256 馬車と魔道師
251から続きます。
前エピソード255より少しだけ時間が遡ります。
サヨが取っ手に手を掛ける。慎重に力を入れて。わずかに扉を開いた。小さな手招きに、席を下りて隙間に片目を当てた。フィリップもルイに倣ってそっと顔を近づける。目を凝らすと、薄闇の中で外の状況が見えてきた。
恐らく、魔道庁に属していない魔道師だ。しかし何故こんな場所にいるのか。そして何故わざわざこの馬車を止めたのか。
幸いにも馬の前に立つ暗色の長衣をまとう男は、馬車の扉の隙間から覗いている者達がいると気づいていない。
手綱を持つ馭者に向かって話しかけた。
「これはなんと。このような場所で王妃殿下の馬車に行き合うとは。見逃すわけにはいかぬ」
魔道師の言葉に一気に緊張が走った。
この暗い空の下、目敏く馬車に打たれた紋を見つけて、その主を看破した。
当たり前だ。
相手は魔道師。今は市井にあるといっても魔道を修めたのなら王立学校出身の可能性が高い。あそこに在籍していたのなら王宮や王家について知ることも多くなる。王族の詳細、個人の紋章などにも知識があって不思議ではない。
しかし、物盗りでもしようというのか。
それとも──。
「中にいるのは誰だ」
「──っ」
ルイ達から馭者台は見えない。
息を飲み、魔道師の脅しに圧されつつも馭者が必死で口を噤んだのが察せられた。
それだけは言うわけにはいかないだろう。
「言え!」
重ねての問いに、答えはない。決死の覚悟で首を振ったか、固まっていたか。
「言わないか。ならばこうだ!」
焦れた魔道師が大きく腕を振った。
「うわあ!」
叫び声がして、少し離れたところでドサリ、と重いものが落ちた音がした。
「──」
ルイ達の間に重い沈黙がおりる。
恐らく。馭者は魔道師の攻撃によって馬車から撥ね飛ばされて、地面に叩きつけられた。気絶したのかあるいは。
最悪な予想が浮かんだ。
次いで、馬車が大きく揺れた。
「うあっ」
車内で転びそうになって外を見るどころではない。慌てて座席に取りついた。
魔道師が馬車に術を放ったのだと思った。
ガタガタと上下左右に揺さぶられ、最後に大きくガクン、と衝撃を受けて、馬車は動かなくなった。
「止んだ、のか?」
魔道師の攻撃が。
「いや、違う」
馬車の扉に貼りついていたフィリップが呟いた。
「馬だ。馬が一頭、引き具を外して逃げていった」
「そんな、」
馭者が飛ばされて、馬を制御していた手綱もなくなった。異様な空気を感じて暴れ、繋がれていた引き具を力任せに外して走っていったらしい。たった今の馬車の揺れはそのせいだった。
「馬が逃げたって。それじゃあ馬車が動かせないじゃないか」
「馭者がいない時点で、無理だ」
ルイには、フィリップにも引き馬を御する自信はない。
暗澹たる気持ちになって顔を見合わせる。
だが事はそんなことを考える場合ではなかった。
「──さて」
声が近づいてくる。馭者がいなくなって魔道師は馬車の中に語りかけていた。
「命を賭してまで馭者は沈黙を守った。つまりは、この馬車はそれほどの大事を為そうとしている?あの王妃の、どんな密命を帯びているのやら」
