260 迎え
早朝から待ち続けて良かった。
メラニーに教えられた端にある門を出て、人の行き来がほとんどない街道の検問から見えぬ位置に陣取っていたマクシムは、目当ての馬影を認めてほっと顔を和らげた。
並走する二頭の馬。手入れの行き届いた、市井ではまず見ない毛並みの馬が引くのは小型だが立派な箱馬車だ。
目の前を過ぎ行く際に、さっと車体の横に視線を合わせた。
真ん中に大きく描かれたのは所有者を示すもの。三本の剣に星と薔薇。見慣れた王家の紋の中央に光を添えた宝冠。
間違いない。王妃ナディーヌの馬車だ。
小さく頷くと、マクシムは街道を逆走して馬車を追った。ぐん、と全速力で駆けて馭者を追い抜く。そこで一旦足を緩めて呼吸を整える。それから、一息に言い放った。
「失礼致します!妃殿下の馬車とお見受け致します。私はマクシム、騎士ブリュノの子です。しばし時をお貸し願えませんか」
これで停まってくれなければ、メラニーの読みは外れ、マクシムは運に見放されたことになる。
果たして。
少し行き過ぎたところで馬車は速度を緩め、そして停まった。
「ブリュノの息子、マクシムか」
わずかに扉が開いて、そこから放たれた声にマクシムは身を固くした。ルイではない。聞き覚えのあるこれは、第二王子フィリップの声。
は、と口の中で応じて身を低くする。
「我らは急ぎ、王居に戻らねばならない。出迎えは殊勝であるが同道はいらぬ」
「──っ」
拒まれた。
だがそれで引き下がるわけにはいかない。ルイの無事も確かめられていないのに。
思わずと顔をあげたマクシムの眼前に差し出されたのは、二つに折られた紙片。摘まむ指は恐らくフィリップ王子のもの。何も言わないまま指がひらりと動いた。
宙に浮かぶ紙片。受け取る前に落とされたそれがわずかに開いて、中の文字が見えた。
ルイ様──!
見覚えのある文字に、急いで掬い上げる。
「ではな」
短く声が投げられ、扉が閉まった。馭者が馬に鞭をくれる。
ゆっくりと馬車が動き出す。
がらがらと音を立て去るの見届けて、マクシムは紙片を開いた。
マクシム
全員無事だ
頼みがある
俺が戻るので、先に祈りの館からシャルロットを連れ出してくれ
面倒事ですまない
走り書き。だがルイの手によるもので間違いない。
姿は見てないが、ルイはもちろん、フィリップもサヨも無事に王宮、祈りの館に向かっているということなのだろう。
読んだ紙をていねいに懐に仕舞いこむと、マクシムは呼吸を整えた。軽く手足を動かしてほぐす。全身が自在になるのを認めて、ふっと息を一つ吐く。
と、マクシムは走り出した。全速力ではない。この街道から王宮の奥まで息切れせずに行き着ける余裕を持って、だができ得る限りの速さで。走りながら、王宮に着いてから先を考える。さりげなく、王居への最短ルートを選択して。何しろ、ルイ達が祈りの館に落ち着くより前にシャルロットを連れ去らねばならない。
先を行った馬車はもちろんマクシムより速い。もう影すら見えない。だが馬車の通れる道は限定されていて抜け道などは使えない。そして王妃の馬車は王宮ではなく東の宮に向かう。そこで馬車を降りて、彼らも人目を避けつつ祈りの館に入る。その余計にかかる時間が、マクシムに与えられた猶予だ。
騎士になるべく鍛えられた身体と見習いとして知り得た王都と周辺の抜け道を使えば、ルイ達に先んじて王宮に至ることはできる。だが王宮に入る手段とそこから祈りの館に人目に触れず辿り着くにはいかにすべきか。警戒体勢が続く中で徒にうろついていたら、騎士見習いとはいえ不審に思われて尋問されかねない。
騎士団本部から王宮へは近いのだが、国を司る本宮、国王の住居である主宮を抱える区域、つまり王宮は兵と魔道士の監視が厳重であり、マクシムには立ち入る権利は当然ない。
また、現在、数百年ぶりに現れた伝説の存在──聖なる乙女──が儀式を行っている祈りの館は一層の警備警戒が為されている筈。
だがそこに密かに侵入する為の切り札を、マクシムは持っていた。
走りながら、小さく
「メラニー殿」
と囁いた。
しばらくはマクシムの規則的な呼吸音と長靴が地を蹴る音しかしなかった。
が──。
『マクシム殿』
