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ミレーユは、一年の主だった女子生徒が選択しているダンスの教科の為に、ホールへ向かっていた。
常は同じ特別クラスの親しい貴族令嬢達と移動するのだが、この日はクラスに忘れ物をして一人、教室に戻っていた。余計な手間で時間を取ったミレーユは、半ば授業に間に合わないことを覚悟して廊下を歩いていた。
「──ねえ、そこの貴方」
その時、突き当たりの向こうから変な制服を着ている女子生徒、恐らく上級生が声をかけてきた。
ミレーユは緊張する。
貴族社会では階級が絶対だが、学校ではその限りではない。貴族の序列ではほぼ最上位の侯爵家のミレーユといえど年長の者には敬意を示すべき、と入学前に侍女達に教わった。一応の心積りはしていたが、これまではクラスの慣れた令嬢と一緒だったから、こんな一人きりで知らない生徒と向き合ったことはない。
固まるミレーユを他所に大股でずかずかと近づいてきた生徒は、こちらを間近で見下ろした。
背が高い。
オレンジがかった金髪を後ろで纏めただけの素っ気ない格好だが、容貌は品があり美しい。地味な制服姿であまり裕福とはいえないが、特待生とやらいう平民でもなさそうで、少しだけ緊張が解ける。貴族なら、いざとなれば家格を前面に出せば何とでもなりそうだ。
「あれえ?間違ってたらごめん。もしかして貴方、ミレーユさまかな」
じろじろとミレーユの顔を無遠慮に見つめて。上級生はそんな風に言った。
「は?」
侯爵令嬢を勝手に見知っているような者に、こんな雑に声かけされるとは。
随分と無礼な物言いに被った猫が剥がれ、反射的に強い嫌悪の声をあげかける。だが理性が勝った。
落ち着いて。
努めて表情を動かさずに大きく呼吸をする。それから目の前、少し上にある上級生の顔を見上げた。
見つめてくる藍色の瞳は、無礼な言い様を恥じた様子もない。むしろ好奇心にきらめく光を宿している。
戸惑って逸らしたミレーユの目に、額に白く反射した一筋の傷、が飛び込んできた。
オレンジの金髪、藍色の瞳。そして綺麗な顔に走る一線の痕。
まさか。
「え、あ。貴方、昔、森で会った…?」
信じられない思いが口をつく。と、目の前の生徒は破顔した。
「やっぱり!ウサギのミレーユさまだ」
その衒いのない言い方はまごうことなく。
あの森で出会った…。
そこでミレーユは大きな勘違いに気づいた。
「貴方、女の子だったの!?」
「え。ああ!そうなんだ。気づいてなかった?」
さらりと生徒は言う。
「だって、前は男の子の格好だったわ」
「うん、動きやすいからね」
騙されたという憤りは、至極当たり前のように言われて霧散した。悪びれない様子で、本人にとっては装っていたわけでも隠していたわけでもないらしい。
にこにこと笑う姿に、不思議と怒る気持ちが失せてしまった。
「呆れた。女の子はそんなこと考えないものよ。貴方、変わってるのね」
「あー。よく言われる」
肩を竦めて、しかしミレーユの失礼な言いようにも気を悪くした風もない。
それに少し安心して、顎を反らした。この時点で、上級生へ取るべき態度を綺麗さっぱり忘れていた。
「この制服もね。邸の皆で作り直したんだよ。だから、ほら!足を大きく踏み込んでも全然引っ掛からない」
生徒は聞かれてもいないのに自らの妙な造りの制服を自慢する。
それを聞き流してミレーユはふと思い出した。
そうよ。大事なことを聞かなくては。
「そうだわ。貴方、いい加減名乗りなさい。私は名前を教えたのに失礼よ」
「ああ。名前か。──私はシャルロット」
「シャルロット、さま」
侯爵令嬢ミレーユを前にして、灰色の袖に包まれた両腕を上に突き上げ軽く伸びをする。自由過ぎる態度のまま、彼女はあっさりと答えた。その名に記憶を探り、首を傾げる。
そんなご令嬢、いたかしら。
騎士見習いという線は女性ということで完全に消えた。この学校に在籍してるなら、少し型破りだが貴族の子女で間違いない筈。だけど…。
困惑するミレーユに助け船を出そうとしたのか、生徒は言葉を継いだ。
「ええとね。長いのだとシャルロット・ルイーズっていうんだ。知ってる?」
シャルロット・ルイーズ。
すっと頭が冷えた。
「──まさか。王女殿下?第一王子殿下のご令妹の」
そんな、と思った。
初めて会った時は従者のようなパンツ姿。それで樹上から降ってきたから、てっきり男の子だと思った。顔は綺麗だけど、元気な男の子。
それが今日、会ったらスカートを履いていたから、女の子なんだと知った。
