺愛する愛情深い夫であり、そして、八か月後には父になる予定だ。


愛おし気にアリアンジュを見つめるシリル様にその報告をしたら、きっと不器用で可愛らしいこの方は泣いて喜ぶのだろうな。

「アンジュ?」

「旦那様…、実は…。」



その後、シリル様が泣いて大喜びして、すぐに部屋を子供用品だらけにして、アリアンジュに怒られるのだが、それはまた別の話。





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― 新着の感想 ―
ハニトラにコロリする王子様、先行き不安でしかない。こんな王様の治める国に平和はないなと思いました。傀儡政権として、シリル様にがっつり首根っこ押さえてもらうしかありませんね。
とっても素敵なお話でした………!!! 王太子は残念としか言いようがない……。本物にかなり酷い事言っていたし気づける機会は何度もあったのに信じなかったし、シリルさんはめちゃくちゃいい人過ぎて勝ち目はなか…
そんな特徴を覚えていたのなら、どうして最初に素手を見せて貰わなかったのでしょう。 よくある「◯◯様がいじめる〜!」と嘘で男に泣きつく略奪女の言葉をまるっと信じてしまう馬鹿男と同レベルなんですが…… 王…
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