86 脱出
だが。
「詳しく話す暇はないようだ」
ジュールの声が厳しさを孕んだ。
ふと上方を見上げれば、手足とも言うべき全ての蔓を失った食虫植物の魔物は、中心にある花弁をゆらゆらと蠢かしていた。
「もう蔓は無いんだし、何も出来ないって」
「いや。来る…!」
静かな緊張が滲んだ宣告。
ぼこっと地面が盛り上がった。隆起した土の中から現れたのは太く枝分かれした根。違えようもなく魔物が地に張り巡らした根っこだった。それが四方八方で地中から這い出て蠢く。
「ちょっ。今度は根っこか!」
「んー、蔓の頭みたいなこっちを捕まえるものはなさそう」
サヨの言う通り、ただ土中から引き抜かれた根が土まみれでのたうっている。
「餌を取る手段を失ったから暴れてる?」
「だけどこのままじゃまずい!」
魔物の本体を中心に網目のように張り巡らされていた根が隆起することで、土は掘り起こされ、地面はぼこぼこになった。土塊が散る中、萎れたかつての体の一部、蔓は地中に沈んでいく。
沈んでいる。
地面全体が崩壊に向かっているのだ。
「これって何のためにやってるんだ?」
「我々を攻撃する手段はないようですが」
「じゃあ単に暴れてるだけか」
「自滅するだけじゃないか!」
実際、根っこを蠢かせていた魔物そのものが斜めに傾いで土に飲まれている。しかしもちろん、この地底そのものが崩れているのだ。それだけでは済まない。
「でも巻き込まれたら危ないのはこっちだよ!」
「ですね。ジュール様」
ルイの指摘に、レミが珍しく声をあげて主を顧みた。ジュールはちらりとレミを見てから、サヨを呼んだ。赤い玉をまとわせて近づいた魔鳥に短く言った。
「時間がない。その玉は私が回収しておく」
左手をさらりと滑らせると宙を回る赤い玉は二つともジュールの掌に収まった。
地面は既にぼこぼこに耕され、ゆっくりと沈下し始めている。
崩壊は上からも起きていた。
さっきまでぱらぱらと小石が落ちていたのに、もはや 土砂と一緒に大振りな石が次々に降っている。
危険だ。
「ルイ!」
「ルイ殿下!」
サヨとジュールがほぼ同時にルイを呼んだ。
「防御魔法を上向きに張って!」
「皆を覆うようにお願いします!」
指示するものも似通っている。つまりはそれが皆で助かる正しい道なのだ。
即座にルイは両手のひらを上に向けて防御魔法を張った。
「もう、地面ももたないな。すぐに移動しよう。お前はルイ殿下を。シャルロット殿下は私が」
ジュールが間断なく指示する。防御魔法を張り続けるルイの傍らにサヨがさっと立ち、ジュールはシャルロットを庇うように寄り添った。
「え…」
一人、行き場のないことに気づいて、ルイはジュールを振り返った。
「いざとなればレミは残します」
「!」
「駄目だよ、そんなの!」
シャルロットが叫んだ。
ジュールは答えない。助けられる人数は限りがあるのだ。そして、自ずと優先順位は決まっている。
ルイも、シャルロットもそれは理解した。しかし納得は出来るはずもない。
シャルロットが、ぐっと引き結んだ口から呻きをこぼした。
「私がいけないんだ。私が、ついてきちゃったから」
ばらばらと土塊が落ちて、さらに地下の崩壊は激しくなっている。嘆く時間もない中、唇を歪め、シャルロットが己を責める。
「余分なのが、いるせいで」
掌を上に掲げたルイは傍に駆け寄って慰めることもできない。
そもそもはサヨと飛び出した考えなしの自分のせいなのに。
「シャルのせいじゃない」
そう声をかけるのが精一杯だった。
その間も地面は柔らかく崩れ、さらに陥没していく。いよいよ時間がない。
はあ、と溜め息をついたのはサヨだった。それからひっそりと控えるレミに目を向ける。目の前で己を見捨てる話をされながら、忠実な従者は顔色ひとつ変えていなかった。その彼に、サヨはにじり寄った。
「ねえ」
「はい」
「あんた、ルイを抱っこできる?」
「抱きかかえることは可能ですが」
