2 小さな世界と噂噺
「…ィさま、ルイ様」
落ち着いた声が名を呼ぶ。少し乾いた大きな手がそっと首もとの襟を整えてくれた。温かい、何でもできて甘えられる優しい存在。
「アンヌ」
身支度を終えたルイが面を上げると、アンヌが頭を優しく撫でた。嬉しくて目線を落とし、目の前の仕事着である紺のドレスの端にそっと触れる。と、ルイに覆い被さるように同じくらいの小さな塊がぶつかってきた。
「ルーイー!」
突っ込んできた勢いのまま抱きついてくる。
「シャル」
腕を外して振り返る。
一足先にアンヌに着替えさせられた、ルイと全く同じ小さな背丈、同じ長さの金の髪の子供。
向かい合う二人は傍目にはそっくりに見えるが、よく似た男女の双子だ。
揃いの白い服で肩にかかる金髪もほぼ同じ輝き。しかし当人同士は似ていないと考えている。
「行こう。今日はあっちの花壇で虫を探そうよ」
手をひいて今にも駆け出そうとするシャルロットは特に元気がいい。腕をひかれたまま、ルイはほんの一寸立ち止まりアンヌを見上げた。頷く姿にすぐ戻るよ、と言い置いてきょうだいの小さな手を握りなおした。
「蕾も膨らんできたし、新しい子がみつかるといいね」
ぎゅっと握った手は同じ大きさ。連れられるのではなく、手を繋いで並んで走り出す。
ルイは六歳。シャルロットも同じく六歳。
外から切り取られたかのような宮で日がな双子の二人だけで遊ぶ。
最初にある記憶。
物心ついたルイが知っているのは小さな箱庭だけだった。
子供だけで住むには広い、内側に噴水を備えた庭を有した宮の住人は双子とアンヌだけ。
アンヌは初老の品のある女性で、濃い茶色の髪をきちんと纏めて紺のドレスをふくよかな身にまとっている。二人の世話一切をしてくれる大事な人だが家族ではなかった。ルイとシャルロットは何と呼ぶべきかも知らない。ただ彼女は二人が気づいた時には一緒だった。
宮で雑事をこなす使用人はいるが、最低限の用を足すのみ。主人の目につかないように配置されているため、ルイ達にとってはいないも同然だった。
食事はアンヌが給仕に徹するのでルイとシャルロットだけで取った。それが当たり前。まだ幼かったので男女の別もなく、寝室すら同じで大きなベッドで共に過ごし、二人はいつも一緒だった。
その日は晴れていた。夏の日の長い午後。
ルイとシャルロットは日陰を選んで散策するうち、宮の敷地中心から外れたあまり立ち入らない一角に大きな木を見つけた。大人の胴の三倍はある幹の大木は、人の丈より高い位置に横に幾重も枝が張り出していた。重なって茂る葉は鮮やかな緑で日差しを遮り、いかにも登りがいがありそうだった。
「競争!」
言うが早いか、シャルロットは幹に取りつき服がこすれるのも構わずよじ登り始めた。常に駆け回りどこでも入り込む双子の格好は、用意周到なアンヌの選んだ動きやすい薄手の上下、パンツスタイルである。最低限の上質さは保っているが男女の差異はついていない。
「待ってよ、シャル」
遅れてルイも木に登る。
躊躇いなく幹の凸凹を掴んでするするとあがっていくシャルロットに比べて、一歩一歩慎重にいく性分だ。
「私の勝ち。ルイ遅ーい」
なので当然、目当ての枝に取りついて笑うシャルロットを見上げることになる。ある意味、いつものことだった。常に先へ先へと駆けていくシャルロットと後から踏み固めるように歩むルイ。先に乗り込もうとするシャルロットの危うさを守るのがルイの役目だ。
眩しい笑顔にしっかりと釘を刺す。
「シャル、ちゃんと掴まって」
シャルロットが枝にしっかりと跨がったのを確かめてから、ルイは自分も幹と枝の股の間に腰を落ち着けた。
これなら、二人分の重さも大丈夫。
