140 合図
その夜、王居は激しい衝撃に見舞われた。いや、王都にも異変は伝わったかもしれない。王立学校の鐘を吊るした塔に強い力が加わり、天辺が吹き飛んだのだ。
寮で寝んでいたコレットは轟音に飛び起きた。夜着のまま廊下に出て目当ての場所、校舎が見える大きな露台まで走った。
部屋を飛び出した勢いのまま駆けて行き着いたそこで、空を見上げた。
「ああ」
探すまでもなかった。学校の校舎で飛び抜けて高くそびえる塔。なのに鐘のあった頭の部分が何かで穿たれたかのように崩れていた。塔の周囲を守るように灯されていた明かりが消えずに燃え広がり、夜の闇をオレンジに彩って石に反射する。揺れる炎が、先端部分をもぎ取られた塔の無惨な姿を浮かび上がらせていた。
「やっぱりこの音なんだ」
コレットに驚きはなかった。
ゲームで何度も聞いた、地響きのような重い、石が崩れてぶつかる音。馴染み深いそれを聞くと、いつも新鮮な気持ちと共によし、と気合いが入ったものだ。
これがゲームが始まる合図。
しかし現実に目の当たりにすると、頑丈な石の塔の崩壊に空恐ろしさを感じた。
楽しむ気持ちは生まれない。ただ不吉な前兆か、何者の仕業かとおののくのみだ。それでも、ゲームを知っていて始まりの合図とわかるから、この破壊を前にして立っていられる。
それともう一つ。
何故、今夜なの。
浮かんだ疑問に自分で動揺した。ルイ王子に会った晩は何も起きなかったのに。
シャルロット王女に会ったから?
コレットはごくりと唾を飲んだ。
そんな筈はない。鍵となる王子はルイ。シャルロットはその双子の妹、攻略対象者でもないただの王女だ。
逡巡するコレットは、視線を感じた気がして夜空を見上げた。
「!」
赤く照らし出された夜の空を飛ぶ鳥がいた。ばさ、と羽ばたく翼は漆黒。
黒い鳥は、塔の崩壊を確認するように高度を下げて旋回する。その際、小さな頭に嵌まった黒目がこちらを見たような感じがした。
「黒魔鳥……!」
コレットはがっと露台の手すりにしがみついて身を乗り出した。
空に落ちた黒い染みのような姿を目で追う。
崩れ落ちた石の残骸をあらかた見て回って用は済んだのか。また一つ大きく羽ばたいて高く上がる。炎に照らされて尚、深緑に光る黒い鳥。
間違いない。
この世界では通常存在しない黒い姿の鳥。伝説の魔鳥。
そして──コレットにも大いに関わる筈の。
「まだ、現れるには早い、のに」
零れた声に応える相手はいなかった。
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「起きて!起きてよ、ルイ」
深い眠りについていたルイを、呼び起こそうとする声。よく知る鳥のメゾソプラノ。幾度目か、名を叫ばれて目を開いた。
ぼんやりとした視界にはわずかな灯り以外、何も映らない。夢か、とルイは瞼を閉じようとした。
「起きろ!」
ぶわ、と室内では有り得ない風を浴びてルイは慌てて体を起こした。見回すと、少し離れた場にサヨが浮かんでいた。
「え…。サヨ?」
その姿を認めて、それから振り返って窓の外を見る。
闇の広がる空は夜の深いことを示していた。
二年になってからは一応、いつ来ても良いように毎晩窓に黒い羽根は貼り付けてある。だが不意打ちのような訪れは、常にはないことだ。
しかもサヨは真っ黒な魔鳥のままだ。普段は目眩ましの為に必ず夜鷹か鳩に擬態して宮を訪ねるというのに。
「何か、あった?」
「とにかく、まずはこの部屋から移動して」
くるると鳴いて、サヨは部屋の外に連れ出そうとする。
込み入った話、距離を取ることを忘れかねない話があるのだとルイは悟った。自分の部屋から離れれば、ジュールの魔法は無効になる。ベッドから降りると、手早く上着を羽織った。
部屋の扉を開けて、周囲を窺って廊下に出る。人がいないのを確認して振り返った。間をおいてサヨが鳥のままついてきた。ペタペタと不器用にルイの後を追う。
「何かあったんだな。なんでヒトガタにならない」
「何度も変化すると疲れるからよ」