やがて低く落ち着いた声が、頭に響いた。
ルイの住まう宮の侍女、メラニーだ。
伝達魔法を得意とする彼女。宮を離れる前にその術をかけて、己とこの侍女殿と繋いでもらっていた。マクシムが働きかけたら術でもってメラニーと話せるように。
「ルイ様と接触できました。お二方共、サヨさん、もご無事です。それで、俺に指示がありました」
『ようございました。ルイ様はなんと?』
「馬車は祈りの館に向かっています。それでシャル様を先に逃がして欲しいと」
一瞬の間。
『つまり、王宮に速やかに潜入、待避の為の便宜が必要ということですね』
「はい。お願いできますか」
『モリス殿に連絡して、王宮内の奥の庭に至る場に意図的に監視を緩めた箇所を作ってもらいます。話がついて詳細がわかり次第、お伝えします』
「モリス殿?」
『元、ジュール様の部下で今はロラン様の補佐をされています。少し以前よりレミ殿の繋がりで知己を得たので』
それは、話が早い。まさかメラニーが王宮に直接働きかけられる人物に伝を持っているとは思わなかった。
だが。
「あの、宰相閣下に話が行ってしまいますか?」
モリスは、ロラン宰相についているという。静の魔法に長けた従者だから、マクシムの願い通りのことを為してくれるだろう。だが、ルイとフィリップの秘密裏の行動を己の独断で漏らしたくはない。
『──わかりました。では事はシャル様の暴走故といたしましょう。マクシム殿はその後始末の為に忍んでいかれる、と』
「え、え?」
『そのようにモリス殿には話を通しますので、いざという際のシャル様への説明はお任せします』
「は、あの」
『シャル様を宥めるのは、ルイ様の次にマクシム殿が慣れておられますから』
「──わかりました」
口を挟む隙もなく言われて、マクシムはメラニーの提案を受け入れる。
『では、後程。ルートがわかり次第、お伝えします』
「お願いします」
ふつり、とメラニーの声が途切れた。我に返って、マクシムはたった今交わされた話を吟味する。
もちろん、王都へ向く足を止めはしない。
格好は騎士団の見習いの装いだ。王宮までは見咎められず入れるだろう。問題はその先だ。宰相の腹心として働くモリスはメラニーの求めに応じて祈りの館へ至る道を拓く。拓いてくれると願う。とはいえ、それは監視の目を弱めただけの危ういもの。そしてマクシムは祈りの館を見たことがない。それでも手間取っている時間はないのだ。迅速に館に着いてシャルロットに会わなければいけない。
──できるだろうか。
束の間、不安に包まれる。
マクシムは自身の弱気を振り払った。
そして、今自分にできること、王宮に向けて駆けることに集中した。
果たして。
黙々と走って、王都に至る前にメラニーから伝達が入った。
『モリス殿は動いて下さるそうです。と言っても、今日の昼過ぎには消える術なのでご了承を』
ごく短い時間で決行しろということだ。
マクシムに異存はない。
そうしてメラニーは王宮の奥庭、祈りの館までの道を告げていく。マクシムの身分では窺い知れない、何となく想定していただけの王宮の奥の様子が少しだけ形になる。他の部分は曖昧なままだが。
それでも教えられた順路を信じて行くだけだ。
『──と、ここを折れると祈りの館に着きます。帰りは王宮から騎士団の森近くに抜けてください。その辺りに宮邸の馬車を停めておきますので』
王宮の外に出ると、こちらも警護の魔道士と騎士がうろうろしている。
年明けの事件の影響で臨時警戒が続いているからだ。そんな中、明らかに貴族の子女たるシャルロットが歩いていてはいかにも目立つ。馬車に乗っての移動なら誰何もされず王居を移動できる。速やかに宮邸に帰れるというわけだ。
「わかりました。配慮ありがとうございます」
『とんでもございません。こちらこそ、ルイ様、シャル様の御為、厭わず動いてくださるマクシム殿にはお礼を申し上げなくては。──シャル様をお願いいたします』
「はい。全ては事が終わりましてから」
礼を言われるのは今日が何事もなく終わってこそ、だ。それはメラニーも承知だった。
『全てが治まるべきところに落ち着くことを願っております』
静かに告げて、メラニーの声は断ち切られた。




