走る ③
「フウー、」
ランニングウェアを着て、玄関で座っていた。深呼吸を繰り返して、その時を待つ。
脚が、震えはじめた。いつもはこの振動が起こる前に走り出していたけど、今日は違う。
止めようと、力を入れる。床に足裏を押し付けるようにして、踏ん張って。
『抵抗してみよう』
提案一つ目は、単純なこと。
動き出そうとする足を、強引に止める。脚に力を入れてその場に留める。
呪いが発生した当初何回か試していたけど、意味が無かった。それを伝えたら、
『三日に一回とか、一週間に一回ぐらい? だったら効果無いと思う。毎日やらないと』
天羽さんが言うには、持続的にしていないとダメだという。習慣を強制されているランニングみたいに。
『一般的な妖術は、発動されると術者の意図した通りの結果になる。だけど、呪いに分類される妖術は、【育成】の工程が必要になる。手間暇掛けて呪いを成長させていくんだ』
私の身体という土壌に、呪いという種が植え付けられているイメージだ。術者は欠かさずに世話をしないといけないため、同様の妖術か、または妖力を注ぐ。これを経て育てられた呪いは、術者本人の能力を高める。
犯人の目的は、自己強化。
最終的には他者の脚を自由に操作できるほどの力をつける。それが天羽さんの予想だ。
ただ走らせるだけじゃない、周りに暴力を振るわせたり、自傷行為に走らせたり、思いつきそうなことは何だってやらせる。呪いを掛けた相手を見て楽しむのか、それらを通して別の目的に向かうのか、真相はわからない。
意図はわからなくてもいい、犯人の思い通りにはさせない、それだけを考えていればいい。
対抗策もまた、複雑ではない。
『結局は術者本人の素養が関係してくる。藍銅が抵抗すればするほど、相手も躍起になって対抗する。そうなると痕跡が残る。本人が上手く隠そうとしても。足取りが掴みやすくなる』
完全犯罪を企んだ犯罪者でも、ちょっとしたボロが出る。犯人自身が気付いていないところで、些細なミスが生まれている。そういう話らしくて、何かしらの反発をした方がいい。
病原体に対する免疫みたいに。普段から意識して抵抗力を鍛える。
話を聞いて、まずは玄関で試してみた。
両膝に手を置いて、床に押し付ける。
止める。止める。
「で、どうだった?」
「全然」
机に突っ伏していた顔を上げて、沙羅に溜息をついた。
止まらなかった。行けるかもって最初は思ったけれど、バタバタし始めたところで、諦めて走り出した。
結局、今日も時間ぎりぎりで電車に乗って、午前中はほとんど寝ていた。
もうちょっと踏ん張ってみればよかったかな。
「一週間は試してみたら。ダメそうだったらまた相談してみればいいし。原因がわかっただけ前に進んでるよ」
沙羅の気遣いは沁みるなあ。本当に癒しだよ。親友に恵まれたなって常々思うよ。
「天羽さんって人、どう? 大人っぽい?」
本当、良い友人だ。
三日経った頃、変化に気づいた。
「え、」
五時五十分。確か、振動が始まった時は五時四十、いや三十五分ぐらいだった気がする。
「あれ、」
十分ぐらい、発症を抑えられた?