魔道師は強盗ではなかった。もっと質が悪い。
この馬車が王妃のものと知って、ルイ達を秘密裏に用向きを果たす後ろ暗い者と決めつけている。
王妃の裏での所業をある程度知っている、のか。貴族社会、あるいはそれに繋がる人々には公然の秘密なのだろうか。
だけど──。
ちらり、とルイはフィリップを見やった。
自分は王妃の悪意に満ちた面を見ていた。被害者でもある。しかし弟は母をこのように言われて良い気はしまい。
「大丈夫だ。わかっているから」
しかしフィリップはひそりとそれだけを言って、扉の隙間に顔をくっつけた。
「さあ、王妃の意を受けた者よ、聞こえているのだろう」
魔道師が声を大きく張った。
フィリップが体を離して、扉をそっと閉める。
「わざわざこんな寂れた道を人目のつかない夜を徹して走らせるなど。如何なる用向きなのか、話してもらおう」
ルイ達は沈黙を返すしかない。身分を悟られると思えば声を出すのも憚られた。
しかし、とルイは思う。
魔道師は執拗に問い質してくる。馬車の所有者である王妃が何事か企んでいるのだと決めつけて。
先程も思ったが、王妃ナディーヌはそれほど世間的に悪評をかこっているのだろうか。貴族社会の縮図でもある王立学校では、ルイはそのような噂は一度も聞いたことがない。
だが野良魔道師は確信を持っているかの如く、狙い定めている。王妃の弱み、あるいは王家の醜聞を掴みたい、必ず掴むのだというかのようだ。
確かに、今、箱の中にいる自分達が明らかになったら言い訳が効かない。ついでに、こんな夜中に都から外れた道を走らせている理由も人には決して言えないものだ。
対立する第一王子と第二王子が二人して何やら人に言えぬ企みをしていた、などと。それだけで王家を揺るがす、また後継を睨んで画策していた貴族達に混乱を与えかねない事態だ。
魔道師が知ったなら歓喜してこの事実をいかに扱うか思案するだろう。
やはり当初の通り、サヨにまず出てもらうしかない。
そう思い、サヨに目配せしたその時だった。
「何をしている!」
張りのある大きな声がかかった。若い男の声だ。
フィリップがそっと窓から覗いた。
「騎士、だな。道の向こうから来たのか。魔道師を止めている」
急いでルイとサヨも窓に貼りついた。確かに騎士の格好をした男が魔道師に近づいていた。駆け寄りざま、腰から銀に光るものを抜いた。剣だ。
躊躇いのない流れるような早さ。端から魔道師を敵と見倣した動きだった。
騎士の声に、魔道師が振り返る。
と、すぐさま空を切る魔法の矢が騎士に襲いかかった。
「あの魔道師、手慣れているな」
攻撃魔法を人に放つことに躊躇いがない。
「ルイ。防御魔法、張れるわね」
「うん、休んだから体も快復してる。馬車全体を覆えるかな」
「急いで」
「ああ」
瞬時に両手を重ねて、馬車の壁面に術を放った。中から魔法を広げ、馬車の外側まで行き渡らせる。ごく短い時間で箱全体に防御魔法を張ることに成功した。
「よし」
手応えを感じてルイは吐息をつく。
と、
「うわ、来た!」
「ぎりぎり間に合ったな」
サヨとフィリップの言葉に外を窺おうと背を伸ばして、サヨに肩を引っ張られて下げられた。
バシン、バシン!
