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約束もない突然の来訪。
歓迎されない婚約者は、東の宮で待たされると予期していた。
だが今回ばかりは直接、顔を見てお話ししなければ。
強い決意はともすれば挫けそうになる。それを抑え、ミレーユは通された客間で、緊張に身を固くしてソファに座っていた。手持ち無沙汰な両手が、膝に流れるドレスの裾を握り締める。
「どうした、珍しい」
待つ程もなく扉が開いてフィリップが現れた。かなり待つと想定していたミレーユはひどく驚いた。
まだ、心の準備ができていない。
それでも、厳しく仕込まれた作法がミレーユを無意識に立ち上がらせた。
「殿下」
流れるようなお辞儀。最上級の敬意を込めたそれをフィリップは当たり前に受け止める。
頭をあげて、様子を窺う。機嫌は悪くなさそうだ。
こくり、と喉を鳴らし婚約者に向けて口を開く。
フィリップを前にするといつだって緊張する。だが今日は告げる内容はデリケートなものなだけに、特に心に覚悟を要した。
「コレットさん、聖乙女だという話です」
「ああ、聞いている」
「今度王宮の方々が審議されるとか」
「そうだな。無事に認定されれば、国中に披露目となるだろう。それが?」
話の行方がわからないのか、不思議そうに尋ねる。ミレーユは迷わなかった。
「あの方こそ我が国を守る光。お手元に置いて愛でる御方が次代の国王になると皆様、言われています」
そこまで一息に言って、顔をあげる。
先程まで和んでいた深い蒼い瞳が、冷えた光を湛えてミレーユを射た。怯みそうになる気持ちを、胸にあてた拳をぐっと握ることで逃がした。
「フィリップ殿下がコレットさんをお召しになれば、王太子に確実に擁立される、と」
「それをお前が言うのか」
低い唸るような声に先の言葉が打ち切られた。そのことに僅かな喜びを感じるが、ミレーユはそれでも、と今一度言い立てる。
「私が言い出さねば皆が困りましょう。殿下のお立場が確実になるのは皆様方の喜び、願い。私は婚約者の立場を降ります。ですから、まずは殿下がコレットさんを」
「いい加減にしろ!」
滅多にない大声を出されて、一瞬呼吸が止まった。ぶるりと震えて身が竦む。
首を縮めて黙り込んでしまったミレーユに、やり過ぎたと感じたか。フィリップが小さく詫びた。
「大きな声を出して悪かった」
「い、え」
喉が引っ掛かってうまく話せない。ミレーユは首を振った。
見苦しい振る舞いだ。フィリップに溜め息をつかれて、びくりとまた体が震えた。それをまた見咎められて動けなくなる。
と、フィリップが眉を下げた。珍しく言葉を探すふうに視線をさ迷わせる。
「今のは、お前のせいじゃない。…うまく言えない自分に腹が立ってるんだ」
「殿下ご自身に?」
「ああ。苛立ちが言葉に出てしまった。無様だと笑ってくれていい」
「そんな、殿下を笑うなど」
「いや、自分でもおかしいと思っている。少し混乱しているんだ」
フィリップは眉をひそめて苦しげに言う。ミレーユは動揺した。
私の申し出が殿下を困らせている。
それは、許せない気がした。だが婚約辞退の意志は変わらない。聖なる乙女を妃とするのが、王位に近づく最善の道と信じている。
困惑をあらわに、フィリップが尋ねた。弱く頼りなげな細い声。
「お前は?お前の気持ちを教えてくれ」
「わたくし、は」
フィリップがミレーユの心を気にしてくれる。
声が震えた。
「うん、」
「お許しくださるなら、殿下の第二妃にしていただければ、と、」
重ねて請う言葉に、思わず卑しい願望を口にしてしまう。と、フィリップが瞬時に表情を強ばらせたのを目の当たりにして、ミレーユは絶望した。
馬鹿なことを言った。
「愚かなことを申しました。私は殿下と共にあることだけを考えておりましたので。──殿下はまず、コレットさんとの未来をお考えくださいませ」
「答えを聞きたいか」
「はい、是非とも」
返事は持ち帰らねばならない。父と、アンベール家と、第二王子擁立派の為に。
コレット・モニエを確実にこちら側に取り込むには、彼女が聖なる乙女と認定されるより早く王妃の地位を差し出すべき、と彼らの意見はまとまっていた。
ただの平民、魔力が多いだけの庶民に、己の価値を知らぬ間に雲の上の身分をぶら下げて引き入れるのだ。
ミレーユの処遇など後回しである。
フィリップの口が動いた。
「断る」
短い一言にミレーユの心が冷える。
「第二妃は望まず、と。でも、我が家の忠誠も見込めますし、今一度お考え直して、」
惨めだ。
お前はいらない、と言われたのに、家の力をちらつかせて我が身を押しつけようなんて。
言いながら、喉の奥が絞られるようになって、言葉に詰まる。
「違う」
ひくっと喉が鳴りそうになって止まる。
「お前のここまでの話の一切を断る、と言ったんだ」
「──え」
「聖なる乙女、コレット・モニエを妃にするつもりはない」
「でも、そんな。公爵閣下もそれをお望みです」
「とにかく、お前は戻ってアンベール侯爵に『フィリップ王子は不承知でした』と告げればいいんだ。わかったな」
最後には顔も見ず言い捨てられた。そのまま、フィリップは部屋を出ていってしまう。
ミレーユは呆然と客間に佇んでいた。