それから一時間と十分ちょっと走ってみたら、震えが無くなっていた。
できた、のかな。今日がいつもより短かっただけ、とか。でも、昨日は一時間と四十五分ぐらい走っていたはず。こんなに落差ってあったっけ。
『減ったよ、それ。始めて三日、効果が出てきたんだ』
スマホの向こう側で弾んだ声音がしてきた。こういう時、天羽さんは自分のことのように喜んでくれる性格らしい。この人やっぱり同い年でしょ、私の方が落ち着いているぐらいだし。
あまり実感がなかったけど、効果は出ている。
それから、日ごとに色々試してみた。体育座りみたいに両腕で足を抱えてみたり。ガムテープでぐるぐる巻きにして布団の上に寝そべったり。
一週間もしたら、三十分は耐えられるようになった。
しかも、立ったまま。手で押さえつけなくても、力を込めれば止まるようになってきた。
こうしてみると気づいたんだけど、呪いって波があるみたい。強い時は足踏みが止まらないんだけど、弱い時はスマホのバイブレーションみたいにブルブルってなるだけだった。地震のP波とS波みたいな感じ。
「本当? どれぐらい減った、」
「五十分」
自慢げに胸を張った私に、沙羅は顔をほころばせた。それから授業毎に褒めてくるもんだから、こそばゆかった。私が恥ずかしがってるのわかっていて、最後の方は意地悪っぽく言ってきた。それだって心地良かった。
抵抗しているんだ、身体が。
走る時間が一時間を切るようになってくると、色々なことができるようになった。余った時間でお母さんの分も朝食を作れた。電車は前より楽に乗れるように。午前の授業は、少しずつ起きられるようになってきた。
まだまだ。もっと縮めたい。
けれど、四十分以下にはならない。数日かけて試してみたけど、ここが時間を減らせる限界なんだと思う。
一つ目は継続するとして、二つ目に集中する。
『犯人探しかな』
一つ目が想像以上に効果が出ていたから意識が向いていたけど、二つ目もちゃんとやってはいた。
『結局、術者本人を捕まえないと解決しない。俺は妖怪を調べテイるから、藍銅は身近な人に注意してみて。ずっと警戒するんじゃなくて、何か変だなぁ、ぐらいの感覚で良いから』
私のこれは、周りの誰かにかけられたものかもしれない。
妖怪じゃなくて、人間に。
『藍銅は妖怪に会ったことがない。人間の、それも近くにいる可能性が高い』
一つ目を始めるまで、状態は酷くなっていた。この一週間と数日、抵抗を続けていなかったら、二時間ぐらいまで伸びていたんじゃないかな。
このことも最初の話し合いで伝えたら、天羽さんは神妙な顔つきをした。
『呪いは永続じゃない。術者が何もしなければ勝手に消えていくか、弱まるだけ。藍銅は逆だろ? 誰かが継続的にやっているはず。大体こういうのって、接触するぐらいの距離で使わないと意味がない』
いくつか別の事件を担当して、妖怪と人間、両方の犯人を見てきた。そう言った天羽さんの口調は、少し暗かったような気がする。
ともあれ、どちらの可能性もあるんだ。
容疑者は身近な人物。
仮にそうだとして、誰が? 何のために?
『動機は捕まえてから聞けばいい……妖怪が犯人の場合は、能力向上が目的だと思ってる。妖術は使えば使うほど技術が磨かれるから』
何で私が? って聞いたら、それにも天羽さんは予想を教えてくれた。
『私怨が事例としては多いけど、藍銅が誰かから恨まれてるとは思わないんだよな。何か理由があって選ばれたか、意味もなく選ばれたか』
呪いの被害を通して色んな事件を見てきた経験則で推測していた。面識のある人とは限らない。試してみたかったから、とかそんな理由で使われる可能性もあるらしい。だとしたら迷惑過ぎるんだけど。
この一週間と数日を振り返って、周りをそれなりに注意してきた。
お母さんは最近笑うようになった。呪いが少しずつ収まってきたことを伝えたら、嬉しそうにした。呪いが解けたらあのお店に行こうって、沙羅は言ってくれた。二人は違う、犯人じゃない。そう信じていたい。沙羅以外のクラスメイトは、まともに話したことない。小学校、中学校の時の友達は連絡もとっていない。身近な人……他の人はどうかな。
腰の曲がっていた山本のおばあちゃんは、ちょっとだけ姿勢が良くなっていた。男勝りでカッコイイ坂口さんは、バイクの免許を取ってツーリング行こうって誘ってくれた。新しく始めたことにハマったらしい中津さんは、出会う毎に笑顔が増えている。爽やかお兄さん卜部さんは、ランニングの日を増やしたっぽくて、週に会うのが多くなった。少しずつ起きられるようになった生徒に、担任の先生は突っかかることはなくなってきた。
変なところはない気がする。というか容疑者多すぎ。もしこの中の誰かだとして、何て聞けばいんだろ。「呪い、掛けた?」うん、答えてくれるわけがない。
そもそも私を狙った理由が見当たらない。あ、理由がない場合もあるのか。力があるだけで試してみたいってなる人もいるって。それじゃ、見つけるの難しくない?
