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「妃殿下、ご機嫌うるわしゅう」
久々に東の宮、ナディーヌの元を訪れた魔道師グレゴワールは、サロンに至るまでに異変に気づいたようだった。
「人を、変えられましたか」
「うむ。少々、余計な真似を仕掛けた不埒者がいたようでな」
王の指摘を受けて、宮に仕える人間全ての身辺の調査、最近に魔術をかけられた形跡がないかを調査した。
すると驚くべきことに、使用人の多くに弱い魔術の痕跡があった。極々些細な魔道だが、明らかに誰かが故意にかけた術。本人は預かり知らぬうちに施されていたので、事態は深刻である。また身内が魔道のトラブルに遭っていた者が数人いた。各々は大したことのない禍であるが、時期が重なるそれらが偶然であるかは疑わしかった。
結果、魔道をかけられていた者は一旦解雇し、公爵家から新たに人を採った。身内がトラブルに見舞われた者には金銭を与えて休職とし家族の元に帰した。
よって今の宮は人が少ない。かつ新顔の者がほとんどだ。
「全く。どこの愚か者がこんな手の込んだ真似をしたのやら。魔道に長けた者の仕業じゃが」
「もしや私をお疑いで?」
「馬鹿な。そなたがそんなことをしてなんの意味があろうか」
グレゴワールの言葉を一笑に付す。一連の陰謀がこの禿頭の魔道師でないことをナディーヌは確信している。
この男は兄の批判を退けてまで取り立てている。下手な手出しをして王妃である自分の心証を害する利はない。また多くの者に術をかける実力はあるが、この宮にかけられた魔力は痕跡が違う。被害にあった侍女を暇を告げる為に来た際、密かに精査してみたが、今まで触れたことのない、変わった微弱な魔道だった。故にグレゴワールは無関係だ。力については口外出来ぬから、目の前の当人に言って安心させてやることは出来ないが。
「そう、妃殿下がお信じ下さるならばよろしいのですが」
疑わしそうなグレゴワールに、くっと笑った。
「大丈夫だ。私はそなたを信じておる」
「ありがとう、存じます」
恭しく一礼して、それからグレゴワールは懸念を口にした。
「あの娘は、首にならずに済んでおりますか」
「──ああ」
一瞬言葉に詰まった。
「影響は受けておらなんだからな。変わりなく勤めていると思うが」
あまりに存在が薄くて忘れていた。
ナディーヌは少々慌てて記憶を浚った。
グレゴワールが推して雇いいれた小娘。
そもそもこの魔道師に連絡係として寄越された下女だが、その用の役には立たずに終わった。故にグレゴワールが見つかった後は、いつしか傍らから消えていた。取るに足りない小者一人、宮に居ることも意識していなかった。だがざっと思い返した宮から去った者のうちに、あの小娘はいない。解雇はしていない。ならば宮のどこかで雑事をしている筈だ。
何とか取り繕った答えに、グレゴワールは頷いた。
「それは安堵致しました。では」
「なんじゃ」
「おかしな術も受けていないあれを、今一度妃殿下のお近くにつけていただきたい。お役に立ちます」
「そなたとの連絡係として受け入れたが、全くの無能であったではないか」
「それは、妃殿下のお求めが我を真に必要としなかったが故にございます」
「なんじゃ、それは」
詭弁のような言い様にナディーヌは眉をしかめた。しかしグレゴワールは恐れながら、と続けた。
「この宮を薄汚い魔道師が彷徨くのを嫌悪されるお方がおられるではありませんか。故に平時はなるべくお側から離れるべき、と。我の力は妃殿下が強く差し迫った時に使うべきもの。そう心得ております」
「それは、そうじゃが」
兄公爵がグレゴワールを厭うているのは確かだった。数年前のあの事件で、危うい真似をしたことを兄は必要以上に問題視しているのだ。故に、王妃が怪しい素性の者を側に置くことを良しとしない。グレゴワールが己を卑下し、接触を控えようとするのも当然ではあった。
「ですが今後、あの娘、オロールは役に立ちます。妃殿下はおわかりにならぬやも知れませぬが、必ず」
いつにない強い要望にナディーヌは戸惑う。
「そなたは我が力になると約してくれている。なのにあの小娘は必要かの」
「はい、是非にも」
グレゴワールの落ち窪んだ目が、強い光を孕んだ。
「妃殿下と我を繋ぐ大事な存在になります故、何卒ご検討を」
重ねての請い。これまで存外素っ気ない態度であったグレゴワールにしては珍しいことだった。それを踏まえてナディーヌは迷う。
「わかった。よくよく考えておく」
この魔道師は卑しい身分の者だが、有能な味方は必要だった。
あれから、次の約束をしたというのに王との面会は一度も叶わないでいる。
侍従に容態が悪化したのかと問うても、はかばかしい応えはない。ただ王の予定が立たないとのみ。その言い訳のくだらなさに叫びたくなる。宰相に全ての政務を投げ出しておいて、何が予定か、と。
せっかく東の宮に食い込んだ害虫を駆除したのに、その成果すら告げられずにいる。
王の望み通りに動いたというのに。
王の心のうちは誰にも読めない。まともに思考して動いているのかさえわからない。
もはや譲位が必要ではないか。
フィリップの即位を画策する兄の言葉を、ただ退けた自分の気持ちすらわからない。
ナディーヌは、力のある味方を欲していた。




