番外 産まれるもの 喪われるもの 奪われるもの 7
アランはただ、エルザの前に立ち尽くしていた。
横たわるエルザは繰り返された術の礫によって斜めに曲がっていた。固くこわばった人形のように見える彼女を、侍女が丁寧に調えていく。わずかに力を入れて姿勢を直し、顔にかかった髪を撫でつけ、頬に手を添えて仰のける。
そうして恐る恐る近づいた医師が、固く閉じられた瞼にそっと触れて、瞳を覗き込んだ。
一礼してアランに深く頭を下げる。
「ご臨終です。…お亡くなりになりました」
「嘘だ!」
アランは大声をあげて医師の言葉をかき消そうとした。
「嘘ではございません。エルザ妃殿下は薨去されました」
だが、喚いたとて目の前の光景は変わらない。
王の惑乱に怯むことなく医師は繰り返す。
さらに否定したなら、この者はまたエルザの死を知らしめようと聞きたくない言葉を重ねてくる。その事に気づいて、アランは黙り込んだ。
次いで認めがたい現実から目を背けようとして、部屋の端に立ち尽くす魔道士長に目を留めた。いつも沈着な佇まいのジュールは長椅子の前で凍りついたように動かない。その目は友人だった男の抜け殻に向けられている。
ジュールと、この骸となった男にはすまないことをした。
ぼんやりとそんな思いが浮かんで消えた。
悔いる気持ちは確かにある。だがそれ以上に強い喪失の痛みが心を覆ってしまうから、己の浅慮で絶望に堕ちた臣下にかける言葉は探せない。
エルザが死んだ。いなくなってしまった。
この部屋で先に別れた時は、エルザは変わらぬ様子で微笑み、未来を語って希望に溢れていたというのに。
全ては無に帰した。
「こちらへ」
一国の王をいつまでも汚れた産室においておけないと判断がされたのか。アランは別室に移った。エルザから離れることに堪えられず抵抗したが、そこは強く請われ、最終的には丁重ながらも半ば力ずくで客間に引き戻された。
エルザの姿がない部屋にいると、先程起きた全てが現実とは思えなくなる。悪夢を見ただけなのではないか。そう逃避したくなるが、周りはアランが夢想の世界に逃げることを許さない。
「陛下」
一報を受けて王宮から駆けつけた宰相ロランが深々と頭を下げた。
「陛下。突然のエルザ様のご不幸、お悔やみ申し上げます」
力なく頷くのが精一杯だった。
有能なロランはとても現実的で、今起きていること、しなければならないことを眼前に突きつける。
「それで、この後はいかがいたしましょう」
「この、後?」
鸚鵡返しに問う。
アランの心あらずの様に、ロランは慎重に言葉を選んで具申した。
「エルザ様は不幸にもお隠れになられましたが、陛下のお世継ぎ、王子殿下並びに王女殿下がご誕生されたのです。正式な手続きと式典を行いませんと、」
「馬鹿な!」
アランはロランを中途で遮った。語る言葉の意味をぼんやりと理解するにつれて心が波立ち、聞いていられなかったのだ。
エルザが死んだのに、産まれた子らの手続き?式、典だと。
ロランがぼかしたそれが祝賀の式や命名の賀、祝いの宴になることは知っていた。アランとて、昨日までは先の未来にあるものと半ば思い浮かべていたのだから。
だがそれはエルザと共にあるものだった。エルザと結ばれてから想像した未来。彼女との間に子がなく、王妃に世継ぎが産まれたら。王妃の子とエルザの子とで相争う羽目になったなら。二人の妃に子ができず、王の資質を再度問われたなら。
様々に想定していたそれらは、傍らにエルザがいる上での未来だ。
エルザ亡き後の未来?そんなものは望んでいない。あってはならない。
「──陛下?」
エルザの命を貪って産まれた輩など、厭わしい。今すぐ放逐してしまいたい。
「子など知らぬ。余は関係ない。──そこの者。あの赤子をどこへなと打ち捨てよ」
ロランから目を反らして、隅に控える者に言いつける。