消去法で消していくべきなのかな、本当にいるのかな、犯人なんて。
*
「お、久しぶり」
「すいません。待たせてしまって」
紗伊呂喫茶店に着くと、前と同じ席に天羽さんは座っていた。今日は大学の講義が無いらしい三白眼の先輩と会うのは二週間ぶりぐらい。けど、結構連絡を取り合っていたから、久しぶりな気がしない。対面に腰を下ろすと、タブレット端末を渡された。注文リストには二人分の飲み物が選択されている。後は私の頼みたいものをタップして、確定ボタンを押せばいい。
「妖怪の候補としては、一本だたら、足長小僧、足洗い屋敷、一本足の大蝦蟇、足の眼、鎌鼬、地獄足、足長坊主……どれも驚かせてくるのが目的の奴ばかり。危ない奴もいる、今言った地獄足とか。けど、やっぱり藍銅の呪いは、」
言葉が、頭に入ってこない。沢山調べてくれたとは思うけど、知らない名前の妖怪ばかりで鎌鼬しか耳で捉えられなかった。
「こちらの方が、」
天羽さんの隣に座る女性が気になりすぎて、そっちに意識が取られる。
「うん、天怪隊の呪縛部署の人」
天羽さんが手を指して紹介した。眼鏡をかけた黒スーツのお姉さんで、優雅にコーヒーを飲んでいた。格好いい。喫茶店が似合う人って言えばいいのかな、坂口さんとは別方向の魅力がプンプンする。秘書や官僚とかテキパキ仕事を進める社会人のイメージ。休日は映画鑑賞やウィンドウショッピング、趣味は読書。そんな自己紹介が聞こえてきそうだった。
人間、なのかな。天怪隊の一員だから、もしかして妖怪? どっちなんだろう、聞いていいのかな。普通の人にも見えるけど、何か雰囲気が違うような。
この人が……この人なんだ。
『呪いが解ける』。
今朝に天羽さんから届いたメールは、開いた瞬間飛び上がりそうになった。文面が気になって学校でも上の空でいたら、沙羅に両頬をぐにぐに伸ばされた。
このお姉さんに、呪いを解いてもらう。
ここに来た時点で、全てが解決されたような気がしてきた。
「どもども。解呪の専門家です。いやあ、大変だったよね。そんなものにかかっちゃってさあ」
「初め、まして?」
気がしてきた、気がする、気がした? 印象がいきなり崩れた。見た目と口調のちぐはぐさで、こっちまで疑問形になっちゃった。
「まあまあ、安心なさい。パパパっと取ってあげるからさ」
「ありがとうございます」
「見た感じ、どうです? いけそうですか?」
「よゆー、よゆー。ちゃんと抵抗を続けてくれてるから、弱まってるよ」
一転して、家のリビングにビール缶が散らかっている想像が浮かんできた。
ま、まあいっか。これを消してくれるなら、別に誰でも良いし。
「遅くなっちゃってごめんねぇ。事件続きで他の被害者のところも回っていたの」
「この人、こう見えて多忙でさ、」
「いえ、そんな、」
お姉さんのような解呪の専門家は少なくて、あらゆる事件で駆り出されているらしい。一週間前から天羽さんが打診していたそうで、やっと時間がとれた。文句なんて全くない。治してくれるってだけで感謝感謝だよ。
「はい、手ー出―して」
「え、あ、はい」
「わあ、すっべすべ~。わっか、わけ~な」
私の両手を取ったお姉さんは、占い師の人がお客さんの手相を確認するような手つきで、まじまじと見てきた。ちょっと恥ずかしいというか、脚じゃなくていいの?
