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魔道庁士長トマは戸惑っていた。そして焦っていた。
最近、常世の森の精査が終わり、魔道庁の優れた魔道士を募って周囲に大がかりな遮蔽を張る仕事をやり遂げた。泉の上部は何故か調べることができずに完了としたが、この作業の際に、泉近くに潜んでいた小鬼の群れを討伐したので護りは万全と言えよう。
そうして懸念は晴れたと人心地ついたところに、王立学校の近く、森の狭間に裂け目が生じていると報せが来た。
王居の防御壁から外れた場所であるが、王族や貴族の子女が通う王立学校に隣接しているので、魔道庁で管理すべき区域になる。
そこで魔力の痕跡が見つかったと報告がきて、トマはその場に赴いた。
「これは──」
トマは声を途切らせて唇を噛み締めた。
森との境の地面に切れ目ができていた。そしてその周囲には、魔力の、いや、異なる複数の個体が魔力を放出した痕が明確に残っていた。辺りの木々や土は大きく焦げ、炭化したままの状態さえ見える。何者かが魔法で戦ったとしか思えない強い魔力の残滓。
さすがにトマに付き従う魔道士達にもわかるのか、絶句している。
細かく調べてみると、この狭い場で非現実なほどの強い火魔法が幾度も放たれていると判明した。
「これは、魔物か」
人ではあるまい。これ程の火力を放つ魔道師にトマは覚えがない。
さらにその魔力持ちは、強い火魔法を方々無数に乱発している。木々の枝、そして土塊にも残る痕は抉れ焦げ、その威力の高さを誇示している。人ならば誰もが心にかける魔力の限界と枯渇。それらを全く配慮しない圧倒的で無尽蔵な力を見れば、ナーラ国民の可能性はなかった。
他にいくつもの違う個体の魔力使用の痕が見られたが、残された痕の大半は同じ個体の火魔法だった。火魔法の痕跡は圧倒的だが、残る数々の魔力痕は特に強いものではない。つまり、強力な火魔法を使う魔物と大勢の魔物が戦いを繰り広げたのか。
何の為に?
手のひらを地面に近づけて滑らせていたトマは、新たに触った感覚に眉をひそめた。
崖に沿って、これまで感じた魔力と異なる、数多の攻撃魔法を跳ねた薄く、だが綿密に張り巡らされたであろう魔力の欠片。
「防御魔法が」
「士長?」
「これを放ったのは魔物ではない。我らに通じる防御の術だ」
「確かに、ここに残るのは人のもの」
トマの呟きに、側近く寄った魔道士が軽く手を翳して同意した。
魔物達のいさかい、争いの痕の中で異物ともいうべき防御術の痕跡。幾度も張り直された丁寧で細かい波から見ても、魔物ではなく人、この場に迷い込んだ魔力持ちの民のものだ。
今となってはその人物がどうなったのかさえわかりはしない。魔物達の争いに巻き込まれ、身を守ろうと懸命に防御魔法を繰り出したのだろう。半円に張り巡らされた痕が徐々に小さく狭く、しかし厚みを増している。最後に張られたとみえる痕は人が辛うじて覆われる最低限の大きさだ。
そして遂に力尽きて滅せられたのか、魔力を奪われた後に喰われてしまったのか。痕跡から見るに、かなり強く見事な防御魔法を施せる優れた魔法使いであったろうに。
あるいは、この裂け目から地中に落ちたか。
しかし不確かな可能性でもって、素性も知れぬ者を探す為に地中を捜索することはできない。魔道庁は国の機関。王宮を中心とした国を守護する為の部署であって、個々の民を救うものではないのだ。
崖と地面の間に大きく口を開いた裂け目を、そっと覗いた。真っ暗で何も見えはしない。
トマは心の引っ掛かりにそっと蓋をした。我らに些末事に関わる余力はない。気を取り直し、部下の魔道士達を顧みた。
「遮蔽するぞ」
「はっ」
トマと、特に遮蔽に長けた魔道士複数人でもって、この裂け目を封じ地中と地上の境に厳重な防御魔法を張った。
裂け目はかなり広い範囲に及んでいたから、かなりの時間と手間を費やした。
それでも、昼から始めて怪しのものが跋扈しやすい夜になる手前で、全ての遮蔽が完了した。
トマは共に働いた魔道士達の長時間の任務を労った。魔道庁として王宮にあげる書面の概要を、簡単に部下の一人に指示する。
「今日は終わりでいい。明日中にまとめて私の方に回してくれ」
「承りました」
「閣下へのご報告は」
首肯する魔道士の横から、不意に尋ねられた。確認するまでもない、フォス公爵の関心を強く意識した野心家の若い男だ。魔道庁で手掛けた事象の個別の報告が、半ば義務化しているが故の問いかけだった。だが公爵の意向を叶えることを第一とする彼にとっては、何よりも優先すべき大事なのだろう。
「それは後日行う」
「隠蔽されるおつもりか」
直ぐと刺々しい眼差しが、露骨にトマに向けられる。上司に対して僭越な態度であるが、咎めようとは思わなかった。貴族身分としては相手が上というのもある。
「いや。判断が定まっていない。宰相殿へあげる報告書を作成して、そこで私の考えをまとめる。その上で状況を詳しく閣下にはお伝えするつもりだ」
悪戯に目の前の出来事を精査も取捨もせず伝えては混乱や誤解が生じる。
フォス公爵は能力が高く思慮もあるが、持ち得る権力はあまりに大きい。故に、かの人が指先ひとつを振っただけで周囲には多大な影響が出る。公爵が惑うだけの情報は削り、有益なもののみを差し出す。
「しかし士長殿は、黒い鳥の目撃情報さえ伏せておられる」
「未確認であろう。黒っぽい、それらしき鳥を一度や二度見たからといって事実にはなり得ない。実際、ここ数日はいずこからも報せはあがってきていない」
伝説の魔鳥だ。真の姿は誰も知らないが故に安易に誤情報に飛びつくことはできない。国に繋がる宰相よりも裁量の自由度が高い公爵だからこそ、異常事態の報告は慎重にするべきだった。
「そうですか。閣下には全て漏らさずお報せすべきとは思いますが。士長がそうお考えであればそのように」
納得しかねる気持ちを圧し殺した形ではあったが、男は引き下がった。
──私に対する不満はあるようだがな。
魔道庁の頂点に座すトマの地位を狙う野心家は少なくない。さらにトマの力量を侮る者も。彼らは、トマの現在地を過剰な恩恵の賜物と見る。与えたのはもちろん庇護者として手をあげているフォス公爵家だ。だからこそ、トマよりも公爵の目に留まれば、有能さを認めてもらえば、と安易な方向に走るのだろう。
リュシアン様は、それほど甘いお方ではない。
幼い頃から過剰に阿る者や媚びる者を見てきたであろうかの公爵は、むしろ彼らの思惑を知った上で自在に動かし利用し尽くしてしまう。そんな王者が自ら選んだトマという道具を、それは不良品です、としたり顔で指摘して、心に適うと考えているのか。軽侮されるのが先に立つ。
生まれながらの支配者層に対しては、ひたすら誠実に対応するしかない。それはトマの揺るがぬ姿勢だった。
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