144
封印から解けた魔物を使って、この国の各地に混乱を起こす。その具体的な策をクロウが持ち帰るために、地図を元にさらに詳細に魔物を出没させる地点、誘導する魔物の種と規模、事を為すタイミングを打ち合わせて時が過ぎた。
謀に割く人員、不測の事態の次善策などまで語り合う。アントンとしてはそこまで細かく突き詰めるつもりはない。だがこの場で言葉にした案全てを念頭において、クロウは先方に伝える筈だ。受け取った者共がアントンの意図を汲んで、その裁量のうちで柔軟に生かすならば、成果は上がるだろう。
失敗に終わるなら、それまでのこと。次の手を打つ。
アントンの考えはそんな程度のものだった。今のところは、火種に大いに風を送って火をおこすだけ。消えぬよう絶やさぬようにするだけでいい。炎が燃え上がったら、アントンの出番だ。
そうして大方の目処がついた頃合いに、一人の客が訪れた。
「アントンさん」
遠慮がちに店の入り口から声をかける。見知った顔に、アントンは商売用の愛想を顔に浮かべた。
「いらっしゃいませ」
「お客様ですか」
店内に佇むクロウを見て、先客と勘違いしたようだ。取り引きの邪魔をしては、と客は踵を返そうとする。
「いいえ。こちらは出入りの行商人、薬の原材料を仕入れてくれる者ですよ」
アントンの紹介に、クロウは小さく会釈した。
「あ、それは。こちらにはいつもお世話になってます」
客はにこやかに笑んで頭を下げる。アントンはそれで、と用件を促した。
「いつもの薬をお願いしたくて。これです」
カウンターを間に挟んで、客は懐から折り畳んだ紙を取り出した。
「これはまた大口の注文ですね」
「これから冬に向かうでしょう。体調を崩す人が増えそうなので、いろいろ揃えておきたくて」
差し出された紙のリストは一般的な感冒薬、解熱薬、鎮痛薬、咳止め、胃腸薬だ。既に調合済みの品が常時棚にある。ただ、量が多い。
「さすがにこれほどの量になると、在庫を浚っても全部揃えるのは難しいかと」
「そうですか。今、持ち帰れる分はどのくらい」
アントンは背後の棚から在庫を記した大判の帳面を取り出した。該当の薬の欄を確認する。
「お求めの三割程でしょうか。店頭の在庫をなくせば、もう少しご用意できますが」
「いや、それはっ。そこまでしていただかなくていいです。あの、取りあえず今、持ち帰れる分だけで」
店に置く薬まで買い占めるか。
そう問うと、客は慌てて胸の前で両手を振った。
軽い冗談だが、実際、あるだけ全て売れと強要する傲慢な者もいる。何か事が起きれば、金を積んでも手に入らなくなるのが魔道師の生み出す生成薬だ。希少さ故に目の前にあれば、一切合切持ち帰ろうとする金持ちは少なくなかった。
ただ、この顧客はそうではない。そもそもが魔道庁が卸す薬も正規に手に入れられる上級民だ。それでも尚、市井で良いものを探し、評判の良いアントンの薬の効果に感銘を受けて以降、まとまった量の薬を買い求めている。数年来取り引きをして信頼のおける優良客で、相手の性質は実直で善良であるとアントンは看破している。
「いつも無理を言ってすみません。ここの薬はとてもよく効くから、つい」
「いやいやいや。これまで一度として支払いに遅れも欠けもない。ゾエさんのご注文は優先して受けるのが私の方針ですよ」
客──ゾエははにかんで首を振った。
「私の方こそ。ここがあって良かった。薬を使う度、そう思ってます」
アントンは、リストの薬を確かめながら、まとまった量の薬を棚からカウンターに並べた。
「残りの薬はご用意でき次第、お届けします」
「いや、それはお手数でしょう。私がまた取りに参ります」
「ありがとうございます。ただ、揃うのに時間がかかりそうでして」
「そうなんですか」
ゾエの顔が曇った。
「ちょうど薬の素材が切れてましてね。調合しようにも無理なんです。でもご安心を。今、彼に材料を集めてくるようお願いしてたところなんですよ」
アントンはクロウを指し示す。ゾエは得心したようだった。
「あ、そうでしたか。あの、いつ頃できますか」
「年末には、ご用意できると思います。在庫が揃い次第、お知らせしましょう」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
「では、今ご用意できるものはこちら。料金は──こちらになります」
数種の薬の山をまとめてゾエへと押し出して、アントンは計算した金額の書かれた紙を見せた。
さっと数字を確認して、ゾエは懐から大振りの巾着を取り出した。中身を覗くまでもなく、そのままカウンターに置いた。
「支払いはこれで」
アントンは眉をひそめた。次いで巾着の口を開けて中をあらためる。一息ついて、カウンター越しの客に言った。
「これは多すぎます。金額が合わない」
巾着の中は金貨が十枚も入っていた。目の前の薬の値と等価ではない。
と、ゾエは首を振った。
「残りの分も先払いさせて下さい。薬の素材集めも大変でしょうから」
「そんな、」
「いつもたくさん薬を作ってもらってますから」
幾度かの押し問答の後、客は一抱えもある薬の山を大判の布切れに包んで持ち帰った。
「さて」
二人きりに戻った店内で、アントンはカウンターに置かれたずしりと重い巾着を掴んだ。
「軍資金も手に入った。例の落とし物、必ず持ち帰ってこい」
店主の商売をひっそりと眺めていたクロウは肩を竦めた。
「商売繁盛で結構なことで。では私は、あちらにアントン様の提案を伝えに参りましょう。それから、素材の件は最優先と」
「頼んだぞ」
「もちろん、事を成した後のことですよ」
巾着から一枚金貨を受け取り、クロウは店を後にした。