でも。
息を詰めるミレーユに気づかぬように、彼──彼女は無情にも頷いた。
「うん。ルイの双子の妹」
王女様だなんて。
そっと視線を下げて自分の姿を見る。
誰よりも豪華で華やかなドレス。
希少な染料で色付けされた、薄くて上質な生地に細かい刺繍を入れた凝った仕立て。学校に着ていくものだから飾りは少なめだが、一目で一級品と判る服だ。
ナーラ国でも一、二を争う権勢の侯爵家令嬢なのだから当たり前だ。いつだって同じ年頃の少女達の中で装いが一番素晴らしいのがミレーユだった。
比べて、シャルロットのドレスは学校指定の制服を変形させた、大きなスリットの入った不思議なもので、色は冴えない灰色のまま。常に最高の品に囲まれてきたミレーユからすると、ご令嬢の格好とは思えない。使用人か話で聞く庶民みたいだ。
実際は、生地も上等で指定の業者が採寸から仕立てまできっちりと為した、決して庶民では手が届かぬ誂え品だ。
だが貴婦人の着飾った衣装を至高と思う感覚のミレーユには、シャルロットの動きやすさを優先した、スカートが裂けたようなドレスは、とても明かされた身分に相応しいとは思えなかった。
まじまじと無遠慮に眺め、不作法だと気づいた。慌ててスカートの裾を摘まんで頭を下げる。
「失礼、致しました。ご無礼をお許し下さい」
「──」
下げた頭に降る答えはない。何も反応がないので、ミレーユは恐る恐る頭をあげた。と、シャルロットが驚いた顔でこちらを見つめていた。藍色の目がまん丸だ。
「シャルロット殿下?」
戸惑って窺うように首を傾げた。
「良かった、頭を上げてくれて。ミレーユさま、おかしな態度を取るからびっくりしたよ」
「王女殿下に対して、至ってまっとうな作法だと存じますが」
「それ!その話し方やめよう?さっきまでのに戻して」
そんな。
王族に対して非礼をはたらかせて、こちらを悪者に仕立てるのだろうか。
この王女はフィリップ王子のライバルの妹。彼女からしたらミレーユはいわば敵方。
一瞬、貴族社会の悪辣な遣り口を考えて体を固くした。
だが目の前で眉を情けなく下げる顔を見て、ミレーユは馬鹿馬鹿しくなった。
──この方は心のうちがそのまま表に出るのだわ。多分、本気で困ってる。
これは、無いわ。
確信すると、ミレーユは正直すぎる思いを口にした。
「殿下は変わってらっしゃる」
「よく言われる」
「まあ」
「だから、普通に戻して。前の方が好きだよ」
「──。承りました。では」
こほ、と喉を鳴らして背筋を伸ばした。
「シャルロット様、私のことはミレーユ、と。そう呼んで下さいませ」
「だから!」
「でないと、次に会ったら知らぬ振りをしてしまうわ!」
「はっ」
顎を反らして一息に言ってのける。と、目を丸くして、シャルロットはひどく愉快そうに笑った。
「了解、ミレーユ」
名を呼ばれただけで、何故かミレーユの心が浮き立った。ふふふ、と自然に笑みが漏れた。シャルロットも藍色の瞳を細めて笑んで、
「あ──!!」
唐突に叫んだ。ミレーユは耳を突かれて目を瞬いた。
「いや、ちょっと待って。休み時間終わってる!授業、完全に始まってるよ」
シャルロットがばたばたと慌て始める。
「?そんなこと。焦る必要、あるかしら」
今度はミレーユが眉をひそめる番だった。遅刻だどうだとか、王女殿下が大騒ぎするようなことでもない。
「何言ってるんだ。確実に遅刻だよ」
「別に。遅れたって教師が私達に文句を言うわけないわ」
侯爵令嬢と第一王女殿下である。一介の教師がその行動にケチなどつけられる筈もない。
もし、始まっている教室に中途で入るのが嫌なら、この時間の教科はやめてしまえばいい。
そう告げると、何故かシャルロットは怒りだした。
「そういうの駄目!ルイに怒られる。なんか不良?とかいうのになるんだって」
言って、これ以上話す時間はない、とシャルロットはミレーユから一歩離れた。
「私はこっちだから。ミレーユもちゃんとホールで授業受けるんだよ」
そう言うと、じゃあ、と片手を振ってシャルロットは駆け足でその場から去った。自慢するだけあって、灰色の妙な制服は彼女の足捌きを妨げず、あっという間にその背中は遠くなる。
「おかしな、方」
呟いて、ミレーユは唇が弛んでいるのを自覚した。
ふふ、と漏れた声は明るく。
王女殿下の背中を見送って、ミレーユはドレスの裾を両手で大きくたくしあげた。ホールへ向かう廊下を一歩大きく踏み出した。
王女殿下の命には逆らえないもの。
心の内でそう言い訳をして、ミレーユは生まれて初めて、遅刻した授業を受けるが為に小走りになった。




