198 召集
「休室」
ルイは告げられた言葉を呆然と繰り返した。
「うん、しばらくそういうことになりそう」
呑み込みの悪い生徒に、ゾエは怒るでもなく頷いた。
ゾエの城、ルイが休み時間や放課後に助手として通う学校の医療処置室を無期限で休室にするという。理由は、治癒師であるゾエが王宮に召し出されて長期不在になる為である。
国王アランの病が篤く、魔道を扱う医療に明るい者が求められたのだ。学校からは魔法学の主任教師のジェロームとゾエが召集された。
「なんで、そんな」
「ごめん。半分、志願したんだ」
学校で特に魔法に秀でた二人が期間限定とはいえいなくなるなんて。
覚えず問い詰める口調になったが、返ってきたのは意外なものだった。
「どうしてですか」
「正直、この処置室に来る患者は緊急性が少ない。もちろん校内の事故で大怪我をしたりする生徒もいないわけじゃないけれど、数は多くない」
「──」
軽い目眩。足首を挫いた。気が遠くなった。少し頭痛がする。体が熱っぽい。
種々症状はあれど、一刻を争うレベルの怪我や病は実は少なかった。当たり前だ。貴族の子女は、わずかな不調でも気にして処置室の扉を叩くことが多いのだから。
それは悪いことではない、というのがゾエの持論でもある。軽い症状のうちに対処することこそ、大きな疾患や傷害に気づくもの。これぐらい、と思わず気軽に処置室を訪れて欲しいというのが彼女の偽らざる本心だ。
ただそれは平素の話となる。
処置室を訪れる生徒や教師は、万一の場合は、多くが個人で医者や治癒師を呼べる。寮に入っている平民の生徒でも、管理人に訴えれば、王居の貴族を顧客にしている腕の良い医者に診てもらえた。
ゾエが不在でも王立学校の生徒教職員には、最悪、他の手段があるのだ。
王都の治癒師が召集されたらそうはいかない。
ナーラ国最大の都市といえど、平民に対して医者や治癒師の数は圧倒的に少ない。対価の払える富裕層に限ったとしても、信頼できる治療を施せる宛ては限りがある。その稀少な腕の良い医療従事者が王宮に奪われたらどうなるか。
本来容易に対処できる傷病が放置される。治療先を求めて人々は外を往来し、季節性の感冒や風土病がいたずらに蔓延し、残された医療資源は疲弊し、遂には枯渇する。
──先にあるのは医療崩壊。
「王都の医者が派遣されるのを阻止する為にも、学校から人を出すってジェローム殿と決めたんだ」
「それは…わかりました。でも王宮には最高の医者や治癒魔法に優れた魔道士が揃っているんですよね。それなのに、さらに外に求めるんですか」
ゾエとジェロームが王都の民の医療事情に配慮して自ら申し出た志はわかった。だが、なればこそ疑問が起こる。
王の元には既に国一番の医者と治癒に長けた魔道士が付きっきりなのだ。さらに、と人材を求めるのは過剰な気がした。
「殿下。貴方の父上のことだよ」
「それは、そうですけど」
不満が顔に出ていたかも知れない。
ゾエが眉を厳しく引き締めた。
「勘違いしてはいけない」
「え」
「王個人を優遇しているのじゃない。国王陛下というのは国の要だ。簡単に揺らいだら国そのものが不安定になる。王宮が万全を期そうとするのは当たり前のことだよ」
「──すみません」
己の浅はかさにルイは頬が熱くなった。
「いや、私も言葉が過ぎたかもしれない。先に殿下に親子の情を持ち出しておいて、今度はこんな風に言うなんて。少し嫌らしい言い方だった」
「そんな、ゾエ先生の言われる通りだと思います。俺が考え無しでした」
視線を落として言うと、ゾエの手のひらが肩を叩いた。
乾いた感触に顔をあげる。ゾエはいつもの柔らかな笑みを浮かべていた。
「?」
「と、言うわけで、しばらく処置室は休室。でもルイ殿下が留守番がてら、簡単な診断と薬の配布をしてくれるなら助かるんだけど、な」
「俺、が?できるでしょうか」
ルイは恐る恐る尋ねた。ゾエはにっこりと微笑んだ。
「今まで私のやり方を見てきたでしょう?だからごく簡単な血止めとか、ここにある薬で改善できる体の不調には対処できる筈」
「多分、過去の記録を見れば」
そのぐらいならできそうだ。
「治癒魔法は禁止。ただ簡単な診立てをして、在庫の薬で対応できる範囲でやってくれたらいい。薬は少なめで。怪我の方はここら辺の軟膏と、この用具を消毒して使って」
テキパキと説明するゾエの勢いに圧されて、ルイは処置室の代理を引き受けることになった。
簡単な治療の真似事ならできる筈。対処できない重いものだったら、すぐに専門の医者や治癒師のところへ行くよう勧めて。
学校の方には話を通しておくから。
ゾエの後の事を考えた行き届いた配慮によって、ルイの不安は消えた。普段づかいの薬の種類や数、医療用品を確認して準備は万端に整えた。
さてしかし。
医療処置室の人格者の治癒師が王宮に派遣されて不在となり、代わりに見習いの第一王子が簡単な治療を請け負うと校内に周知されると。
日に数人は訪れていた患者は、処置室の白い扉を叩くことなく。些細な怪我や体の不調を訴える生徒の訪いは、ほぼ絶えてなくなったのである。
……忘れていた。
ゾエの言葉にその気になっていたが、そもそもルイは生徒達に距離を置かれる存在だった。
これまで処置室が賑わっていたのはゾエの人柄があればこそ。彼女がいない処置室、微妙な立場の王子が素人判断を下す部屋を、さして障りとならない怪我や不調を訴える為に訪れる必要はない。それこそ無視するか、どうにも我慢がならなければ家のかかりつけの医者に診てもらえば良い。
この考えに至った者がほとんどだったようで、処置室の患者はぱたりと途絶えた。
ルイは嘆息したが、学校にも届けを出した手前、逃げるわけにもいかない。
仕方なく誰も扉を叩かぬ処置室で、ひたすら部屋の掃除、薬棚の整理に励んでいた。部屋の隅には、物置からあふれた埃と未整理の紙束と帳面が層になって積み上げられたものがいくつも放置されていた。それも、毎日手を動かしているとあっという間に全てはあるべき場所へ収まり、処置室は綺麗に整えられた。
そうして。
一週間ほどの軽作業と大掃除が終わって、やることがなくなったルイが手持ち無沙汰に患者名簿を繰っていた夕刻。
一人の男が医療処置室の扉を叩いたのだった。




