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床に座り込んだジョエルの前に立つ長身。
暗幕が引かれていても遮きれていない光りが差し込み、その姿を明らかにしていた。
騎士見習いマクシム。
ゲームではよく知る、ずっと近づこうとして叶わずにいた攻略対象者。
三年に在籍するマクシムが、怒りを湛えて立っていた。
前世のキャラクターとほぼ同じ茶色の髪と同色の瞳。パーティーの折に見た時は、礼儀を保って女生徒をエスコートしていた。まっすぐな正義漢で気持ちの良い性格の。
こんな、暗い陰りを眼に宿すような人間ではなかった。
だが。
「王女殿下に不埒な企みを抱いたな」
低い、うちに籠る感情を押し殺した声が、ジョエルを質した。それは関係のないコレットでさえ戦慄する程の敵意に満ちていた。
だが、
「なんのことやら。いきなり襲いかかってきて、そんな言いがかりをつけるとは。考え違いも甚だしい」
床から見上げる情けない様で尚、ジョエルは臆面もなく言ってのけた。マクシムは動じなかった。
「シャルロット殿下とお前の間で何があったかは、俺も聞いている。噂は学校中に広がっているからな。忠告してくれた同級生は、お前が不遜な悪事を謀るのではと予測していた。だから、俺はお前を監視していた」
「──っ」
「角を曲がる直前、お前の声を聞いた。ひどく、不愉快な妄想を口にしたな」
マクシムの声は怒りを押さえつけ過ぎたか、平坦になった。
コレットは、ジョエルの言葉を思い出した。
あの王女、早く泣かしてやりたい。
この場にいる皆が思い返して、空気が凍りつく。
言い逃れが敵わなくなったジョエルは、しかしこの期に及んで嗤った。嫌な、嘲るようなものだった。
「栄誉あるブリュノ将軍のご子息、最年少騎士の名誉が嘱望されているマクシム殿。貴方程の方があんな粗暴な王女に尻尾を振るなどどうかと思うのですが」
マクシムに剣であろうと拳であろうと、この学校の生徒が太刀打ち出来ないのは衆知の事実だ。その彼の怒りを正面から浴びながら、ジョエルはシャルロットを嘲弄してのけた。
「粗暴な王女というのがどなたかは知らん。だがシャルロット殿下を剣の遣い手にお育てしたのは父と俺なんだ。あの方を侮辱する者、害を為す者は俺の敵だ」
強く言い放つマクシムは揺るぎない。
ジョエルを見据える姿に思わず見惚れて、そこでコレットは我に返った。
悪意の塊に対して堂々と立ちはだかるマクシムは姫を守る忠実な騎士そのものだ。素晴らしい。
だが何だか面白くない。私だってシャル様を守ろうとずっと見張っていたのに。
妙な対抗心がもたげて、衝動がコレットを突き動かす。
教室に飛び込むと、大声で叫んだ。
「私だって許さないわ!」
束の間、緊迫した空気がぶれた。
いきなり現れたコレットを、ジョエルが眉を下げて胡乱に見つめる。
「──誰だ、お前は」
「コレット・モニエよ」
「聞かぬ家名だ。お前ら知ってるか」
左右を見渡しジョエルが問う。しかし思い当たらないのか他の四人も首を傾げた。
当然だ。
「私は庶民よ。貴族じゃない」
「あ、こいつ!ダンスパーティーの時にリリアン嬢のドレスを着てた女だ」
「本当だ!あの花のドレスを恥ずかしげもなく着て会場に乗り込んできた…」
「騒ぎになったあれか」
ジョエルが思い出したように呟く。
「結局、王女が引き取って踊ったっけ」
右の生徒がつけ加える。
「ああ。つまりはあの男女を付け上がらせている馬鹿女の一人か」
唇を歪めて、ジョエルは吐き捨てた。
聖なる乙女(予定)といえども、認定されてないただの平民では、ジョエルのような権威主義、血筋でのみ人の価値を量る者には響かない。むしろシャルロットをあげつらう材料が出来たと言わんばかりに、悪し様に罵ってきた。
「なるほど。粗暴な女にお似合いの下賎な平民女というわけだ」
「なんですって!」
自分が庶民で、貴族から見れば下層の人間だというのはわかる。が、コレットに絡めてシャルロットまで貶めるなんて。
かっと頭に血がのぼった。思わず、と掴みかかろうとした時。コレットより素早く長身が動いた。
しゅっ、と唸る風が起きて、ジョエルの顎の下にマクシムの拳が当たっていた。
「これ以上、王女殿下を愚弄するなら、二度と口が利けぬようにするが?」
「…っ」
低い、腹の底から出たであろう威嚇。
ジョエルの寸前までよく回っていた舌が、凍りついたように動かなくなった。
マクシムの拳は、目を見開き固まったジョエルの首もとに滑って襟元をぐっと掴んだ。そのまま足が床から離れるまで持ち上げると、無造作に顔を近づけた。
「いいか。今後、王女殿下に対してお前が何か企むなら、俺はどこまででも追いかけて、物理的に消してやる」
「ひっ」
「身分だ家だとか関係ない。殿下を害する者は潰す。それだけだ」
至近で目を合わせゆっくりと言い聞かせるように告げると、マクシムは手を放した。どさりと床にジョエルが投げ出される。
「わかったか」
へたり込んだ背中がかすかに動いた。頷いた、と認めて、マクシムは周りで様子を伺っていた男子生徒達に目配せする。
冷たい視線はさっさと連れていけ、と言わんばかりだった。
「おい、もう行こうぜ」
「大丈夫か」
仲間達は心配そうに声をかけながら、この場からジョエルを連れ去ろうとする。
