第40話 人間の王国ソピア
「マードック・ノア。あの人が……!」
杏葉は、目を見開いた。
人間の形をした魔王が、そこにいる。それが分かったからだ。
【アズハ、言語フィールドしヨウ】
「ええ、ランさん!」
杏葉の願いで集まってきた精霊たちは、恐怖に慄きつつも力を貸してくれた。
それを横目で見てにやけるマードックの表情は、邪悪極まりない。
「やあ、エルフ殿」
「魔王め……人間たちを、どうしタ!?」
「ふはははは。エルフのくせに、人間を気にするか。――さあてねえ。どうやらわたしは、堪え性がなかったようでね」
ぞわり、と背中が粟立つほどの邪悪な気配だ。
「試しにこれを少し使ってみただけだよ……クックック」
心底おかしそうに肩を揺らすと、マードックは大げさに両腕を広げ、両手のひらに黒い炎を生み出して見せた。
全員がその意味をすぐに把握し、絶句するのを見て、マードックは満足げに高笑いする。
アンディの体から力が抜け、地面に膝を突きそうになるのをネロが慌てて支える。
「ククク……はははは!」
「なんてこと……じゃあ、ソピアは、人間は……!」
叫ぶように言う杏葉の肩を、ガウルが抱き寄せる。
「それでも、止める」
「ガウルさん!」
「諦めるな。俺たちがいる限り」
「無駄だ、無駄だ。ハハハ!」
すると、今度はアンディが笑い始めた。
「はは、はははは……」
「殿下」
「殿下っ!」
「殿下、お気を確かにっ」
ダンやジャスパー、体を支えるネロが、次々掛ける声には答えず顔を上げたアンディの
「それだけか?」
と尋ねるその表情は、意外にも落ち着いている。
「なんだと? ぜい弱な人間ごとき、この小さき火で十分……」
「人間を、舐めるな」
全員が固唾を呑んで、魔王と王子のやり取りを見守っている。
「不思議に思わなかったのか? 魔王が世界を滅ぼしたという伝承が、後世に残っているのを」
アンディがそう声を張り上げると、マードックは虚を突かれた顔をした。
「記録を、残したからだ! 二度と、このような悲劇を起こすまいと! そして、もしも起きたならば、倒せるようにと!」
――ドドドドドド
突如として、地響きが鳴った。
「なっ」
驚きで振り向く魔王の眼前に、王城の方角から王国騎士団の一隊が迫ってくるではないか。
「あーあ。めんどくさい、めんどくさい」
広場に到着すると、その集団の先頭にいた鎧を着た初老の男が、愚痴をこぼしながら下馬する。
「ったく、なあんで儂の代で魔王なんざ……」
そうして、マードックを挟む形で相対するソピア騎士団に向かって、アンディが叫んだ。
「ちちう……陛下!」
「ああ。だるい……」
「賭けに、勝ちましたよ!」
「見れば分かる。だから来た」
呆気に取られるマードックを尻目に、ソピア国王ハリスはけだるそうに右手を上げ、その人差し指で宙に何かを描く。
王都の空に魔法陣が浮き上がって、消えた途端――
「!」
そこかしこの建物から、人の気配が生まれた。
やがてゾロゾロと姿を現したのはなんと、武装した人間たちだ。
「ぴゅう~、やるねえ」
レーウが思わず口笛を吹く。
「貴様……愚王の分際で、謀りよったか」
ぎりぎりと歯ぎしりをするマードックに、ハリスは
「うん。儂が愚王なのは間違いないぞ」
と心底呆れたような顔をする。
「だが、息子の命を懸けた賭け事を袖にするほど、落ちぶれてもいない――アンディ。王都民の避難と、古の魔術師団のあぶり出しは終わっとるぞ~あとは好きにやれ~」
「ありがたく!」
「なに?」
「人間の伏兵は、もはやいないぞマードック。いや、魔王よ」
アンディは大きく頷いた。ガウルたちも目を合わせ、頷く。
「どういうことだ……貴様は、王国を……人間を見捨てたはずだ!」
マードックの怒りが周辺の空気をびりびりと震わせる。
その頭頂からみるみる角が生えだしたのを、人々は恐れと共に見つめた。
「怠惰で何もせず! 全てを諦め! 勝手にしろとほざいていただけだった!」
そう叫んで開ききった口には、めきめきと長い牙が生えていく。
一方でハリスは、めんどくさそうに
「ああその通り。儂は何もせず、アンディの勝手にさせたまでよ。っこらしょ。あとは頼むぞ……アンディ」
もそもそと再び馬に乗った。
「約束通り、生きて獣人王国と同盟を結んできたのなら、国王はお前だ。好きにしろ。ただし死ぬなよ」
護衛の数人を引き連れて、ハリスは去っていく。
避難した人々の精神を支えるためにも、国王という存在は必要だ――アンディは心の中でしっかりと首を垂れた。
「は!」
そしてすらりと剣を抜き、その煌めく白刃を空に掲げる。
「魔王を! 倒すぞ!」
――おおーっ!
