食べる ①
【飢餓の継続】。
維旨籐蛋羅月は、食べても食べても痩せ衰えていく症状に見舞われていた。目は窪みストレスで白髪が現れ、骨と皮だけのような身体になってしまった。
そんな彼女の下へ、天怪隊の隊員が訪れる。
彼女を蝕む正体とは。
手を合わせた先では、食物の湯気が並んでいた。
ハムと目玉焼きのトーストサンド。簡易故に好まれる主食。
朝食用のグラノーラ。オーツ麦、ライ麦などの穀物にドライフルーツを混ぜ合わされたものを大容量の袋から皿に移し、牛乳を注ぐ。
インスタントスープはオニオンコンソメをチョイスした。
食欲が胃から飛び出したように、喉奥が鳴った。
いただきます。
炙られた小麦に挟まれた卵とハムは、塩胡椒の塩梅がちょうどよくできた。
まだ浸したばかりで硬い穀物を噛み砕く。食べている内に柔らかくなるところも好ましい。
喉を通っていくスープの温かみは、市販への信用を積み上げる。
一日の始まりを告げる、いつもの食事。
これまでと変わらない、これからも変わらない、営みの一つ。
口腔、舌、咀嚼、嚥下……満たされない。
空腹が埋められない。
*
妖怪。
半年前。人間世界に姿を現した者達は奇異な外見を恥じた様子もなく、友好的であった。
会見の場に現れた者達は、人の価値観では測れない異様を放っていた。
頭頂部から伸びる赤黒い角を携えた、一部分を除けば人間と変わりない美貌の鬼が中でも印象に残っている。
奇々怪々、魑魅魍魎、闇夜の使者。
妖怪の存在および彼らの住まう妖界が各国政府は明らかにした。恒久的な相互不可侵条約の締結のため、『妖』が首脳陣と並び立つ姿は、世界に激震をもたらした。
異形異装異様奇形。異なる世界から渡ってきた彼らは、多大な差異の介在する人類と性別どころか歴史や文化の壁を越えて馴染み始めた。二世界の取り決めにより、渡界許可の下りた妖怪のみが界間移動を可能としている。
妖怪の多くがメディアに積極的な姿勢を示し、あらゆる分野で露出が増えていた。
独自の異能体系である【妖術】は、個々で超常的な現象を発現させ、認知の度合いを確実なものとした。
海坊主と呼ばれる妖怪は海水で身体が構成されており、海と同化していたこともあり当初はその地の人々に不気味な印象を与えていた。潮の流れを小規模に留めて操作し、長らく不漁であった地域へ豊漁をもたらすと、一転して受け入れられた。
山伏の格好に鳥類の機能を備えた天狗が、山岳救助隊と連携した事件があった。山火事が発生していた地で遭難していた数名の大学生グループを発見した後、天狗は風を自在に操ることで救助と消火を同時進行で完遂させた。
こういった報道の数々が世間の不安の色を覆い隠し、現在は彼らを支持する声が大多数を占めている。
しかし、その陰では一部の妖怪が無断で地球に渡ってきていた。
私は、その被害者だ。
「天怪隊隊員、天羽虎助と申します。本日はよろしくお願いします」
律義に荷物を下ろしたパーカー姿の青年は、頭を下げた後に身分証明書を差し出した。両サイドを刈り上げた短髪に邪気の取り払われたような三白眼は、一昔前に流行ったマイルドヤンキーの単語を思い浮かばせる。リュックと大きなビニール袋が二つ、中には食材が見え隠れしていた。
「あなたが、ですか」
高校生だろうか、随分と若い。スーツ姿の社会人が訪ねてくるとばかり思っていた。アルバイトにさえ見える人材を遣わしてきたのは、人手が不足しているためかもしれない。
「はい、まだ学生の身分ではありますが、誠心誠意努めさせていただきます」
ICチップを搭載したカードと、折り畳まれた手のひらサイズの和紙を手に取る。
2030年入学、大学の住所、その他諸々が記載された学生証には、右側に顔写真が添えられていた。
若い。私だって世間一般で見れば若年層に収まるが、学生を前にすれば煎茶と玉露だ。
笑顔から放たれる瑞々しい陽気は、色褪せない学生生活を物語る。こういった子が入社した後に慕われるのだろう、私とは違って。私が採用担当でも躊躇なく合格点を出す。