面倒そうに言って、サヨは廊下の端に寄った。
「さっき確認して急いで飛んできたんだけど」
「うん?」
「ゲームのスタートボタンが押された…」
「どういうことだ?」
唐突な、しかし今後を左右する決定的な言葉を告げられて、ルイは驚いた。反射的に問い質すような強い声音になった。
「実はね。ゲームでは主人公と第一王子が出会うイベントが成立すると、ある現象が起きるのよ。それが、今夜あった」
ルイがヒロインと会った日から、毎晩サヨはその出来事が起きないか見回っていたという。道理でこのところ、夜の訪れが途絶えていたわけだ。
だが問題はそこではない。
「どうしてそういう大事なことを言ってくれないんだ!」
「ごめん」
思わず責める口調で叫んだ。黒い鳥が羽根をすぼめる。
「でも、イベント成立の徴が起きてないなんて言ったら、ルイがもっと動揺すると思ったから」
「──わかったよ」
サヨがゲームの全容を知るが故に、ルイの反応まで考えて動いているのはわかっている。バグとも言えるイレギュラーな存在の自分が、この世界では微妙な立ち位置にあるのも。さらに先日知ったその事実を気にしている自覚もあった。
ならばこれ以上、サヨの秘密主義を問い詰めても無意味だろう。
「それで。何が起きたんだ」
「近くには寄れないけど、見に行く?」
サヨがヒトガタにならない理由がそれだった。
一旦部屋に戻って着替えたルイは、サヨの爪に掴まれて空を飛んだ。
宮邸から王宮前の噴水広場を抜けて。かつて二人してシャルロットから逃げる為に飛んだルートだ。それから森の上を行って。サヨは空中で止まった。
「これ以上は近づけない」
「まずい?」
「多分、異変を知った衛兵とか魔道庁や政府の人間とかが集まってきてる筈だから」
魔物のサヨが見られたら面倒なことになるという。
宮を抜け出したが、ルイはこの期に及んで何が起きているか教えられていない。何故人が集まるような事態になっているのかわからなかった。ただサヨに従うのみだ。
「だから少し上がるわ」
ばさ、と羽根を大きく動かして、サヨは高度をあげた。
ぐんと視界が高くなる。何年も前に魔物に襲われた森の切れ間よりも手前、噴水に近い辺りから学校を望む。以前夜空から見たより何故か灯りが多く、そのせいで校舎全体が浮き上がってみえた。
そして、真っ先に目に入るもの。
「あ」
「見えた?」
「…塔が、ない」
実際には鐘が吊るされていた天辺から中程までが崩れ落ちているだけだ。だが見慣れた鐘塔が変わり果てた様子になっている衝撃は、大きかった。
サヨの足に掴まりながら、ルイは大きく喘いだ。
「──これが、ゲーム開始の合図だって!?」
遠目でも塔が無惨な状態なのは見てとれた。
「そう」
サヨの答えはわかっていた。ただルイが信じがたいだけ。
「そんな、だってこんな」
破壊が起こってしまうなんて。
楽しむためのゲームのスタートが、明らかに破滅の始まりでは不吉でしかない。
サヨの声が上から降ってくる。
「封印が解けた、というか。これで魔物が活発に動き出して、ナーラ国が大変なことになるのよ」
「は?主人公と第一王子が会って、どうして世界が悪くなるような事が起きるんだよ。ヒロインは世界を救う力を持ってる筈なのに。おかしいだろ」
「そこはゲームのお約束だから、としか言い様がないわ。これを皮切りにいろいろ事件や怪現象が起きて、話が進んでいくんだから」
サヨの説明は理解できる。
ゲームで主人公が力を用いて世界を救うなら、まずは救われるべき悲劇に見舞われなければならない。だが破壊や破滅が目の前で現実として起こっては、非情で理不尽なものとしか受け取れなかった。
塔の下、壊れた石塊の落ちた土台の周辺では、灯りを手にした衛兵や駆けつけた王都の役人が動き回っている。そして、魔道庁の魔道士達が、それぞれ術を用いて調査を始めているのだろう、不規則に灯火された光が周囲で点滅していた。
「ルイ、戻るよ」
「ああ」
夜風に晒されながら塔を眺めていても、誰かに発見されるリスクしかない。サヨの促しで二人は早々に宮に戻った。