1 男と声
ふわりとした柔らかい空気。目蓋の裏に透ける白に男の覚醒が始まる。
朝日か?
考えて、部屋のベッドは窓際ではなかったことに思い至る。眩しい光の中、目を開けると、そこは見慣れた自室ではなくただただ白い光に包まれた空間だった。
呆然としていると低い声が頭上から降ってきた。
「人の子よ」
慌てて周囲を見回し立ち上がる。たった今まで寝ていたはずのベッドも消え、何もない白い場所に立つ。
「残念ながら、そなたの今生での命は潰えた」
そして、声だけがする。ぽつんと立つ男以外に何もない場に、歳を重ねた低い男の言葉のみが落ちてくる。
「だが安心するがよい。次の生が待っておる。セイイノの世界にそなたは生まれ変わるのだ」
厳かと言っても良い声は、しかしとんでもないことを語り出す。
「は?なんだそれは」
死んだ?俺が!
馬鹿な。どうして。
ようやく声の内容が頭で理解されて、混乱した。
いかにも死後の世界のように真っ白なただ広い光の中で立ち尽くす。それでもこの状況も言われたことも現実として受け止められない。
何もない高い空に向けて叫んだ。
「おかしいだろ!昨日までぴんぴんしてたじゃないか。なんで死ぬんだよ」
「そう言われてもの。何と言われようと、そなたは死んだ。その事実は動かせぬ」
惚けたような白々しさで繰り返す声は、神のように傲然と言い放つ。
いや、本当に神様なのかもしれない。
男の気持ちを置いてけぼりにして声は続く。
「致し方ないことだ。だが幸いにもそなたには使命がある。そなたはセイイノの…」
死という重い事実をあっさりと流して語るのは、さっきも聞いたような奇妙な言葉。
「仕方ないとか言って何なんだよ。使命?セイイノってなんだよ。わけのわからないこと言うな」
苛々と返すと、声は意表を突かれたようだった。
「何を言っている。そなたも知っている聖なる祈りと三つの宝、つまりセイイノの…」
「いや、言われても意味不明なんだけど」
「こちらに来る過程で記憶が飛んだのか?いや、待てよ」
声を潜めもせず随分と失礼で勝手なことを言う。しかし。
「ん?いや待て、あれ…?」
急に焦ったような戸惑いに満ちた声音。
沈黙。
続く、何故か慌てたような気配。全て音のみで感じ取れる話だ。
それから、
「ちょっと、待っててくれ!」
叫ぶような大声が投げられたのを最後に、男はただ一人放り出された。
白い、だけの空間に。
上も下もない、地面もないような場所に佇んでいる不思議。それでも男がそろそろと膝を曲げると普通に腰を下ろせた。改めて自分の体を見下ろせば、寝る前に着ていたシャツにスウェットパンツだ。非現実な状況の中、元の日常に繋がる姿に男は少しだけほっとした。
膝を抱え込み考える。
本当に死んだんだろうか。
なんで。
じゃあ、俺は今、本当はどうなっているんだろう。
ぎゅっと小さく三角に座って頭を巡らす。
さっきの声。
あれはこの世界の神ってものなんだろうか。死んだとか次のなんたらとか、神様(仮)はいろいろ言ってたっけ。
……あの神様(仮)の言うことは正しいのだろうか。
突きつけられた死と中途半端で非現実な今について、ぼんやりと考えていると、先程の神様(仮)の声が戻ってきた。
「すまぬ、待たせたの」
こほん、と咳払いのような前振りの後、おもむろに告げる。
「ちょっとした手違いがあったようじゃ」
「手違い」
一瞬、この一連の出来事全てがなかったことになって元の堅実な社会人生活に復帰できると思ったが。
「しかし死んだのは事実じゃ。もはや変えられぬ」
あっさりと男の希望は打ち砕かれた。
やっぱり死んだのか。
「一応、そなたについて調べたのじゃ。死因は、突然の心筋梗塞」
驚きに目を見開いた。
「と言っても信じぬであろう。隣の部屋からのガス漏れによる一酸化炭素中毒だそうな」
あー。なるほど。不慮の事故死か。
死因がはっきりしたことにより、人生が完全に終わったという実感がわいてきて男は地味に打ちのめされた。顔も覚えていないお隣さんを憎む気力も起きない。
がくりとわかりやすく肩を落とした男に、神様(仮)は言う。