天怪隊員にのみ配布されるという紙製の端末を見やる。表紙には『天』の文字が大きく刻まれており、開いてみれば古風な漢字が整列していた。 一瞥した限りでは、問題ない。天怪隊のホームページへアクセスし、真偽確認の項目をタップする。識別番号の漢数字を打ち込むと、一秒と待たず隊員情報が画面に表示された。隊員番号、経歴、実績、学生証とは異なる顔写真と見比べて、目の前の彼を本物だと確信する。
社員、と言い表すのもズレているが、彼は紛れもない天怪隊の一隊員である。
「安心しました、忘れられているのかと」
天怪隊。
妖界における治安維持を担う行政機関であり、地球人類における警察と同一視される。日本のみならず海外の警察と連携して事件解決へ奔走した、超常的被害に遭った人を異能力によって救い出すなど、イメージアップに多大な貢献をしている。
「要請は二日前に入っている、と連絡を受けたのですが?」
こういった事例では、通常天怪隊日本支部の人間が遣わされる。妖怪で構成された組織が発表された当初、彼らに会いたいがために、ありもしない被害を訴える者が絶えなかった。それを見越して、人妖両政府は人のみの支部を設けている。本来の天怪隊は妖界の治安維持が主であり、人類との協力は特例だ。よほどの大事でもなければ妖怪が渡って来ることはない。
「遅くなり申し訳ありません」
「まあ私みたいなのは後回しでも仕方ないですね」
「そのようなことは。言い訳になってしまいますが、人手が足りないものでして」
「言い訳は不要です。早く上がって下さい」
「はい、失礼します」
彼に非はない。天怪隊の相談窓口において、時間を要する旨は注意書きでされている。依頼者は同意したうえで頼んでいるのだから、私の言い分はクレーマーと同等だ。三年前に成立したたカスタマーハラスメント規制法に抵触するかもしれない。それをわかっていてなお、言わずにはいられない。
私のような人間が少なくないからこそ、法で縛る必要があるのだろう。
訪問者を殺風景なリビングに案内する。机を挟んだ先で腰を下ろすと、青年は手提げバッグをまさぐり、様々な書類の詰められたファイルを取り出した。
インターン時代の自分を見ているようだ。
「改めまして。本件を担当させていただきます、天羽虎助です。よろしくお願いいたします」
「よろしくお願いします」
一本筋の通ったお辞儀に、くぼんだ目を細めながら頭を下げる。
呪法、呪印、呪術、呪縛、呪詛、祟り。
理外の病に侵された人が、ごくわずかながら報告されている。無断渡航した妖怪の仕業と見られており、これについて妖政府は対策本部を設置している。代表的な組織が天怪隊だ。
【呪い】と総称される出来事は妖怪による被害の一種とみなされており、彼らが動くのに十分な理由である。無論、それまでに様々な手続きや過程を必要とする。
始まりは飲食店や喫茶店で顔を合わせ、事情説明並びに聞き取りを行い、事件解決に向けた方針を定める。都合によっては被害者宅に隊員が出向く場合や指定された公共施設に集まることもある。
呪い被害の事柄として、そのように公開されている。しかし段階的な手順を待っていられなかった私は、我儘を突き通す形で一足飛びに自宅まで来てもらった。
初対面の人間を簡単に家の中へ招き閉鎖空間で二人きりになるなど、一社会人として危機管理が欠如している。そう思われても仕方ないのだが、さしたる問題ではない。
私のような貧相な……頬が痩せこけ、骨格に肉の布が覆い被さっているだけの人間に、邪な感情を抱こうはずがない。上下ともにラフな格好で着けている眼鏡は、サイズが合っていないように見えるだろう。ストレスで白髪が交ざり始めた姿は、二回りは上に見られるはずだ。
七つしか変わらない彼が、面食らう素振りがなかったのが不思議なくらいだ。こういった事例は少なくないのか、年齢以上に女性慣れをしているのか。業務と割り切り特段の感情を持ちこまないのかもしれない。
もしも彼が強盗を企めば容易く資産の一切を奪い去られるのは、想像に難くない。私に抵抗するだけの力はない。危険性を考慮すれば現在の状況は注意を受けなければならないが、自暴自棄の境地に片足が取り込まれつつある私に、そこまで気にする余裕はない。
ここまでを観察して、ひとまずは大丈夫だと判断した。
「維旨籐蛋羅月さん。あなたの掛けられた呪いについて、」
