番外 産まれるもの 喪われるもの 奪われるもの 3
喪われるもの
アランにとって、エルザの懐妊は喜びより戸惑いを多くもたらした。王として跡継ぎの重要性は認識して、子を成す意味も理解していた。それでも、己の身に降りかかってみれば煩わしさが先に立った。
だがエルザが己の身に宿った生命にこれ程喜んでいるのならば。それはきっと嬉しいことなのだ。
つわりで少しばかり痩せた蒼白い頬。それをほころばせて腹の子について語る彼女は、はかなくも美しい。
己とエルザの血を引くものがこの世に産まれるのなら、それは確かにアランにとっても喜びだった。
そうして、愛する妃の体調に一喜一憂するのがその先数ヵ月に及ぶ王の日課となる。
懐妊が判明してからは、王宮から離れたエルザの御座所となった宮に、魔道士達に防御魔法を強固に張らせた。さらに祈祷も絶えず行うよう指示した。
これらの大袈裟な命令に、王宮の有力者達が失笑していることは知っていた。
だがエルザには敵が多い。権勢家の後ろ楯を持つ王妃に、意図せずとも対抗する立場自体がそもそも危うい。さらに国王である自分が愛すればそれだけ、負の感情を抱く者が増える。エルザが子を産めば、貴族の大勢を占める彼らが望まない事態にさらに近づくのだ。
王宮のいずこにも潜む敵意から、エルザを護らねばならない。
万一のことを考えて、アランは魔道庁に使いを送った。
「ジュール魔道士長殿が参りました」
「──通せ」
執務室で待つアランに侍従が告げた。
魔道庁の仕事で多忙であろうが、王の呼び出しには即座に応じたらしい。早い訪れに、アランは満足する。
「ジュール。待っていたぞ」
「は」
畏まる白髪の魔道士長を手招きして、さっそくに願いを告げる。
「エルザが懐妊したことは存じているな」
「はい。おめでたいことで。妃殿下がお健やかにご出産されるよう、お祈りしております」
「うん、そのことなのだがな」
ジュールの言葉はアランにとっては好都合だった。用件を話しやすい。
「出産の際には、そなたもエルザの宮で備えていて欲しいのだ」
「──」
ジュールは意表をつかれたようだった。目を見開き、ぱちぱちと瞬きをする。それから王の御前であることを思い出したか、頭を低くして応えた。
「そちらについては、専門の医者や治癒師がつかれると聞いておりますが」
「そうだ。だがそれでも不測の出来事ということがある。余は、誰よりも力のあるお前にもすぐ側で待機していて欲しいのだ」
医師を信用していないわけではない。だが非常の際には非常の力を持つものが必要なのだ。そして、それを行使する意思の持ち主が。
この男は使える。
魔道庁のトップの実力であるばかりではなく、歴代の士長の中でも屈指の魔力の使い手だ。そして……禁忌の下法であろうとも必要と判じたなら躊躇いなくやり遂げる。さらに秘匿に対する口の固さも確かなのは、身をもって知っていた。
──それだけではない。
ある時、ジュールは己が友人について語ったのだ。何かの会話で、アランがジュールの膨大な魔力に感嘆した時だったと思う。
「お褒めに預かり光栄です。私にはこれしか才がありませんので、有効利用に励んでおります」
即位式以降、アランとジュールの間には主従としての礼儀はあれど、秘密を共有した一種の共犯者めいた近しさが生まれていた。
「よく言う。お前ほどに魔力があればそれだけで特別であろう」
「まあ──。ですが我が友人は、身の内に私に近いほどの膨大な魔力を保持しているのです」
「ほう。それは初耳だ」
ジュールに互する魔力の持ち主ならば、魔道士としても優秀だろう。なのにこれまで存在を聞いたこともない。
アランの疑問にジュールは苦笑を浮かべた。
「陛下がご存じないのは当然です。その者ときたら、呪術語が大の苦手で、魔術はほぼ初級止まり、せっかくの魔力を無駄に遊ばせておるのです」
「なんと。魔道庁としては貴重な人材であろうに。術を習得できなければ宝の持ち腐れか。ではその者は、何をしているのだ」
「知識欲だけはありますので、王立図書館に籠って書と戯れております」
「ふむ、魔道士として立つ気は無しか」
「これっぽっちもないようです。ただ書から得た知識が彼の中に蓄積されておりますので、宰相殿などは生き字引きとして重宝しております」
「頭の方は優秀なようだな。しかし、何とももったいない話だ」
己が身と引き比べて、ついその恵まれた魔力を使わないことに言及してしまう。