「もちろん、嘆かわしいことじゃ。残念なことじゃ。しかし、それほど思い残すようなこともあるまい。省みればそなたは伴侶もなく生涯の友というべき存在もなく孤独であった。公に至っては世で大きなことを成し遂げようとしていたのでもない。極々平凡な生と言えよう」
余計なお世話だ。
肩が落ちたままの反論は、口の中で小さく弱い。
「故にの、良い機会であろう。そなたには次の生が用意されておる。しかも身分は王子じゃ。今生とはかけ離れた華やかな世界だぞ」
「王子」
「そうじゃ。ゲームの世界ゆえにな、国王が最大の権力者の正真正銘の王国の王子じゃ」
ゲームの世界。
なんだそれは。
男は笑い飛ばそうとしたが、死んだ上に神様(仮)と話しているという異常の極みにあるから、詳しく聞かずにはいられない。荒唐無稽と打ち捨てるのか、これからの己に降りかかる現実を知る手がかりとするか。考えるまでもない。
架空であるゲームの世界が実在するのか、現実の人の転生の流れにあるのだろうか。
いろいろと突っ込みや疑問が浮かぶが、取り敢えずは話を聞く。
「人気の乙女ゲームじゃぞ」
神様(仮)が随分と俗っぽいことを言う。
俺の生きていた世界で販売されていた乙女ゲーム、『聖なる祈りと三つの宝』。略してセイイノというものらしい。
知らない。
そもそも、俺はゲームをしない。反射神経も架空空間での根気強さも欠けていたのか、ちょっとやっただけでやめていた。珍しいかもしれないが他の娯楽で充分だったのだ。
乙女ゲームという存在も好きなアイドルがハマっているというので聞いたくらいだ。
「そなたが生まれ変わるのは、主人公と関わる王子だぞ」
そう御大層に言われても、興味も関心も持てなかった。これまで懸命に努力して人様に迷惑をかけずに自立していた過去の生活の方が余程未練があった。普通に地味な日本人を、平均寿命くらいまで全うしたかった。
だがそんな男の考えは神様(仮)には通用しなかった。
「悪いが、そなたにはもはや選択肢はないのだ。既にセイイノの世界で第一王子として生を享けることは決定されておる。すぐさまそなたにはあちらの世界に行ってもらわねば」
「だったら、ここで俺にぐだぐた言ってないで、さっさとゲームの世界とやらに転生させればいいじゃないか」
「手違いがあったと言ったであろう。故にそなたに少しだけ協力してもらわねばならなくなったのだ」
神様(仮)によると、手違いがなければ生まれ変わりの人間を放置してもゲームの進捗に不具合が生じることはない。ゲームの展開は自然に滞りなく成される。それが不備が起きてゲームが成立しないリスクができたというのだ。
あるべき事象がわずかな齟齬によって歪み、一つの世界が崩壊する。ただ、その手違いとやらを神様(仮)は決して明かそうとしなかった。
「そなたが生を享けるのはゲーム開始よりはるかに前。しかしゲームの全てのストーリーはそなたが主人公と出会わなくては始まらない」
神様(仮)の要請はつまり、ゲームの大まかなルートに沿った生き方をしてほしいということだった。
「それって生まれた時からシナリオ通りに生きろってことか?そんなの何が楽しいんだよ」
男が疑問をぶつけると、神様(仮)は言う。
シナリオ通りというより、最低限王子として生存してゲーム開始、つまりは主人公と出会うイベントを起こせばよい。
「生まれ落ちてから、そなたが健やかに育っていけば達成できることだ」
生きるだけ。
それならば、簡単かもしれない。
男の心のハードルが下がったのを感じたのか神様(仮)は力強く畳み掛けてきた。
「ゲームがルートに沿って動き始めたら好きにして構わん。ストーリーと関わりをなくしても良い」
──そうだ。
神様(仮)は、さらに名案を思いついたかのように声を弾ませ言った。
「ゲームを知らぬと言ったな。ならばセイイノの設定を記した書をそなたに授けよう。これを指標にしてうまく立ち回れば良い。そうだ、それが良い」
話は終わりといったところか。口を挟む隙もない。
「早速用意しよう。そなたは何も心配はいらぬ」
愉しげにすら感じる声音で締めくくる。
それを最後に、男の意識は失われた。