天羽さんはどのようにして所属することになったのだろう。応募が公開されるや否や全国から殺到した枠を、学生が勝ち取った。それだけの才能を見出されたのだろうか。
確信めいた根拠はない。だが恐らくは、私の想像しえない経緯で入隊したのではないか。
興味はあるが、今は尋ねる時ではない。
私自身の問題に目を向けるべきだ。
「【飢餓が終わらない】でしたね」
「そうです」
私に掛けられた呪いは、空腹の常態化。
栄養素が身体に吸収される瞬間など把握できないが、食道を通って辿り着いた先で、胃酸が働く前に消失する。蒸発したように食物が胃に積もらないのだ。
知覚したのは一週間と数日ほど前。いくつかの病院を渡り歩き、医師たちを困らせた。
内臓に損傷があるわけではない。消化器官の不良とも違う。病院で検査されたが、異常は検出されなかった。
成人女性が一日に必要とされるカロリー量の三倍、この一週間は毎日摂取している。
しかし、日に日にやせ細っていく状況に、ようやく天怪隊へ要請された。
「維旨籐さん。こちらをどうぞ」
ビニール袋から差し出されたのは、コンビニやスーパーで購入できるおにぎりだった。鮭、鰹節、高菜、その他。
「これは、」
「何か口に含んでいる方が気は紛れるかと思いまして。購入してきたものは全てこちらで負担しますので。冷蔵庫とキッチン、お借りしてもよろしいですか?」
両手に持ってきたビニール袋には、食材しか入っていなかった。後で請求されるのか聞こうとしたら、先んじて答えられた。並べられたおにぎり群を手に取って、口に運んでいく。別に断る意味もないので、料理を作ることも許可した。スカスカの冷蔵庫や手入れしていていない台所を見られようが、どうでもよかった。
正直に言えば、彼の配慮は有り難い。たとえ胃に溜まらないとしても、顎を動かしている方がいい。遠慮なく食べさせてもらおう。
「報告書、読ませていただきました。まずは呪いについてですが、」
手際よく冷蔵庫へ食材を詰めていき、料理へ移行した彼は、背中越しに話し始めた。
テレビやSNSなどで見かける超常的な力、妖術と同等のものであること。呪いも妖術という大きな括りの中にあるが、これには発動した後に育成の工程が必要になること。手間暇掛けて成長させていくと、術者に恩恵があること。それが自己の強化なのか妖術そのものの増強なのかは犯人を捕まえるまでわからない。
黙って説明を聞いていると、最後の一つが食べ終わった。
調理中の天羽さんを観察する。水道光熱も、請求すれば対応してもらえるのだろうか、などと考えていると、匂いを乗せた湯気が鼻腔をくすぐった。
「【対象からカロリーを奪う】。それが呪いの正体だと考えています」
「……そんな呪いがあるんですか?」
核心に迫る物言いに、内心では合点がいっていた。
「妖術も多様化していますから」
怪異の世界にも多様性の波が広がっているのかもしれない。
実体験のように語る彼は、推測を重ねていった。
「体内に溜められるエネルギーは、一定だと思われます」
今日までに、いくつか大食いチャレンジをしてきた。
昨夜は二十キロのとんこつラーメン、一昨日は十八キロの天丼を。その前には五百グラムのステーキが三十枚盛られた鉄板を。日によっては三食全てを挑戦に捧げ、店主たちを引きつらせてきた。しかし、症状に変化はなかった。
「呪いは、経口摂取したものに対して発動し、対象の身体が吸収する前に奪う。エネルギーの全ては取らない。維旨籐さんが倒れないぐらいの、最小限度の栄養は渡している。それ以外は自分のものとして取り込む。どれほどの量が断続的に追加されても」
飢餓から抜け出せないのは、食べる量が少ないからだと思っていた。味覚に異常はないため食欲の赴くまま食べる量を増やしてきたが、大して意味は無かった。もしかすれば、成人女性の平均的なカロリー量に戻したとしても、空腹の感覚は同じなのかもしれない。
「逆に捉えれば、維旨籐さんが命を取られることはありません」
これにも、反論はない。
生命活動に支障のきたさない範囲で、生かされている。呪いを育てる土地になっている私が誤って死亡したら、困るのは元凶だ。
とはいえ、生かさず殺さず飼育されているのが現状だ。何かしらの手を打つ必要がある。
