207 襲撃
ブォン!とホールの入り口で突然、風が巻き起こった。
ごく狭い空間で竜巻のような旋風のような強い空気の渦が。
「きゃあ!」
「うわっ」
生徒達が驚き、混乱の中で叫んだ。
風の渦の中から出現したのは、黒いモノ。異形を認めて、ホールは一転静まり返った。
宙空に這い出てきたそれは、人の三倍以上もある、真っ黒い毛に長い針を背中にびっしりと備えた魔物だった。
束の間、ルイは呆然とした。
嫌な気配は王妃の手の者か、フォス公爵の差配か。何にせよ人の手によるものと思っていたのだ。だって警備兵の欠落など、人為的な仕業ではないか。
何故、この状況で魔物が出てくるのか。
そう思ったのは、しかし一瞬。
魔物を目で捉え、さらに全身で今の状況を把握する。渦巻く風の中から地に降り立つ魔は、巨大な熊の如き姿で、その背に山嵐のような長く鋭い針が生えている。
生徒達は、眼前にある信じがたい光景に凍りついたように動かない。
ある意味、幸いだった。彼らがパニックになると収拾がつかない。恐ろしさで声も出せないのだろうが、逆にいつ何時、恐怖に駆られて騒ぎ出すか。生徒達の群衆心理による混乱が起きたらと思うと怖い。
いざとなったら、シャルロットだけを守り抜く。ルイは己の優先すべきものを今一度肝に命じた。
全生徒が息を飲んで見つめる中、魔物は太い足を踏み出した。背中を丸め四つ足の魔は、恐らく駆けたら早い。
と、だん!と魔物は床を蹴った。
恐怖がホールに満ちて、ついに沈黙が壊れる。
「いやあ!」
「うわあああ!」
悲鳴や叫び声をあげて逃げ惑う生徒達。周章てて走って転ぶ者、押し合い圧し合いして、誰かの下敷きになる者。混乱が生まれて怪我をしたのか呻き声も混じって阿鼻叫喚だ。
だが喚く彼らに目もくれず、魔物は迷わず一点を狙っていた。生徒達が一斉に逃げて、避けるように壁際に張りついて固まった為、ホールの真ん中はがら空きだ。
黒い小山のような体が目指すのは会場の中心にある、第二王子フィリップ。
彼は青ざめた顔で腰の宝剣の柄を握り、魔物を睨みつけていた。
まっすぐ、獲物に一目散に襲いかかる黒い魔。
「危ない!」
咄嗟に動いたのはシャルロットだった。ドレスの裾を蹴飛ばし、フィリップと魔物の間に滑り込む。駆け寄る途中、近くにあった燭台を掴んで、火のついたままのそれを目の前の魔物に叩きつけた。
「ギィアァー!」
潰れたような濁った叫び声を上げて魔物が離れる。硬い床でのたうつ姿は、しかし大してダメージを負ったようにはみえない。
「逃げて!」
シャルロットが振り向かずに叫ぶと、フィリップは宝剣を構えたまま傍らのミレーユの肩を抱きかかえて後ろに退いた。その周りを、遅れてまろびでた警備の兵が固める。
シャルロットは丸腰のまま、魔物から目を反らさず睨み付けた。
──シャル以外、まともに魔物と対峙していない。
まるで、差し出された生け贄のようなシャルロットの姿に、ルイは息を飲んだ。
その時、風の渦巻の中からバサバサと羽音を立てて蝙蝠が現れた。一羽、二羽、…後から後から群れをなして翔んで、びっしりと天井を覆う。一つ目の異形。忌まわしい姿に、壁に幾重にも貼りつく生徒達は皆、声を失った。
彼らの中には魔道を学んでいる者も多数いた。
だが所詮机上の学び。幾重にも保護され、無害な魔物を見た者も数える程。
魔物は書物の上でしか知らない彼らには、
敵意を顕にした怪物のような魔、群れなす不気味な蝙蝠に立ち向かおうとする者はいなかった。
「あ…」
しかし、ルイには見覚えがあった。
かつてサヨと夜の学校近くで遭遇した、夜闇の中で飛びながら火礫を放つ魔物。数が多いが故に、サヨですら手こずっていた魔蝙蝠。群れのほとんどはその種類だ。
ただ、真ん中に一回り大きな個体がいた。他の蝙蝠が濃い灰色であるのに、一匹だけ赤黒く、一際禍々しい。群れの個体と同じ種なのか攻撃も一緒なのか、ルイには判別つかなかった。
群れの魔蝙蝠は、一つしかない目で仁王立ちのシャルロットを捉えた。
魔物を前にして揺るぎもしない姿に、魔の蝙蝠の標的が定まった。かっ、と口を開いた。
炎の礫が目掛けて次々と撃たれる。
「シャル!」
ルイは両手を突き出し、シャルロットを守る為に防御魔法を放った。
「シャル様!」
同時に、大音声が聞こえて広い背中がシャルロットを抱え込んだ。
飛び込んできたマクシムの身体が、跳ねる赤みがかかった金髪を覆い隠す。
魔蝙蝠の火礫は、過たずシャルロットを庇うマクシムを襲い。その背を燃やす手前で、壁にぶち当たったかのように地に落ちた。じゅっ、と床が焦げる音がする。
間に合った──。
防御魔法の効果にほっ、と胸を撫で下ろしたルイの耳を嫌な振動音が震わせた。
見上げると、赤黒い蝙蝠が前に出ていた。他と同じ一つ目が飛び出てぎらぎらと光っている。
かっと開いた口の中は体より赤い。血のようだ。その大きく開いた口から何か超音波のような空気の波が発せられているのだ。
ルイは咄嗟にホールの奥、フィリップの周りに強力な防御壁を張った。次いで自身にも軽く術をかける。
間一髪だった。
瞬間、ホール全体が小刻みに震え、吊り下がったシャンデリアが揺れる。あちこちに据えられた調度品がひび割れ、クロスが裂かれた。
「いやっ」
「うわあぁ!血がっ」
「服が切れた!」
振動で生まれる空気の刃。それがホールを四方に走って、壁に逃げた生徒の幾人かを切り裂いたのだ。
ルイが最初に張った防御魔法の膜、シャルロットとマクシムを守る魔法も振動で薄く剥がれ、割れる寸前だ。
「うわ、」
気づいたシャルロットが首を竦める。
今一度右手を振って術をかけようとしたルイは、しかし目を灼かれ動きを止めた。
白い、眩いばかりの光が世界を染める。
さらにばしん、と閃光が走った。
「シャル様に、何するのよ!!」
少女の声が、ホールに響き渡った。