ほっとして顔をあげ、そこでルイは眼下に広がるものに釘付けになった。
「うわあ」
それは二人同時に発したものだったのかもしれない。
目の前に拓けた景色は、初めて目にするものだった。
二人が住まう宮の外、塀の向こうに整備された緑園と道、道の突き当たりに点在する他の宮や石で積み上げられた高い塔。そのはるか先、最奥に建つひときわ目を惹く大きな宮殿は白く浮かび上がってみえた。
宮から出たことのない二人が初めて見た外の世界。
遠くに臨むそれに心が躍った。
しばし、見事な光景に見惚れていると、足下の方で物音がした。話し声と複数の人が近づく気配。
見下ろすと、数人の女がおしゃべりしながらこちらに向かってくる。
褪せた灰茶色の厚地のドレスに白い前掛けをした中年の女達。
恐らく、アンヌに仕えている下働きの使用人達だ。普段はアンヌの配慮でルイとシャルロットのいる空間とずらした箇所で作業をしているため、二人はほとんど見たことがない。これも物珍しくて樹上で共に、息を潜めて見守った。
女達はここで仕事の合間の息抜きをすると決めたようだった。頭の上に子供達がいるとは欠片も思わず、木の下に陣取って立ち話を始めた。
「あー、なんか暇だねえ。来る日も来る日も同じことばっかりで」
「そりゃあ、屋敷のご主人様があんな子供じゃね。夜会やらお茶会なんてあるわけないさ」
「王妃様のとこなんか、しょっちゅうお客様が来て華やかだってよ」
「あー、さすがに今一番ときめいてる宮と比べるのはねえ」
誰だって力のあるお方に靡くもんじゃないの。
勝手気まま、口々に言い合う。
「そうだけどさ。ここだって少しくらいおこぼれを期待してもいいんじゃないかい」
「しょうがないよ。父親が知らんぷりなんだから」
「母親が死んだらどうでもよくなっちまったってんだろ?」
「そうそう」
「あちらにお子が生まれたしね。いらない子達なんだよ、もう」
「だけど放り出すわけにもいかないから、二人まとめてこの屋敷に囲ってるのさ。死ぬまではね」
「ひどいね~」
「おかわいそうに」
憐れむ言葉とは裏腹に女はひどく愉しげだった。他の女達も、唇は一様に笑みの形に吊り上がっていた。
「でもそのままだったら本当にあっという間に死んだはずさ。ほんの赤ん坊だったんだからね。それが、お暇を出されるところだったアンヌ様がわざわざ願い出てお付きになったんだって」
「物好きだねえ」
「上の方ってのは食べるのに困らないからおかしなことをやるもんさ」
「アンヌ様が熱心に世話されてるから、ガキ二人、このまま生き永らえるんじゃないかねえ」
「ま、それならあたしらも給金がいい働き口をなくさなくて済むってもんさ」
「毎日つまんないけどね」
あははははっ、と笑い飛ばす。
呼吸を忘れて聞き入っていたルイは、跨がる枝が軋んだことで我に返った。隣ではきつく枝を掴んだシャルロットが、目を見開いたまま声が出ないよう唇を噛んでいた。瞳が濡れて零れ落ちそうなものを懸命に手の甲で拭う。ルイは不安定な枝に腕を伸ばしてシャルロットへと手を伸ばした。ぎゅっと腕を掴むとこちらにすがってくる。
難しい話は理解できない。
元々、自分達の生まれや事情を何も知らされず育ってきた。気にしたこともなかった。
女達の佇まいや口さがない明け透けな様を見れば、使用人達が無責任でいい加減な噂噺をしているに過ぎないのだと思う。
だが幼い二人にも、下働きの女達が声高に話しているのが自分達の身の上で、歪んだ笑いに落とされるひどくみじめな存在だと残酷に突きつけられた。
いらない子
簡単で二人の心に鋭く突き刺さる言葉。
樹上で、二人はただ手を繋いでじっとしていた。




