121 王宮
「閣下」
ふっ、とロランの意識がぶれた。肩が不自然に揺れたのを、傍に控えた従者が支えた。
「すまない、大丈夫だ」
疲れが隠せぬであろう顔を半分手で覆って、ロランは背筋を伸ばす。
「少しお休みになっては」
「そうもできまい。陛下がご不例とあってはな」
従者が唇を引き絞る。その顔に不満や苛立ちのような靄がのぼる。
無表情を旨としているらしいこの男にしては珍しいことだ。
ロランは微笑んだ。
「モリス。顔に出てるぞ」
「は。失礼いたしました」
堅苦しく詫びて、姿勢を正す。
ここは王宮でも、奥の国王の御座所に程近い位置の部屋である。本来は王の生活空間故に、王の他は近習の者しか居らぬ区画だ。
公人は喩えフォス公爵や大臣といえども立ち入ることはない、その極々奥まった場所にロランは陣取って、政務を執り続けていた。王から特につけられた近仕はいるが、身辺に侍るのを許したのはこの男、モリスだけだ。
短く刈り込んだ薄茶の髪、引き締まった顔で常に傍らに立つ長身の男。
本来はレミと共にジュールの従者であった。ロランの内々の仕事の助けになれば、とかの魔道師から彼が寄越されてもう数年になる。
ジュールに指南されて開花したモリスの魔力は、派手な力の放出ではなく裏方の陰で力を発揮するものが多い。
数年前、某事件の襲撃犯の遺体を長い日数状態維持したのは彼の力だ。
物質の保持、保管、また遠隔の伝達魔法にも長けている。
密事に向いた、と言ってはなんだが、特に秘匿の務め、国政に関わる公にできない謀事に関しては宰相府の表の部下にも言えぬ為、非常に重宝していた。
さてしかし、常はこちらが求めぬ限り口を開かぬ男が、今、ひそやかながら主に訴える。
「陛下の御身のこと、民の一人として快癒を願っております。ただ、思ってしまうのです。宰相閣下に全てを預けてしまう程の病なのか、と」
「モリス」
名を低く呼んで嗜める。
「閣下のご多忙を考えれば、もうわずかでもご自身で政務を担って頂きたいと、そう思うのは不敬なのでしょうか」
「それ以上は口にせぬことだ」
「申し訳ありません」
口を噤んだモリスは、だが内なる訴えを堪えきれてはいない。
余程、腹に据えかねるらしい。この男、元はジュールの子飼いであったのに、ロランを案じてこうまで人間味を表に出すとは、随分とこの地位に馴染んだものだ。
そう感慨を覚えるが、国王への批判は声高に唱えるべきではない。
ロランは話を変えた。
「それよりも。あちらから報せが来たのであろう」
「は。あの方のお力が主任教師に知られたと」
早いな。
ひとりごちて記憶の中の学校の教科ごとの名簿を辿る。
「学校の魔法学の長はジェロームだったか」
「はい。かの卿のご友人であられるとか」
「公爵家との関わりは一切ないな」
「そう聞いております」
「そうか。では今一度精査して確認が取れたら彼らの判断に任せる。正しい助言をしてくれるだろう」
誰が、誰に。
決定的な名は口にしない。
しかし語らずともモリスは真意を正確に取って、答えを待つ人に伝える。それができる男だった。
「宰相閣下」
モリスに始末を任せて一息ついていると、扉を開けて王の近習が訪ねてきた。
「ああ」
「お時間でございます。陛下の御元へお願いいたします」
「すぐ参る」
手早く身を整えると、近習の案内でロランは通い慣れた廊下を急いだ。モリスが黙って従った。
「陛下」
従者を部屋の外に待たせて、ロランは一人、国王の寝室へ足を踏み入れた。
天井は高く、豪奢な装飾に彩られていても寒々しさを感じさせる程広い部屋の真ん中に、天蓋つきの巨大なベッドがある。その真ん中に最上級の寝具に埋もれるようにして、国王アランが横たわっていた。
国王は、ルイとシャルロットの二人と対面して以来、貴族や官僚達の目に触れる公の場、表に出ていない。
どこがどう悪いということはない。宮廷医師も病に罹ってはいないとの見立てだった。しかし元々食が細かったのが日に日に痩せて、今は一日のほとんどをこのベッドで過ごしている。お陰で医師は躍起になって薬を処方しているという。
だが、一番の問題は身体の健康ではない。
精神の不安定さが王を人々の目から隠す大きな要因だった。
王の無気力、そして厭世感故か、偶さか心が現つから離れるのだ。症状は政務を執っている途中、外国の大使と謁見の最中と時を選ばず発生し、周囲を不安に陥れた。
唐突に魂が抜けたように虚空を見つめる国王。
その姿を外の人間に見せられるわけもなく。状態が安定するまで表には出せない。
ロランは不測の事態を怖れる侍従長達から請われて王宮の国王の傍近くに詰め、王の担う筈のほぼ全ての政務を処理しながら、寝所に日参する生活を数週間続けていた。
王の生活空間の一画に部屋を借りて、そこに省庁の業務を持ち込ませている。
しかし体力と気力を削られる日々にロランの限界も近づいていた。モリスが懸念を示すのも当然だったが、それでも投げ出すわけにはいかなかった。
王の状態は決して良くない。今も藍青の瞳は虚ろに宙に向けられている。
と、
「ロラン」
静かな声が呼んだ。
先まで空虚だった瞳が焦点を結び、顔をわずか傾けてロランを映し出していた。
「陛下」
急ぎ、至近まで寄った。王の心が戻るのはいつも唐突だった。
唇がわななくのを見て、聞き漏らさぬようさらに耳を寄せる。
「常世の森の、泉の護りは万全か」
「は。トマ魔道士長が結界の強化を図って久しゅうございます。まず、恙無いかと」
「トマ。……ああ、リュシアンの後押しでジュールの跡を継いだ者か。その者の技で確かに洩れはないか?」
「それは──」
ジュールが見回って時折綻びを修正しております故、池は完全な守護の内にあります。ご安心下さい。
とは口に出せぬ。




