プロローグ
「今週も何とか終わった」
皺のついたスーツの腕を伸ばし、男は三年前から自活しているアパートの自室の鍵を開ける。
大学を卒業して何とか引っかかった会社で勤続六年。怒られる意味すらわからないところから始めてようやく仕事の重みも感じるようになったサラリーマン。
特に秀でたものもない自覚があるから、終身雇用の危うい世間で社会がこれ以上過酷にならないことを祈りつつ、地道に生きると決めている。一応、資格試験等に目を配りながらも流行りの転職サイトのお世話にならないでいられる我が社に感謝である。
薄給だけど。
安心はある。各種天引きされた金額はぎりぎりだが、それでも労基を厳守した雇用制度と福利厚生はなかなかのものだ。
住宅手当だってある。
だから一人暮らしでもそれなりの満足感はあった。
明日の休みは何をしよう。
脱いだスーツを適当にハンガーにかけてスウェットに足を通す。
緩く追いかけているアイドルの映像が確かネットにあがったんだっけ。図書館で借りた本も途中だ。
わずかばかりのご褒美と癒し、休息。
身の丈に合った楽しみを糧として仕事に労力を費やし日々を重ねる。
天変地異が起きやすいこの国ではいつなんどき災害に遭うかわからない。
それでも。
世界では稀な安定を保つ社会体制では将来の計画や少し先の未来の予定を練るのも普通のことで。
手を伸ばせば届く楽しみを目標に労働にいそしむ毎日だ。
男はふと思いついて壁際にあるデスクの抽斗を開けた。ぺらりと通帳をめくる。
「よし」
そこにある数字を認めて小さくガッツポーズをした。
数字は、男がこつこつと数年かけて貯めたものである。生活の積み立て貯蓄とは別ゆえに、時間はかかったが日々の節約の対価だ。素晴らしい。
このペースを保てば再来年の正月は念願の箱根旅行、駅伝観戦だ。
年始の高額な料金プランに歯噛みした過去を思い、努力の成果に満足する。全身にまとわりつく疲労もその為なら受け入れよう。
少しばかりハッピーな気持ちになった男は、穏やかな眠りを迎えるべく、ベッドに転がり目を閉じた。