154
だが学校は、フィリップにもう一人の王子の存在をちらつかせる場でもあった。
東の宮では言葉だけのモノであった、第一王子。常に密やかに、蔑み貶める単語と共に語られる子供の話。
物心ついた頃に侍女がフィリップに聞かれているとは知らずに話していたのが、多分最初の記憶だ。
自分には穏やかな表情しか向けない側付きの侍女の、見たこともない歪んだ顔と嫌な声音に、良くないものの話だと強く感じたのを鮮烈に覚えている。
長じるにつれて、それがこの宮でのみ蔓延する、母へ阿る偏った誹謗だと知ったけれど。
公けにはされない父王の子。双子の妹と共に王居の端の宮に隠されて育った異母兄。
初めて顔を合わせたのは、ルイが妹シャルロットを伴って初めて王宮に伺候した時だ。もう一年以上前になる。
あちらは父王との対面が目的で、隣にいる弟など眼中になかったであろう。だがそうして現れた第一王子の姿は、フィリップにとって衝撃だった。
母と、母から逃れてからは周囲の者達の言う、卑しい女の腹から生まれた父に認められぬ日陰の王子。フィリップより年長とはいえ取るに足らぬ劣った子供。
讒言に乗せられまい、真実を見誤るまいと努めてきたつもりだ。だが長年吹き込まれてきた中傷は、知らずフィリップのうちに澱のように溜まって、見も知らぬ兄に対して勝手に卑小なイメージを造り上げていたようだ。
頭の中でぼんやりと描いていた存在は実体となって目の前に在った。
一目見て、周囲の戯言をわずかでも真実が含まれるとした自身の愚かさを思い知らされた。
王居の反対側、忘れ去られた宮に放置されたと言い囃されていた兄王子は、双子の王女と並んで健やかにあった。細部にこだわりあげつらう貴族達は、作法の端々がこなれていないとか所作がぎこちないとか欠点を見つけては賤しんだであろう。
だがささやかな間違いなど霧散させる輝きが、第一王子と第一王女にはあった。頭を誇り高く真っ直ぐにあげてこちらに向かう姿は、王族の名に恥じぬ堂々たる威厳が見えた。そして近づくにつれ顕になった彼らの容姿は、これだけは誰もが貶めることができなかった美貌の母親の血を受け継いだのか、共に見事なまでに整っていた。
王妃の、フォス家の濃い黒茶の髪をそのままにしたフィリップとは異なる、淡い金色の髪の王子。妹の王女は父の子である証のような、国王を写したごとくオレンジがかった金髪と藍色の瞳を備えていた。
非の打ち所のない王の子。
生まれてこのかたフィリップが散々に浴びてきた言葉は、そっくり目の前に跪く二人に相応しかった。
何より。
玉座の反対側に座す母、王妃の様子があまりに異様だった。
王を挟んだ席のフィリップでさえわかる程の強い関心。それが二人が玉座に近づくにつれ注視するうちに凝る。肘掛けを固く両の手が握り締め、背は椅子の背もたれに打ちつけるようにぎりぎりまで退いていた。だというのに頭だけは前のめりになって、フィリップと同じ濃い青の瞳が食い入るように玉座に向かい跪く王子を見つめている。
憎悪と、しかし隠しきれない畏れを抱いた眼差しが、逸らすことも出来ずただひたすらに第一王子を見つめていた。それでもほんの束の間、視線がずれる。それは正気に返ったわけではなく、憎悪の対象のもう一人、第一王女へと向けられたに過ぎない。しかし憎しみと嫌悪の的であるのは確かだが、王女はそれ程重要ではなかったらしく、すぐに目線は戻り、ただひたすらに第一王子を見据える。
ああ、母には視えたのだ。
フィリップはその時、すとんと理解した。
第一王子が優れた魔力を持っていると。
母の存在意義である自分、第二王子よりはるかに素晴らしく魔力が秀でている存在。人の口の端で語られるだけであった脅威が、現実となって現れたのだ。
強い衝撃があった。
それはフィリップのうちでずっと尾を引いていて、未だに畏れる気持ちがある。
だが兄の存在を心のうちで消化しきれぬまま、王立学校という同じ空間で過ごすことになってしまった。
幸いにも、一つ上の学年に在籍する兄とは、今のところ接触はほぼ無いと言って良かった。校内で遠目に一度見かけたくらいだ。
あちらは一人どこかへ移動する最中のようだった。フィリップ自身は取り巻きに囲まれていたから、兄がこちらの視線に気づいたかさえわからない、束の間の邂逅。
それきり、行き合っていない。
学業をこなすだけで精一杯の、ただ自分を高める為だけの充実した日々。
それでも、近い将来、あの兄と対峙する日が来るのだろう。
お互いが王子である限り、逃れようのないことだ。
その時自分がどうするのか。
兄自身の実態は何もわからないままだ。ただ母の、畏怖と嫌悪に満ちた感情が己に対する脅威に結びついて、向き合うことに怖じ気づくフィリップがいる。
だが王位につくと決めている以上、勝てる見込みが無かろうが、全力で立ち向かうしかない。
漠然とフィリップは考えていた。
その日が思ったより早く、対峙が直截なものとなるとは想像もしていなかったのだ。