とはいえ、こんな話をアランができるのもエルザを得て気持ちが落ち着いたが故。さらに国王の魔力の実情を知るジュールが相手だからだ。
そんなアランの心情を察したか。
ジュールが軽口のように語ったのだ。
「はい。ですから、私が拝借するのですよ」
「拝借?」
「彼の、アルノーの魔力を借りて、」
「ジュールがさらに魔力を得るというのか」
それはとんでもない力を持つのではないか。
アランがぱっと思い至った考えに、ジュールは首を振った。
「私が得るのではありません。他者に分け与えるのです。例えば、何かで体力を著しく失った者に魔力を与えて、命を繋ぐ」
「そんなことが、できるのか」
「もちろん、一時しのぎにしかなりません。当人の生命力による回復を待つ、その時間稼ぎです」
「そう、か」
「ただ、その時間稼ぎが命を救う重要な要素になることがある。そして、普通は魔力でそんなことはできません。通常程度の魔力を与えたところで、命を繋ぎ止める程にはならない。また人に分け与えた当人も生命が尽きてしまう」
ですが、とジュールは秘密めかして言う。
「アレの遊ばせている魔力は人並み外れておりまして」
「そうなのか」
つりこまれて、アランは身を乗り出した。
「ええ。一度、魔道庁の者が大怪我をした際に思いついて試したのです。その時は、かなり慎重に術を施しました」
「──それで」
「見事、半日程保たせることができまして、その間に治癒師を呼んで完治にこぎ着けました」
「すごいな。それで、そのアルノーとやらは?」
「魔力を移している間は昏倒しております。目覚めた後半日はベッドの住人でした」
「それだけで済んだのか」
「はい」
人の命を繋ぐ程の魔力を受け渡して、半日寝込むだけで済むとは。アルノーという者の底知れぬ力が窺い知れる。
「…凄まじいな」
正直な感想だった。奇跡のような話だ。
「あくまで、非常の折りの手段です。それきり借りてはおりません」
「そうか。稀有なことだな」
その時はそれで終わった。
しかしその話は、アランの心に強い印象を残した。
そして今、アランは魔力で命を繋ぎ止める男の存在を思い出していた。
人払いをして、さらに近くに寄せて言葉をかける。
「──アルノーを?」
「ああ。万一の為に。頼めるか」
意外な願いに目を見開いたジュールに、躊躇いつつも願いを口にした。
「妃殿下のご出産で、もしもの事態に備えよ、と」
「そうだ。エルザには万全を期したいのだ」
ジュールには、己のエルザへ傾ける気持ちも全て知られている。故にアランが抱く不安や懸念も正しく伝わった。
ジュールはしばし沈黙して、わずかに首を傾けた。
「それはできますが、よろしいのでしょうか」
「?なんだ、何か問題でも?」
「は。我が友は確かに魔力を剰しておりますが、老いに差し掛かった美しくもない男にございます」
「うん?」
話の行方が見えなくて、アランは首を傾げた。
「仮にも妃殿下のお身体に、その中老男の魔力を注ぎ込んでも良いものでしょうか」
「……」
アランは黙り込んだ。
改めて考えるとあまり愉快なものではなかった。美しく清廉なエルザに、優れたとはいえ赤の他人の男の一部を入れる、というのは必要であっても彼女の身を汚すかのようだ。
勝手な感情だが、自身で提案したというのに耐え難い。
応えられずにいると、取り成すようにジュールが告げる。
「もちろん、そのような事態にはならないと思っております」
「うむ、そうだな、医師も産婆も経過は順調というし。何かあっても彼らで事足りよう。──お前の存在は最後の備えだ」
魔道士長の言葉を聞くうちに、アランは自分の不安がただの杞憂であったと思えてきた。
「は。妃殿下のご無事の出産を祈っております」
「魔道士長の祈りは効き目がありそうだ。緊急の用件がなければ、やはり宮邸に控えててくれ」
「は。ただ、私の魔法は」
「わかっている。蘇りはできぬ、だろう」
魔道士長ジュール。この男の高い魔力に感嘆する度にくどい程繰り返されてきた彼の限界。
元々、治癒魔法には長けていない。この点において専門とする治癒師は既にエルザの元についている。強い魔力を剰す者から魔力を借り受けても不可能はある。
死者は蘇らせることはできない。
つまり、エルザの子が死産でも蘇生はできないということだ。それは仕方ない。もしもの際は、エルザの悲しみは自分が癒してみせよう。
アランはこの時、なんの根拠もなくそう考えていた。




