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王子から距離を取ると、小走りになって先程見た場所に向かった。魔道師が倒れているよりさらに遠くに、ジャックが見かけたのと変わらぬ姿で馭者は地に伏せていた。そっと口の辺りに手をかざすと吐息を感じた。
気絶しているだけという見立ては正しかった。
頷いて、馭者の後ろ側から両肩を掴んで体を起こす。
「はっ」
膝を背中に入れて気合いと共に両肩を開く。
「あ?!」
声と共に、馭者の目が開かれた。
「うわあああ!──あ?」
と、大きな声で叫ぶ。それから至近にいるジャックに気づいて目を瞬かせた。
「騎士団のものだ。大丈夫だ、もう安全だ」
こちらに向かせて言い聞かせる。
「え、あの魔道師はっ」
「あいつは倒されて気を失っている。もう何もできない」
掴みかからん勢いで問われて、もう一度、脅威が去ったことを教えて安心させる。
「ああ。──騎士様があいつを?」
「あー。まあとにかく終わったんだ。立てるか?殿下がお待ちだ」
安堵の吐息をつくと、馭者はジャックを眩しそうに見た。騎士に対する当然の信頼。それに対して適当に誤魔化して、立ち上がるのを手伝う。と、馭者はぎくりと動きを止めた。
「殿下?…あの、殿下のことをご存知なのですか」
なるほど。
当然だが馭者は誰を乗せているか知っている。そして車内の人とその行き先、用件全てを秘して動くのが彼の仕事なのだ。ジャックに王子の存在を知られたのは失態と感じたのだろう。
かのナディーヌ王妃の私用に使われるだけあって、己の職務に忠実だ。そして多分、口も固い。
一瞬、上を向いて。ジャックは言葉を選んだ。
「今、目通りしたところだ。魔道師の件で殿下自らお出ましになったのでな」
あくまでフィリップ王子が動いたのだ、と印象づける。王子自らジャックに姿を見せたのだから、馭者は気に病まなくていい、と。
「それより、殿下は先を急ぎたいとお思いだ。馬が一頭逃げてしまっている。残りの一頭で馬車は動かせるか?」
「馬が。…いや、そいつはなんとかなります」
己の職掌を思い出したか、馭者の目に光が戻る。彼は立ち上がって離れた馬車を振り返った。繋がれているのはジャックが落ち着かせていた一頭で、隣の引き具は空のまま地に落ちている。
一頭立てでどうするのかとジャックが見つめていると、馭者は何を思ったか、道の反対側に駆けていった。小さくなった背中が止まる。と、かすかにひゅーっと音がした。
指笛か?
小さく聞こえたそれ。
そのまましばらくは何も起きなかった。だが少し経って、薄闇の向こうから規則的に地を踏みしめる音が響いてきた。
それが馬の蹄だとジャックがわかる頃には、道の彼方にその姿が見え始めた。
カツカツと迷いなく馭者の元に駆け寄っていく。
触れられる距離まで来ると、馭者は馬の首筋を撫でて馬車の方へと先導する。馬は軽く嘶いて大人しくついていき、あっさりと引き具に繋がれた。
馭者は驚いた風もなくもう一頭の脚を確かめ、馬首を叩いて落ち着かせる。
「うん、問題なさそうだ。──これで馬車は動かせます」
──魔法のようだ。
急いで後を追って、一部始終を見ていたジャックは、目の前の手妻に感心と驚きに口を開けてしまっていた。慌てて唇を引き結ぶ。
馬車の扉は閉まっている。中の人々に聞こえるよう、ジャックは箱馬車に向かい、声を張った。
「殿下!馭者は無事、馬も戻って参りましたので問題なく出立できます」
扉がまた少しだけ開いた。
「そうか。面倒をかけた。こちらはこのまま王都に戻る」
フィリップ王子の声が落ちてくる。
「お供、つかまつりましょうか」
「いや、遠慮する。すぐにお前の同僚の魔道士が追いつくだろう。細かく詮索されたくない」
「は、それは」
「お前は捕らえた魔道師と待っていればいい。王妃の馬車は留まるよう要請したが、強引に振り切って駆け去った、と告げれば辻褄も合う」
軽く嘲弄混じりにフィリップは言うと、それで終わりと扉は閉じた。次いで、馭者がジャックに深く頭を下げた。
馬に鞭をくれると、ぎし、と馬車が走り出す。ジャックも車内の王子に向けて頭を下げた。
道の向こう、箱馬車が小さくなるまで見送って、ジャックは大きく息を吐き出した。
「疲れた、」
時間にすればごく短い間だ。しかし逃亡した魔道師を追いかけて、とんでもないモノに出会った。
件の野良魔道師が見知らぬ馬車を襲っている、と認めて急いで間に入ったら、馬車は王妃の私用のものだった。
魔道師の攻撃を防ぎ切れずに、馬車が破壊されると思った時。強い防御魔法が張られ、さらには火魔法によって魔道師はあっさりと倒されたのだ。しかも苛烈な炎で焼き尽くされたとジャックも魔道師自身も信じたそれが、幻であった。捕えるべき男は炎の幻影に恐怖して意識を失っただけで軽傷で済んでいた。絶妙な術は匙加減でできるのか、魔道に明るくないジャックには想像もできない。
それ程の高度な魔法を使う者は、と馬車の中に問えば。現れたのは第二王子フィリップで、彼の存在で真実は隠され、防御魔法と高度な火魔法の遣い手は謎のまま終わった。
逃げた魔道師を捕らえることができたのが、せめてもの成果だ。
未だ意識の戻らない魔道師の両手を拘束して、顔を上げる。
「…ック、──ジャ、ックッ」
途切れ途切れの声が聞こえてきたのはそんな折だった。
「ジャック殿。──良かった、追いついた」
息が切れ切れの暗色の衣の男。ジャックと共に任務についていた魔道士だ。細身の体に長い衣をまとっていて、いかにも体力がなさそうな姿である。今も、懸命に走ってきたのか額に汗を滲ませ喘いでいた。
だが、その後ろにふわふわと二つの大きな塊がついてある。先に捕らえた二人の魔道師が魔法の力で引かれていた。
──確かに有能なのだ。
ただ、運動能力が長けていないだけ。それが今回、ジャックと引き離されて先程のアレに遭遇しなかった最大の要因になった。
「申し訳ない、村に騒ぎを知られてしまって。長に説明するのに手間取ってしまった」
しかも性格もまともだ。気短かな者だと民の言い分は無視して強引に事を為そうとしがちだ。だが彼はそんな無情はしない。民の理解を求めようと言葉と時間を割くのだ。それ故に仕事は早くはないのだが。
魔道士は別れていた間の出来事を言いながらジャックに近づき、足元に転がるモノに気がついた。
「おや、これはもしかして、逃げた残りの魔道師ではないかな」
「はい、意識を失っておりますが」
「さすがジャック殿。仲間を見捨てて素早く逃げ出したこの男。目端の利いた魔道師であったろう。私ではとても捕らえるなどできなかった」
褒められて、少しだけ罪悪感が湧いた。
「いや、それは」
「しかし、この魔道師は地力もあっただろうに、どのようにして捕らえたのかな」
「ここでは長くなります。その間にこの者が目を覚ましては大変だ。続きは移動しながらにしましょう」
「ああ、その者も術封じをして私が運ぼう」
「お願いします」
そうして、騎士と魔道士の二人は任務を果たして王居への帰途についた。途中、騎士の語る顛末に魔道士は驚愕することになる。だが王宮に到着した彼らはそんな雑談をする暇もなく駆けずり回る事態に陥るのだった。