このまま消えてくれれば、シャルロットの視界に入らなくなればそれでいい。
だけど。
コレットの気持ちは晴れなかった。先の宣言も軽くあしらわれた。このまま黙って行かせるのは業腹だった。
力の抜けたジョエルを二人の仲間が両側で肩を貸して連れていく。そんな彼らの足を、コレットは狙った。体の横で、かすかに右手を翻す。
ぱしん、と軽い破裂音がした。
左右の仲間が各々足をもつれさせ姿勢を崩す。組んだ肩が外れて、ジョエルがよろけた。何とか足を踏ん張った瞬間、コレットは腰に軽い衝撃をお見舞いした。
「ぐあっ」
無様にジョエルは床に突っ伏した。
慌てた残りの二人が、屈みこんで助け起こす。小さく悪態をつくジョエルを抱えて、わずかに首を傾げる。それでも、この場から退散することを優先したらしい。
二人がかりでジョエルを連れ、後を仲間が追って。バタバタと、不恰好ながらも教室を出ていく。
いい気味。
情けない姿に少しだけ溜飲が下がる。
心持ち胸を張って見送ったコレットに、マクシムが声をかけてきた。
「──今のは」
「さあ?」
「君か。魔法が得意なのだな」
「知らないわ」
ふいと横を向いた。しかしマクシムはゆっくりと怒る風でもなく言った。
「周りに、魔法に長けた人達がいる。だから隠しても無駄だ」
「人に言わない?」
「言うわけがない。あいつらも何が起きたかわかってないだろう」
きっぱりと言う。それはありがたいが、随分と落ち着いている。少しだけ気に障る。
「ねえ!」
「なんだ」
「どうして、あのまま許しちゃったの」
「全てを無かったことにする為だ。殿下の名が人の口の端に上らぬよう。だから、その、」
「コレット。コレット・モニエよ」
「コレット嬢。シャルロット殿下を思うなら、この事は内密に。口外しないと約束してくれ」
全ては、シャルロットの為に。
「それは、わかったわ。でも、もう一つ教えて。どうしてあのタイミングで現れたの。偶然って言うには都合が良すぎる…」
マクシムがふっと笑った。
「勘が良い。これも秘密にして欲しいが。さっきいた生徒達。首謀者のジョエル以外の四人が、昨日のうちに俺に計画を知らせてきた」
「え」
「仲間内で、家の付き合いもあるから表立っては反対できないからってな」
「じゃあ、全部知ってて」
「ジョエル以外は、俺が現れることも力ずくで止められることも承知だった」
「…貴族って大変」
「まあな。納得してくれたか?」
暴走したジョエルを止められず、だが蛮行をさせてはならないと考えた彼らの苦肉の策というわけか。
裏を知ってしまえばどうということもない。シャルロットの安全は最初から担保され、ジョエルは完全なピエロで空回りしていただけだった。
幸いである。
だがコレットは何となく面白くない。
蚊帳の外に置かれたのは、自分も同様だからだ。シャルロットに関われる立場にはないとわかっていて尚。
むっと無意識に唇が尖る。
そんなコレットに気づかぬまま、マクシムはちら、と天を仰いで呟いた。
「完全に遅刻だな」
三時間目の教科はとっくに始まって、半ばまで進んだ頃合いか。
「シャル様は、鍛練場に行けたのかしら」
知らぬ間に空き教室の横を通ったのだろうか。コレットは全く気づかなかった。
「──悪い」
「え、なに」
ひそりと言われて、聞き返した。
「シャルロット殿下には、今日は迂回したルートを通ってもらった」
「は、あ?」
「いつもはここを通る。でも今日は俺が言ったから、外の道を回って鍛練場に向かったと思う」
「──」
コレットの先程芽生えた面白くない気持ちが、さらに波立った。
「殿下は何もご存知ない。ただ、俺が頼んだらそちらを使っただけだ。だからコレット嬢も今日のことは忘れて、必要以上に関わらないで欲しい」
ゲーム上のシャルル王子とマクシムの関係は、幼なじみ兼稽古相手として気を許しあった友人だ。だから、この世界でも近しい間柄なのはおかしなことではない。ないが、シャルロットを守るのは自分だ、と前面に出されるのは(マクシムが意識しているかはともかく)あまり気分が良くない。
理不尽だとはわかってるけれど、妙に苛つく。
コレットの口から低い声が漏れ出た。
「シャル様には、何も知らせないで済ませるみたいだけど」
「ああ」
「貴方一人の判断で、全てを動かしてしまおうというの」
「何を言っている?」
マクシムが意味がわからない、といった風に眉をしかめた。
「当の本人は置いてけぼりで」
「はあ?俺は、ルイ様とシャルロット様のお心を乱すことは」
「全てを自分だけがわかってればいいってわけ。自信家ね。
──じゃあ、貴方が間違ったら誰が止めるの。過ちを犯したら誰がシャル様を守るの」
本当にそうなると思って口にしたわけではない。だがこの自信に満ちた男の顔を、わずかなりとも曇らせてやりたかった。
「──!そんなことは、しない」
ぶつけた悪意は、マクシムの心に罅を生じさせることに成功した。男らしい整った顔には驚きと動揺も浮かんでいて、なかなかの見ものだった。
「ちょっと思っただけですけど。私みたいな平民からすると、少し独善的にみえます」
すっきりした気分のまま、フォローと捨て台詞をまとめて言いおいて、コレットは深々と一礼した。
教室を出る背に追いかける声はなかった。