それに応える騎士たちの士気が高いことに、ガウルたちは感動を覚え、自然と「おおー!」と声を張り上げた。
充実した表情でお互いを見合っている。
獣人たちが、自分たちと共に戦うつもりでいる――その姿勢を目の当たりにして、今までアンディの言に懐疑的であった人間たちも、考えを改めた。この危機的状況にあっても仲良く並び、声を上げる。それで、十分ではないかと。
リリは、彼らのそんな心の動きを鼻で感じ取り、目を細める。
「一緒に戦ってくれるみたいにゃよ」
「リリ……」
杏葉は感動し、勝手に目が潤んでくるのを必死で我慢した。
「人間め……このオレを欺き、奸計を……なんと醜いことか!」
グアアアア! と叫ぶマードックは、いよいよその姿を完全なる異形へと変えた。
歪な二本の黒い角を持ち、赤い目、長い牙と爪――伝承の通りの魔王の姿だ。
するとひと際高級そうな鎧を身にまとった、筋骨隆々の茶髪の男性が前に進み出る。
「騎士団長のボニファーツである! 獣人騎士団長殿はいずこか!」
即座に剣を掲げて答える銀狼は、暗い雲の下でも輝いて見える。
「! ここにいる! ガウルだ!」
「ガウル殿! 来てくれたこと、感謝する! 共闘を頼みたい!」
「了解した!」
それに雄たけびをあげるのはレーウだ。
「ガオオオオオン! ぐあっはー! 楽しくなってきたあああああ」
ライオンの雄叫びを聞いて驚く人間たちはだが、同時に力を奮い立たせて雄叫びで応える。
「エルフ大使のランヴァイリーも、同じく参戦するヨー!」
大きな弓を振ってランヴァイリーも名乗ると、その背後からエルフたちが次々と建物の屋根に上り、弓を構えた。
「非戦闘員は、我々が」
「ういっす。シールド張るっす」
ダンとジャスパーがなるべく離れ、アンディと杏葉、ブランカを背後に庇う体制を取る。
ネロが既に剣を構えているのを見て、ジャスパーは杖を、ダンは拳を構えた。
「殿下も天使も、守りますゆえご安心を」
「……ちょっとネロ? わたくしは?」
「自分より強そうですんでね」
「はあ。そうね」
ブランカは苦笑いしながら、レイピアを構えた。
「アズハさん。あなたはあなたの戦いを」
「ブランカさん……はい!」
杏葉は、両手を胸の前に祈るように組んだ。
「精霊たち! どうか、みんなを守って……!」
なぜか静かにそれらの動きを見ていたマードックは、空に向かって再び大きく口を開けて笑う。
「グアッハッハッハ! なんと愚かなことよ……魔王と倒せると、本気で信じているとはな! そうこなくては。僥倖、僥倖」
そして両腕をめいいっぱい広げて、高らかに宣言をした。
「人間と、それに組する者どもめ! 希望ごと、滅ぼしてくれるわ!」
ふわりと空へと浮き上がっていく黒い異形は、そうして強大な黒い炎を放つ――あれだけ強固で頑丈だった王都の外門が、見る影もなく消し飛び、その開けた視界の先には。
「蹂躙せよ」
無数に蠢く魔獣と巨大な眷属たちが、涎を垂らして待ち受けていた。