空気の衝撃を感じた。
馬車の外側で空気の破裂音がする。全て、防御壁が弾いて無力化しているのだ。箱の中でさえ感じる空気のブレ。かなり強い攻撃だがルイの張った術は馬車を守り抜いた。
しかし、それも限りがある。守りに徹する魔法は時間で消える。
「私がやるわ。いいよねルイ」
短くサヨが言うのに頷くと、フィリップも頼む、と小さく呟いた。
ぎぎ、と軋む扉をわずかに開けて。
狭い隙間からサヨは火礫を放った。
その威力はルイもフィリップも知るところだ。
「ぅ、ぎゃああああ!」
防御魔法はともかく、まさか王妃の使いが火魔法まで繰り出して己を襲うとは思いもしてなかったのだろう。
完全に不意を衝かれた魔道師は全身を炎に包まれて絶叫した。
その恐ろしい声にルイは身をすくませた。フィリップも顔を強ばらせて窓の先に広がる光景を見つめる。
夜は明け始めたとはいえ、まだほの暗い。そんなうす闇が残る空の下、暗色の衣がオレンジの炎に燃やし尽くされる。
熱に焼かれ、うごめく様が恐ろしい。
遂に、もがく気力も失せたかのように赤く燃え上がった人影が膝をつく。
ルイは、隣でフィリップが息を飲む音を聞いた。ルイも身を固くして燃えた魔道師から目を離せない。
と、ふいに魔道師を取り巻いていた紅い焔がかき消えた。
元の暗色の長衣が黒ずんだ染みのようだ。それが力なく地に崩れ落ちる。
「──」
沈黙が車内に満ちる。
視線の先では、倒れたきり動かない魔道師に、騎士が近づいていた。
「おい。…あの男は死んだのか」
低く、フィリップが尋ねた。問いの形を取っているが、弟もルイもそうであろうと確信していた。
「ううん、死んでないよ」
だからサヨが軽い声音でそう返してきたことに驚いた。
「え?!」
「なんだと」
二人共に声をあげてサヨを見る。
「人を殺しちゃまずいでしょ、さすがに。特に騎士様の目の前で」
けろりとそんなことを言う。
「いや、だって燃えてただろ」
「お前の火礫は、魔物も簡単に焼き尽くす筈だ」
思わずと言い返した。
「燃えてたのは表面、ずるずるした服だけ。それもうわべだけ。でも派手に燃え上がったから本人恐怖でしょ。あと、炎に巻かれたから熱いし、息ができなくなって気絶したんじゃないかな」
サヨの言葉に、窓から目を凝らし魔道師の様子を見ようと試みるが遠目では全くわからない。
暗い色の塊。
溜め息を吐いてもう一度地を探したルイは、目を瞬いた。
騎士が跪いて地に崩れた魔道師に触れているところだった。
数ヵ所を確かめるように触って、顔を上げる。馬車に向いた視線に目が合ったかと感じて、ルイは急いで横を向いた。
「おい、こっちに来るぞ」
「え、──」
フィリップに言われて我に返る。
考えてみれば騎士がルイ達の元に向かってくるなど当たり前だ。
たった今の炎の攻撃、そして魔道師が馬車を襲った理由、こんな夜中に外れた道を走っていた訳。これだけでも騎士としては訊問する根拠となる。
たとえこちらが王妃の地位を盾にしようと、騎士として事の次第を明らかにする為、強引に車内をあらためることもできるのだ。
失敗した、とルイは唇を噛んだ。
この旅に出るにあたって、アンヌとメラニー、クレアには 大まかに予定を告げた。シャルロットを巻き込む手前、隠し切ることは不可能と見たからだ。
もちろん、良い顔はされなかったが、フィリップの大事な用件だと告げると、それ以上強く言ってくることはなかった。
弟の望みで自分は協力するのだと言うと、メラニーが同行を求めてきた。旅の雑事や魔力を使った連絡係として便利に使えという。
だがサヨに加えてさらに、というのはあまりにフィリップに対し礼を欠いているのでは、と感じて断った。
だが今、この状況にあって彼女がいてくれたらと強く思う。王子ではない、伝説の魔物でもない普通の奥勤めの使用人。外の者に対応するのに一番怪しくない人間。
「メラニー、連れてくれば良かったな」
小声でこぼす。
「いなくていいわよ。この馬車からルイの侍女が出てきたらますます面倒になる」
「それは、確かに」
サヨにぴしゃりと言われて、ルイは頷く他はない。初見はともかく深く調べれば簡単に奥勤めの侍女など素性は知れる。王妃の紋の打たれた馬車に第一王子の宮の者がいては、いかにも不審だった。
「ああ、だけど、だったらどうしたら──」
この状況を打開する案が思い浮かばない。混乱するルイに、それまで押し黙っていたフィリップが立ち上がった。
「俺が話す」
馬車のすぐ外から声が張られた。
「王妃殿下の御用の方々とお見受けする。私は騎士団所属の騎士、ジャック。邪な魔道師は無力化しました。差し支えなければ、馬車から出て状況をご確認いただきたい」
フィリップがゆっくりと扉を開いた。