そして、何か呟き始めた。
小声で聞き取りづらい、難しい発音ばかり。般若心経を聞いている気分になっていると、両手に段々熱がこもってきた。じんわりと温かい。お姉さんの体温なのかな。
「! これ、」
一筋に立ち昇る、か細い黒煙が、視界に現れた。火事……じゃない、出所は机の下、私の両脚だ。脚が燃え出したわけじゃない。靴下や靴が発火したわけでもない。熱を感じない。
単純な煙とは違う。泥や油の混在したような蒸気に、すりごまみたいな粒が見えていた。
「ん」
右手を離したお姉さんが、躊躇いなくそれを掴むようにした。彼女の手の中でブスブスって小さく音が鳴ったと思ったら、気体は霧散した。
「終~わり」
……え、え、もう?
何も言えずにきょとんとした私を見やって、掌を軽く払うようにしたお姉さんは、ニッコリとして立ち上がった。
「治ってなかったら、連絡してね」
「え、あ、ありがとうございました!」
反射的に答えた私は、状況を呑み込めないでいた。その間に、天羽さんと一言二言話したお姉さんは、じゃあね~、と手を振りながらお店を出て行った。
聞き鳴れたベルが、随分と遠くに感じられた。
「あの人、この後も何件か回らないといけないから」
弁明するように言ってくれる天羽さんに、私はまだ呆然としていた。
「本当に、終わった?」
「何も見えないし、感じない」
彼女の仕事ぶりを、天羽さんの言葉を、疑うつもりはない。ただ、あまりにあっという間に終わったから、実感が湧かない。呪いに掛けられて二カ月、色々試してみた二週間。こんなにあっけなく、あっさり。変な煙が現れて消えていったのだって、確認した。
「術が脆弱になっていたから、解析と解呪が速かった」
呪いも妖術の一種、術式がある。妖術には個々に独自の文法が存在する。それを紐解いて呪い特有の膿を抽出したお姉さんは、鮮やかに打ち消した。素因数分解を用いて答えを導き出すように。咳や頭痛といった症状を訴える患者に、薬を出すように。天羽さんの説明を要約すると、そんなところだった。
「藍銅が努力したおかげだ」
私が免疫力を上げていたこともあって、対処がしやすかった。植え付けられた呪いがもっと育っていたら、治すまでに時間がかかったという。
私が学生ともあって、費用は安価にしてくれた。お姉さんはもっと安くても良いって言ってくれたけど、こっちはもっと払いたいぐらいだった。
「お疲れ様。今まで頑張ったな」
口元を柔らかくした天羽さんが、少しだけ大人びて見えた。あと三年もすれば私もこうやって落ち着けるのかな。そう言えばお姉さんっていくつだったんだろ? ぱっと見は二十七、八歳な気がするけど。天羽さんに聞いても、教えてはくれないよね。
「何か食べたいものある? お祝いしよう、お祝い」
「いや、この前だって、」
「こういう時にちゃんとやっておかないと。あ、俺これにしよう。藍銅は何にする?」
どうせ経費で落ちるんだし、って天羽さんは強引に端末を渡してきた。苺がたくさん乗ったクリームパフェが注文リストに入っていた。女子っぽさ満載の品を頼んでいる。
折角だし、いっか。この前頼めなかった奴はどこら辺に載っていたかな。
それから伴星大学について話し込んだ。会話というより私が質問してばかりで、半分以上妖生徒の話題だった。一般入試や推薦、サークルと文化祭とかも、一応聞いておいた。
三年後なんて想像できないけど、将来を考えないといけないのかぁ。
とりあえず進学かな、やっぱり。
*
目が覚めた。
五時。まばらに散った雲を、陽の光が照らしていた。
のそのそと起き上がって、顔を洗う。歯磨きをしていると、眠気が覚めてくる。
二杯の水で喉を潤す。ランニングウェアを着て、玄関に座った。
「スウー、フウー、」
深呼吸を一つ。時刻は、五時十分。あと二十分もすれば、いつ始まってもおかしくない。
スマホを開いて、今日の妖怪ニュースに目を通す。
あ、螺久比鬼の渡航許可、下りたんだ。来週の火曜日、東園局のバラエティー番組でゲスト出演! やった、こっちでも見られる。妖界の配信サイトはまだまだ規制があって、あんまり見られないからね。