王命にはっとかしこまり、その内容の非道さに侍従は戸惑ったように動きを止めた。今一度確かめるかのように窺う視線に、アランは苛々と言葉を投げた。
「何をしている。早く行って命を果たせ」
侍従が一礼して慌ただしく去っていく。
その背中を見て少しだけ気が晴れて、アランは息を吐いた。エルザの死から、うまく呼吸ができないでいる。
「陛下、さすがにそれは」
「もう、何も考えたくないのだ。エルザの、妃の元に戻りたい」
亡骸が安置している寝室へと思いを馳せる。彼女の側でただじっと悲しみに暮れていたい。
だがロランはアランを放っておいてはくれなかった。眉を寄せた難しい顔のまま、低く言葉を紡ぐ。
「しかし、あのお子らは陛下のお血筋、そしてエルザ様の忘れ形見です。巷に放り出すなど…」
「フォス公爵は喜ぶのではないか?余計な因子が失せるのだからな」
「市井にあっても血統はなくなりません。逆に問題になり得ます」
珍しく食い下がるロランをアランがもて余していた時だった。
扉が大きな音を立てて開いた。
国王の周囲ではあってはならない響きを立てたそれは、闖入者がこの部屋に飛び込んだ音だった。
ついで、黒っぽい人影がアランの足元にまろびでて額づいた。
「陛下!お願いがございます」
悲鳴のような訴え。
驚いて、アランはまじまじとソレを見た。黒いドレスのその者には、見覚えがあった。
「アンヌか」
エルザの傍らに常に寄り添い、陰日向なく仕えてきた忠実な侍女。アランが顔を見せると、最低限の調えだけを終えて部屋を後にしていく行き届いた女。常に主の為に先を見越して行動する優秀な彼の者は、今、何故か必死の面持ちだった。
「お願いでございます。あのお二人、エルザ様のお子を、どうか私にお預けくださいませ」
「──」
お前もか。
アランは正直、うんざりした。
誰も彼も、あの子供達のことばかり口にする。エルザが死んだというのに、嘆き続ける猶予も許されない。
が。ふと思いつく。
「そなたに預けたら、全て任せてしまえるか」
「は…」
「余は、エルザを奪ったあの者共を目にしたくない」
「──それは」
震える声で反駁しようとしたのを、被せて押さえ込む。
「少なくとも今は」
厭わしさが全てに勝る。それがいつ終わるか、終わりが来るのかすら今はわからない。だが敢えて期限をつけてアンヌに先の希みを持たせた。全ては早くこの問題から逃れる為に。
「あの赤子をそなたが余の前から消し去ると言うなら、好きにせよ」
「お子様方のお身の上は」
「一切、考えたくないのだ」
「そんな──」
息を飲んだアンヌから、アランは目を逸らした。
「ロラン。アンヌに与える都合の良い宮はあるか」
「は。王居の南、王立図書館のさらに奥に、使われず空いている宮が一つ」
頼りになる宰相はすぐさま答えを示した。
「それは」
「王宮からは離れております。格は整っておりますが、アンヌ殿お一人で差配できる程度の規模の邸であるかと」
間違ってもアランの目に入りようがない、外れにある宮。しかし王の血を引く者が住むには充分な格は保った小さめの邸宅。
ロランはアランの意向を汲みつつ、王の子に相応しい居場所を提示した。その賢しさが今のアランを苛立たせたが、しかし彼の判断が正しいのは間違いない。
要らぬ子といえど王族なのだ。生まれてしまった以上、アランの気持ちはどうあれ粗略にできない。ならば宰相の良いように。
「では、そちらを。全て頼んで良いか」
「お任せを」
低頭するロランに頷いて、アランはアンヌに向き直った。
「あとは宰相と話すがいい。余はエルザの元に戻る」
子らの処遇に不満もあろうが、王の慈悲を幾ばくか引き出せたのだ。否やはあるまい。
これで煩わしいことは全部済んだ。
皆が頭を下げるのを一顧だにせず、アランは急く心を抱いて部屋を出た。向かうのはエルザの眠る産室。
頭にあるのは、ただ彼女だけだった。
ただエルザに寄り添って嘆いていたかった。