「対象の身体にここまでの影響をもたらすとなると、術者は近い距離から掛け続けています」
彼の推測は、真相に迫っている気がした。
私の抱えている苦痛を、この子は限りなく読み取ってくれたらしい。途端に彼が名医のように見えてきた私は、やはり精神的に不安定な状態なのだろう。
「元凶、犯人を捕まえれば解除できると思います。ですが、」
解決方法は単純明快らしいが、彼は言葉を切って考えるような素振りをした。
「難しいですか?」
「どこに潜伏しているのか、全くわからないんです」
申し訳なさそうに伝える天羽さんは、一度瞼を閉じて、一呼吸置いた。
「呪いは、妖怪だけではありません。人間にだってできます」
つまり彼は、人間が犯人の場合も視野に入れているのだ。
当然と言えば当然だ。古今東西、人と妖にかかわらず、呪術は発揮されてきたはずだ。公的に私的に創作的に。社会的不安の影には呪詛の暗躍が噂されたはずだ。
超常的存在が表舞台に立てば、理外の力を試そうとする者は出てくる。
「最近では手軽に呪いを掛けられるといったサイトまで出てくるほどで、」
情報社会化の著しい現代では、拡散される速度が凄まじい。誰もが閲覧できるプラットフォームを通して、異能が伝播している。天羽さんたちは、それに付随する事柄へ常に目を光らせる必要がある。人と妖怪の両面を鑑みて調査しなければならない。加えて、私のような被害者への対応も求められる。警察とも連携しているとはいえ、冷やかしや無理難題な相談を受けることもあるだろう。
それなのに、私は。先ほどの態度はあまりに失礼だった。
床に額をこすりつけたいものだが、言い出すタイミングが掴めない。
あっさり告げるのは適切ではない。かといって重苦しい雰囲気にするのも変だ。
その機会が訪れるまでに、誠心誠意の謝罪文を考えておかなくては。
「何か心当たりはありますか?」
思考を巡らせる傍らで尋ねられた。
なんだか段々とミステリーめいてきた。
「ここまでの力を発揮するとなると、術者はあなたに執着していると思います、が」
躊躇いがちに告げてくる天羽さんには申し訳ないが、思い当たる節は無い。
人間関係については、自慢できない。学生時代は毎日のように会っていた友人達とは、疎遠になっている。今だって連絡をとっているのは妹ぐらいだ。最近は三か月前にしただろうか。
会社の同僚や上司、部下は考えづらい。最低限度の付き合いしかしない私に、誰かが執着するとは思えない。
これまでの交友範囲を俯瞰しようと、該当者は浮かばない。
顔も名前も知らないストーカーの線もあるが、妙な視線を感じた覚えはない。
「すみません、わからないです」
「まあ、焦らずに行きましょう」
天羽さんは空気を重くしないように軽い調子で繋げてくれた。
つくづく、配慮を欠かさない人だ。
「これ、治りますか?」
いつになく弱気な声音で、尋ねてしまった。
会社は休職中だ。在宅での仕事が主だったが、デスクワークすらままならなくなった。突然の願い出に文句を言いに来たのか、画面の向こう側に現れた上司は、しかし私の異変を感じ取るなり化け物を見るような目つきをした。既に同僚や部下にまで知れ渡っているだろう、考えるだけで頭が重くなりそうだ。今は脳味噌さえ縮小していそうだが。
肉体が満たされなければ、当然精神に影響を及ぼす。
不眠が続いており、日中は倦怠感に襲われている。筋力は著しく低下し、このままではろくに歩けなくなる可能性もある。免疫力は低下しており、何らかの病気に罹るのは時間の問題だ。
一日でも早くこの原因を取り除いて欲しい。
新卒の部下よりも若々しい、未成年の壁を飛び出したばかりの彼に、みっともなく縋るように。無礼に接したことさえ今も謝れないでいる情けない人間が。見放されようと仕方のない態度を取った、こんな恥知らずに。
「治します。必ず」
台所の方へ顔を上げると、振り返っていた天羽さんと視線が交差した。
力強く宣言した瞳は、仕事人としての矜持と、穏やかな気性を兼ね備えていた。
思わず肩の力が抜けていた。
「とりあえず今日一日、様子を見させてください。夕食後は仮宿に戻りますので」
「…………よろしく、お願いします」
彼を信じるほかない。
全三話になります。よろしくお願いします。