五時十五分。
へえ~、あのミュージシャン、妖怪のバンドとコラボするんだ。バンド名は……筒浦々、天狗、河童が居る。静岡県のライブ会場でやるんだ。見に行きたいけど、お金がなぁ。
五時二十一分。
伴星大学の学祭、妖生徒の寮が一部開放!? すっご、これ行かないと。天羽さん忙しいかな。案内とかお願いできないかな。
五時二十八分。
スマホを仕舞って立ち上がり、外に出る。扉の前で屈伸を始めた。
「……」
まだ来ない。
腕を大きく回す。手首、足首、首の柔軟を。
来ない。予兆が無い。
このままだと、ラジオ体操が始まりそう。
「…………」
始めた。地上まで下りて、周りに響かない程度にゆっくりと、小さな動きで。誰かしら住人が出てきたら止めようと思っていたけど、気配はなかった。
五時五十三分。
最後まで終わった。
この時間には、必ず発現している。痺れや震えといった前兆が、脚を覆い出す、はず。
敷地の外に出る。自分の意志で動かさないと、脚は反応してくれない。
ひっそりとした道路で、立ち止まる。
足踏みして、軽く跳ねる、静止する。
 ̄ ̄本当に、止まったんだ。
「~~~~~!!!」
掌を、ぐっと閉める。背中を丸めて、飛び上がりそうになった。
どこまでも高い大空が、視界の先で広がっていた。先日アルバイト先を辞めた親友が晴れ晴れとした表情でいた感覚が、少しだけわかった。
終わった、終わったんだ。解放感に満ち溢れていた。
何でもできる。家事を終わらせてネットサーフィンして、勉強だって。
起き上がってきたお母さんに、完治したことを伝えた。途端に泣き始めたから宥めるのが大変だった。いつもより三本早い電車では悠々と座れた。駅から学校まで、走らなくていい。
数十分して教室に入ってきた沙羅は小さく驚いた。話を聞くと目を瞠った。
「今日、あそこ行こ。スイーツバイキングの」
「えっと、お金が、」
前に話していた、隣町のところだ。百四十分間の食べ放題って宣伝していたはず。
「奢り奢り。解けたんでしょ? 快気祝いで!」
「……悪いよ、そんなの」
一人三千円以上したような、学生割引で二千五百円だっけ。
そんな大金、友達に私の分も、なんて喜べるわけない。ただでさえ天羽さんに良くしてもらったばかりなのに。二日続けてなんて、罪悪感が。
「もう、予約したから。行くよ!!」
「わか、った」
押し切られる形で頷いた。仕方ない、これで断るのも悪いし。アルバイト先を見つけなくちゃ。やっと自由になれたんだから、朝にやるのもいいかも。沙羅も今探しているらしいし、同じところで応募しようかな。近くならコンビニ、スーパー。二十分歩いたところにカラオケ店。学校からそのまま行くんだったら、商店街のお店とかもいいかも。
今までは勉強の遅れを取り戻すように帰宅してから復習とかしていたけど、授業中に眠れなくなった今なら、予習復習もできる。家事を考慮しても、時間が余る。
学校が終わって、目的地へ。黄緑の色彩が照り輝く外装に辿り着いて、早速中へ入った。
ブラッシュ・スイーツ・ビュッフェ。通称BSB。二年前に出来た大型百貨店の中に店を構えているそこは、若い女性たちがお皿を片手にSNSへ投稿していた。四方から撮影音が聞こえてくる中、カップルで来ている人もチラホラいた。
その二人組が見えたとき、これ以上ないほど目を瞠った。
「陸さん?」
「陸じゃないか」
「卜部さん!? おじさんも!」
薄水色Tシャツに渋茶のポロシャツは、店内で浮いていた。というより、これは目立っても仕方がない。盗み見るような黄色い瞳の数々を、卜部さんは気にしていない。おじさんはわかりやすいぐらいに居心地が悪そうだ。二人とも背が高いから、どうしても視線が集まる。どういう関係性か、予想している人もそこかしこで見られた。私も疑問符が湧いている。
「卜部君とは、同じジムで知り合ってね」
