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「奴が自ら去った…?」
グレゴワールが王居から、王妃の側から消えたと告げられ、フォス公爵は驚きを隠せなかった。
「まことのことですか」
東の宮からの呼び出し。
何をおいてもと優先し駆けつけて聞いた報は、信じられないものだった。思わず聞き返すとナディーヌはきっと睨んできた。
「わたくしが嘘を言って何になりましょう。もちろん散々に慰留したのですよ。でもグレゴワールはどうしてもと聞かなかった」
一旦口を噤んで、兄にしか見せない利かぬ態度で叫んだ。
「兄上がお責めになったから!」
「悪かった。どうしても心配だったのだ」
癇癪を起こした妹に、公爵は側に寄って肩を抱き寄せた。
「あの件は問題なく処理されましたのに」
「それでも、良くない噂はどこからともなく蔓延るものだからね。私はお前に余計なことで心を乱して欲しくないし、関わって欲しくない。嫌なこと、失くしたいことがあったら私に言いなさい。あんな者に頼る前に」
「でも、私はあの男に傍にいて欲しかった」
「あれがいる限り、ナディは余所に手を出したくなるだろう」
そう仕向ける男だ、あれは。
公爵は口の中で呟いた。
だから危険だ。
「しかし、あ奴が素直に聞くとは思わなかった。私が奴に王妃のお側から消えろと命じた時には、全く従う気配はなかったのだが」
むしろひどく反抗的でこちらを嘲弄しさえしたのに。
あの時の腹立たしい思いが蘇る。
「後から恐ろしくなったのでしょう。お兄様、ご自分が思うより遥かに威厳がありますもの」
そっと公爵の胸にもたれ掛かり王妃は言った。甘える仕草を見せる妹に、公爵の尖った心が丸く和らいでいく。
「すまないナディーヌ。でも聞き分けておくれ。あれは危険な男だ。私は妃殿下の近くにあのような下賤な者を寄せたくはないのだよ」
「兄上」
優しく背中を撫でると、ナディーヌは子供のようにふわりと笑った。
フォス公爵は妹を宥めるために心を尽くした。故に部屋の隅に置物のように佇む小さな娘には欠片も注意を向けない。王妃の周囲にはよく躾られたフォス家選りすぐりの侍女しかいない。だから気にかける必要はないのだ。
ナディーヌもまた、グレゴワールの置き土産については遂に口にすることはなかった。
灰色の娘は目を伏せることなく、ただじっと部屋の壁に張りついていた。




