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東の宮の離れで、フィリップは物思いに耽っていた。
魔物襲撃事件の捜査と後始末に追われている王宮の役人は、フィリップの元には訪れなかった。魔物の標的──被害者である王子には直後にトマ魔道士長が事情を聞いただけで、その後、改めての聴取はされていない。翌日に訪れたのは宮廷医師で、念の為、とフィリップの体を診察して帰っていった。よってフィリップは学校が再開するまで、宮でゆったりと静養している。
母は訪ねてくることはない。
この度、我が子が魔物に襲われたという衝撃、加えてその危機を救ったのが忌避してやまない憎い子、という現実に、精神が耐えられず床についているらしい。
恐らく、極度の癇性の発作でも起きたのだろう。仕える周りは大変だろうが、フィリップとしては、こちらに足を向ける余裕がないのはありがたい。
事件について、また、身近な人々について、ゆっくりと考えることができるのは幸いだった。
まずは、パーティーでの魔物の襲撃だ。
黒い針山を背中に持つ獣の魔。そして群れなす魔蝙蝠。さらには身をくねらす薄暗い蛇。それら全てが、まっすぐに自分だけを狙ってきた。
そこに作為を見るのは必然だ。
魔物がフィリップ個人を襲う理由は見出だせない。つまりは人、魔道で魔を操る者が黒幕だろう。あれ程の数、そして強い魔物を用いようとする脅威の存在。
そして敵の黒幕が人ならば、フィリップを狙う意図は明確だ。現国王である父が病篤い今、後継の自分が倒れればナーラ国が揺れる。
国を転覆せんとする何者かの陰謀か。
宰相を頂点にして、魔道庁、騎士団、政庁の面々が全力で捜査に当たっている筈だ。
今はまだ、彼らが事を明らかにするのを待つしかない。脅威の元が判明すれば、対抗策も明確になる。王族として担がれるフィリップは、その方針に従うのみだ。
現状、王居、そして王宮はじめ要人の居住地は戒厳令の如く、騎士と魔道士が武と魔術で護りを強固にしている。
東の宮にいる限り、フィリップの身の安全は確保された。
次に、兄──第一王子ルイだ。
模擬試合での振る舞いから医療処置室で交わした会話で見えてきたのは、母や周囲の者達が言い囃してきた愚かで何も為せない妾腹の孤児、などではなかった。
思慮深く力を備えつつも、それを徒にひけらかすことをしない。己の不安定な立ち位置を熟知して、他者の目にどう映るべきかを考えられる。フィリップと一つしか違わないが、冷静な判断力を持った王子だ。
育ちのせいもあるのか。
彼が用心深く慎重なのは、常に双子の妹──シャルロット王女を守ろうとするが故かもしれない。フィリップには、あの破天荒な王女は守るべきか弱い存在には見えない。だが兄妹という己には無縁の絆がそうさせるのだろう。
そんな彼は、先日の事件で新たな姿を見せた。
防御魔法と治癒魔法に長けた魔道師。その実力は、必要な場面ですぐさま術を放つことができ、術の精度も錬度も高い。
そして、ナーラ国伝説の三つの宝のうちの一つ、聖剣を獲ていた。
知識としてあったそれ。
伝説とは人々の願望であり信仰であり実存が疑われるもの。フィリップがそう断じて史書の文中でも読み流してきたモノが現実に顕れて、兄が所持している。
あの時。
ルイが何事かを為した直後、光が辺りを満たし、その内より漆黒の長刃を持つ剣が宙に顕れて。
見たこともなくその容を知ることもなかった筈だが、一目見てフィリップは悟った。
そは漆黒の剣。ひとたび力が満ちれば光を放ち闇の魔族を殲滅する。闇裂く光剣。
──すなわち、聖剣である、と。
フィリップの推測は正しかった。
その後、ブリュノ元将軍の子息が聖剣を振るうと、それまで皆を震え上がらせていた魔物を容易に殲滅した。光を吸い込んだ黒刃はその不思議の力でもって、魔を払ったのだ。
あれを兄は、いかにして手にしたのか。自分が聞いたら教えてくれるだろうか。
他の宝は、存在するのか。
確か…。
記憶を探る。
以前、読んだ書には一番最近──といっても百年も前だ──顕れた、と記録にあったのは宝玉。そして今回の聖剣。それより古い記述を漁れば残りの一つ、盾の存在も確認できるのか。
兄と会う機会を設ける、それと、国の歴史書、伝承を集めた書を読み返さねばならない。