卜部さんが通っているスポーツジムに、おじさんは新しく入会した。世代の異なる二人は以外にも趣味や考え方が似通っているそうで、あっという間に仲良くなった。仕事終わりや休日に中津のおじさんはジムへ向かい、卜部さんの補助を受けているという。言われてみれば、前より姿勢が良くなっている気がする。重そうにしていた肩は、楽々と回していた。
有給休暇をとった壮年は、今日もジムに勤しんでいた。午前中に汗を流した後、学校後に合流した青年の提案で、この店に来た。お互いに結構な甘党らしく、だからこそ馬が合う。
「お二人がよろしければですけど、一緒にどうですか? 四人席に通されてしまって」
注文はこれからだという。個人的には構わない、むしろ大歓迎の申し出だ。二つ返事で答えたいぐらいだけど、初対面の沙羅はどうだろう。
私ともう一人へ交互に視点を動かした彼女は、目元を綻ばせ口角を上げて、わざとらしく頷いた。
「……何、」
「うんうん。これは仕方ないね」
どういう意味か尋ねても、はぐらかされる。音符の付いた共感とウザったらしい表情に、追及したら負けだ。
「初めましてー、木根原沙羅です。お二人のことは陸からよく聞いてます」
「あ、こりゃどうも」
「何を頼む予定でした? 私たちは食べ放題のを~」
「学生割引か。卜部くん。私達もこれにしようか」
「そうしましょう」
クラス一のコミュニケーション能力を自負している沙羅は、難なく打ち解けていた。彼女の距離感におじさんはタジタジになるかと思っていたが、そんなことはなかった。私の友達だから警戒しなくいいと思ったのかもしれない。だとしてもあっさりじゃない? いや別にいいけど。気まずくなるよりは断然いいんだけれど。
私より会話が弾んでいる気がするんだよね。愛想良く相槌を打ってくれる女子高校生に、デレデレの中年男性。絵面だけなら十分危ない。
「おじさん。通報されないでね」
「陸、それは冗談にならん。ケータイを向けるな。証拠は無いんだ」
「目撃情報が多い。中津さん、これでは不利です」
「卜部くんもか。老体を苛めないでくれ」
談笑しながら同じ席に着いた。私の隣に沙羅が、対面には卜部さんが。座ってから、さりげなく誘導されたんだと理解した。末恐ろしい親友は、素知らぬ態度でいた。
向かい合って近距離にある青年に、頬の火照りはなかなか下がってくれなかった。しかしそれも数十分ほどで解消されて、食べることに夢中になっていた。
現在は抹茶のフェアをやっていた。どれも見栄えが良く、頬で堪能した。抹茶の練り込まれたスポンジケーキにホイップクリームと二色の葡萄添えられたショートケーキ、抹茶と栗のモンブラン、抹茶と葡萄のロールケーキ、抹茶とバニラのマカロン、抹茶あんみつ……それ以外のスイーツも全部美味しかった。
私が次々舌に放り込んでいた横で、沙羅は一つ一つを味わっている。紅茶を飲む所作の眩しい卜部さんの隣では、おじさんが私以上に食べていた。途中から張り合うように二人して席を立った。結局一番食べたのは私じゃなくて、少し悔しかった。満足そうにしたおじさんは、全員分の会計を済ませしまった。これには三人で抗議したけれど、頑としてお金を受け取らなかった。渋々引き下がって、皆でお礼を伝えた。
はあー、何でこういう見栄を張りたがるの。
男性陣とは、お店の前で別れた。二人とも走って帰るらしい。元気だなあ。
今度は奢るから、と沙羅は駅前で別れた。
商店街で食材を買って行くことにした。お母さんの出勤時間までには、夕食も間に合う。
やっと、高校生っぽい放課後が経験できた。楽しかったぁ。
自由な朝を送れる。
睡眠時間をきちんと確保して。ゆっくり朝食を取って。忘れ物がないようにカバンの中をチェックして。ゆったりと学校に向かって。授業中に寝ないようにして。放課後に遊んだり。アルバイト先も見つけないと。
まあ、でも。週に二、三回はランニングしてもいいかな。早起きが癖になったし。
犯人捜しは、天羽さんの連絡を待とう。
夜。お母さんが仕事に出掛けた後。何でもできる時間帯に。
私は走り出した。
振動と痙攣、電流が迸った脚が、勝手に動き出したのだ。