「そ。了解」
納得したように頷くと、サヨは周りの土砂の音に負けまいと声を張った。
「ねえ!魔道師様。細かい作業、頼んでもいい?」
「どういうことだ」
「あんたが先導してくれるなら、私は鳥に戻るわ。そうしたら従者とルイの二人くらい運べる」
ジュールがはっと表情を変えた。頭の中でサヨの言葉を吟味しているのだろう。目まぐるしく動く思考を、珍しく隠せていない。
「ただ、ヒトガタより小回り効かないし人のような配慮はできない。突発事態の対処もね。魔力は数段あがるけど、つまりはそういうこと。任せていい?」
「了承した!」
ジュールが大声で返した。それを聞いてすぐさま、サヨはするすると形を変えた。
「うわ、ほんとに鳥になった…!」
シャルロットが驚嘆する。
あっという間に漆黒の鳥になったサヨは、促すように一度啼いた。
「殿下」
すっとレミがルイの前で屈むと、許可も待たずに背中と膝の下に腕を入れて抱え上げた。
「うわっ」
ぐらりと姿勢が崩れたせいで、土砂が皆に降りかかる。ルイは慌てて両手を伸ばして遮蔽を張り直した。
レミはそのまま鳥のサヨの足元まで移動する。
「有能」
「無駄口を叩いている猶予はないと判断しました」
「うん、運ぶよ」
レミの肩を、サヨの鳥の足ががしっと掴んだ。
「鳥になって普通にしゃべってる…」
「シャルロット殿下、我らも」
鳥のサヨから目が離せないシャルロットに短く断りを入れると、ジュールがそっと抱えた。
「ルイ殿下、もう遮蔽はやめてご自身の無事だけを考えて下さい」
ばさっとサヨが翼を広げる。漆黒の翼は大きく力強く羽ばたいた。
レミがルイ共々吊り上げられ、宙に浮かんだ。
ばさっと羽ばたきがひとつ。そして視界が変わった。二人の重さもものともせず、ぐんぐんと上がっていく。
ばらばらと大きめの土塊が降ってきた。ルイを抱えるレミががくんと大きく傾いだ。サヨの滑空が斜めになったせいだ。勢いでルイの体がずれる。ぐっと巻きつくレミの腕に力が入り、落とさぬようにルイを囲う体が折れる。
「ぐっ」
頭の上でレミの呻きが漏れた。
目だけを上に向けると、レミの肩に鳥の鋭い爪ががっしりと食い込んでいた。
「悪いけど。お前達を落とさないこと、瓦礫を回避すること優先になる。爪の先に構う余裕はない」
「気にすることはない」
上から落とされるサヨの声にレミが短く答えた。ルイがそっと視線を向けると、肩に食い込んだ爪は肌を破り血が滲んでいた。
だが、ここでルイが謝ったとしても何の慰めにもならない。無事に帰ることができてはじめて、謝罪や感謝が出来る。そして今後に備えた学習や魔法の習得も。
今はなるべく運ばれやすいよう、ルイは無駄な力を入れずレミの腕の中に収まっているように努めた。
シャルロットを抱えて翔ぶジュールが上に向かって術を放った。落ちてくる土砂や石ころを跳ばしたのだ。そうして拓けた宙をぬって魔道師と魔鳥が飛んでいく。
幸い、地下に多く群れていた蝙蝠の魔物は襲ってこない。
この地下の崩壊に巻き込まれたのかいずこかに逃れたのかわからないが、この脱出行が魔物に邪魔されないのは天の救けと言えた。
二度にわたる転落、落下、そして地底への降下。地上に戻るにはかなりの時が必要だった。
ルイはちらりと足下を覗いた。食虫植物の魔物の根張りは、地底の広い域まで達していたようだ。その張り巡らしていた全てが隆起して暴走することで、魔物が住んでいた地下層を根底から覆してしまったらしい。サヨの力で崩壊した地底から高く上がってきたはずだが、ルイの爪先のすぐ下まで瓦礫が積み重なり、どんどんと穴が埋まっていく。なので底からどれくらい上がってきたのか、目では判断できない。だが暗い穴から転じて上を見上げれば、闇色が薄くなった空が見えた。
下から起こる土煙の埃混じりの空気が、冷たい冴えたものに変わる。サヨがばさりと翼をかいて、遂に地上へ辿り着いた。
土日の更新はお休みします。