まだ、考えるべきことはある。
兄の能力とはまた別にあの場で稀有な力を見せた者がもう一人いた。
コレット・モニエ。
一年の特待生、つまりは平民の選抜生徒だ。名前に聞き覚えがあったのは、入学後のパーティーで騒ぎを起こしたからだと、後で思い当たった。
確か、ホールに場違いな姿で現れて、生徒達から非難の視線を浴びて。シャルロット王女が救い上げた少女。
あの時は、ミレーユが奇行に走る王女に好意的な見方をしたことに意識がいった。フィリップの周囲では、第一王子とそれに連なる者達は全否定されるのが常で、彼女の考えはとても新鮮だった。
そう、ミレーユ個人に強い印象を抱いたから、騒ぎの大元のピンクの少女についてはそれきり忘れていた。
だが記憶の片隅に引っ掛かった名前の少女は、ただの優秀な生徒ではなかった。
一瞬で、魔物の群れを消滅させた規格外の魔力。さらには、ホールに出現した魔物が現れる風の渦巻きを一人だけで抑え込んだ。しかも増えた渦巻きも現れる魔も併せて制し、遂には全てを滅して生徒達の怪我まで治癒してのけた。
尋常ではない。
フィリップは幼少期に魔力の開花が上手くいかず苦しんだ。そんな折、師である魔道士が魔力の種や大小について様々に語った。出来の悪い生徒を励ますつもりだったのかもしれない。
師の語る、保持魔力が少なく弱い者が能力を発揮する話に希望を見出だした。まだ絶望していない幼かったフィリップは、強大な力に憧れもして、偉大な魔道師の力の限界までも教えてもらった。
コレット・モニエの力は、それを超えていた。
その正体は、とフィリップの知識から導きだされるのは、救国の聖なる存在。
三つの宝と同じかそれ以上にお伽噺の類いである。
しかし笑い飛ばそうとして、フィリップは静かに唇を引き結んだ。
パーティーで見た圧倒的な力に、他の答えが見つからない。しかも、聖剣を獲たルイと共闘していた。
聖剣は、三つの宝は、聖なる乙女と共に国を闇から救うのだ。
まさについ先日起きたこと。
ということはやはり。
トマ魔道士長も同じ結論に至っている。事件の翌日には、少女の元に使者が赴いたと聞いた。ならばほぼ決まりだ。
王宮は、宰相はどう判断するのか。存在が奇跡と確定した場合、どこまで世間に明らかにするのか、
全ては休み明けにわかる。
既にあの少女は王宮に保護されると決まった。身柄がしかるべきところに移されているかもしれない。扱いは丁重に、慎重に。
コレット・モニエは、国の大事な守り神になるのだから。
そして。
ミレーユだ。
名を意識に上らせると、喉がかっと熱くなった。
本当は真っ先に考えたかったのかもしれない。だが始めに思い浮かべたら、気持ちが落ち着かなくなる。だからわざと後回しにした。それでもずっと胸の一部を占めて退かない存在。
新年パーティーの後から、変だ。
あの事件の別れ際、こちらを見上げた潤んだ茶色の瞳が頭から離れない。
待て。待て待て。
パーティーでは魔物を前にして、己の身の安全を優先しつつも、婚約者の彼女も背に庇い守りきった。二人で逃げる際も結婚前の男女として不埒な接触はしていない。魔が至近に迫って多少は怖い思いもさせたが、ミレーユは感謝の言葉を述べた。大丈夫だ。
今のところ問題はない。
ない筈だ。
うん、と言い聞かせるように頷いて、眉をひそめた。
何に一生懸命になっているのか、自分が少しわからなくなった。
と、
「失礼します」
近侍の侍女が部屋の外から声をかけてきた。
「なんだ」
「アンベール家のミレーユ様がおいでです」
「──」
束の間、動けなかった。
「フィリップ殿下?」
「ああ、いや。客間に通してくれ。すぐにそちらに向かう」
先程まで心のうちを占めていた存在が訪れたのだ。まるで顔を見たいという己の心を見透かされた気がして慌て、無理やり平静を装う。
しかし、珍しいこともあるものだ。
浮き立つ心とは別に気づく。
ミレーユがこの宮を訪ねるのは月に一度の定期訪問のみ。幼少から決まった間隔は、政略による婚約故の決まりごと。王立学校に入学してからはクラスも一緒で日常的に言葉を交わすようになった。急ぎの話も日々の会話で事足りる。故に彼女の宮邸訪問の頻度は変わらぬまま。
このような予定外の訪れは、稀有な出来事だった。