第九十七話 掌の上で転がされ
翌朝。目覚めた慧の意識が一番最初に捉えたのは、屋根を打つ雨音であった。薄闇の中で聞くそれは心地良く、目覚めてすぐにも関わらず、慧はうつらうつらしてしまう。しかしそんな誘惑に負けじと、慧は無理矢理目を開いて壁掛け時計に視線を向ける。時刻は……。よく分からない。まだ完全に目が冴えていないせいなのか、はたまた窓から差し込む朝日の助力が無いせいなのか、とにかく長針と短針の指す先が判然としない。そこで慧は枕もとのスマホを手に取り、それで時間を確認しようとしたのだが、今度はスマホを起動したと同時に浮き上がって来た一件の通知が慧の目的を妨げる。
『週末のことで話したいことがある。今日の昼。或いは放課後に時間はあるかな?』
メッセージは輝虎からであった。どうやら数日前に取引した引っ越しを手伝うという話の続報らしい。慧はそれに、
『はい。どっちでも大丈夫ですよ』
と返信をして、ひとまず待ち時間に朝の身支度を済ませてしまおうとベッドから立ち上がり、スマホを枕もとに置いて階下に向かう。
顔を洗い、歯を磨き、麦茶で喉を潤した慧は数分で自室に戻って来た。そして制服に着替え、登校準備万端の状態でベッドに腰かけると、スマホを拾い上げて返信を確認する。
『それじゃあ放課後にしよう。チャイムに話を遮られるのは癪だからね』
輝虎らしい返信が既に届いていた。慧はそれを念の為二度ほど読んでから、『了解です』と事務的な返信をし、スマホをポケットに入れて立ち上がると、鞄を持ってリビングに向かい、軽い朝食を済ませてから家を出る。
恵凛からの連絡は何も無かったが、もしかしたら何食わぬ顔で伊武も一緒に出て来るかもしれない。なんて淡い期待を抱いて今朝も龍宮宅を訪ねる。が、結果は昨日同様、出てきたのは恵凛だけであった。その恵凛曰く、伊武の体調はまだ良くならないらしい。報告を聞いた慧は「そっか……」としか答えられず、会話はそこでぎこちなく終了し、二人は別の話をしながら駅に向かった。
……その後の半日、何か大きな事件が起きることも無く、慧は久し振りに学生らしい勤勉な時間を過ごし、放課後を迎える。
「それでは私は先に帰りますね。先輩との打ち合わせ、頑張ってください」
「うん。ありがと」
今朝の登校途中に、放課後は輝虎と会う約束がある。と既に伝えていたので、恵凛は気を遣って短く別れの挨拶をして、隣のクラスに向かった。
(今日は一日雨か……)
教室から人がいなくなり、より一層雨の音が耳朶を打つ。雨音が増すにつれて寂しさが募るような気もするが、心が穏やかになっていくような気もする。そうしてゆっくりと瞑想状態に没入しかけたその時、教室後方のスライドドアが音を立てて開いた。そして――
「やあ。集まれる場所が無いから教室まで来てしまったよ」
と、白衣姿の輝虎が教室に入って来た。
「あれ、先輩。もしかしてメッセージくれてました?」
「いや、何も送っていないよ。それこそ初めは集合場所を決めてメッセージを送ろうと考えていたんだがねぇ。ほら、今日は生憎の天気でテラスは無理だろう? かと言って理科室は鍵を借りるのが面倒だ。となると、集合するんじゃなくて私が出向いてしまうのが一番楽だ! という答えに行き着いてね。こうして君がいる教室まで来たというわけさ」
「な、なるほど……」
それならそれで一報欲しかったなと思う慧だが、それは心の内に留めておくことにした。
「ここは誰の席かな?」
話している内に慧の右隣まで歩み寄って来た輝虎は、恵凛の席を引き出しながら問いかける。
「龍宮の席ですよ」
「おぉ、そうかそうか。それなら勝手に座っても問題無さそうだね」
輝虎はそう言って、というか、言い始めると同時に恵凛の席に腰かけると、早速足を組み、腕を組み、モデルのようなポーズをとって慧の方を向く。
「前に何か言われたことがあるんですか?」
「いや、特には。ただ単に、後々何か言われるのが面倒だから確認しといただけさ」
「そ、そうなんですね。まぁ、嫌がる人もいますからね」
「そうそう。つまりこの確認は、僕なりのリスクマネジメントというわけさ」
「ははっ、良い心がけですね」
「あぁ。だろう?」
二人が笑みを交わしたところで挨拶代わりの会話は一段落する。そしてほんの一瞬の沈黙を挟み、輝虎が話を再開する。
「それじゃあ早速だが、本題に入ろうか」
「はい。お願いします」
「ゴホン。今日君を呼んだのは他でもない、週末のことについて話すためだ。だが、話を進めるよりも先に聞いておきたいことがある。助手君、外泊は平気かな?」
「はい?」
「外泊だよ。簡単に言えばお泊りさ」
「いや、それは分かりますけど」
「ならば早く答えを聞かせてくれ給え」
「えっと、まぁ大丈夫ですけど、そんなに大荷物なんですか?」
「荷物はそこまで無いよ」
「えっ、じゃあなんで?」
「何を言ってる助手君。我々には荷運びの他にも目的があるだろう?」
「あっ……、写真のことですか?」
「そうさ。そもそもそちらが本来の目的だからね」
全く、調子の良い人だな……。慧は心の中で呆れながらも、
「そうでしたね。本来の目的は心霊写真の鑑定ですもんね」
と、輝虎の言い分に合わせた。
「あぁ。そうだとも。決して荷運びが主目的ではないからね!」
「はは、そうですね……。それで、今の確認が外泊とどう絡んで来るんですか?」
「よくぞ聞いてくれた! 実はこないだ、下調べも兼ねてその霊感の強い人と会って来たのだよ。そしたら、土曜日の昼前なら空いていると言われてね。そこで僕は思ったんだ。明日の放課後、荷運びをしてそのまま君に泊まってもらい、朝起きたらその人のところへ行く。というのが一番効率がいいのではないか? とね。どうかな?」
「どうかなって言われましても……」
真剣な眼差しで答えを待つ輝虎に、慧は返事を濁してしばし考え込む。
(写真鑑定のためだけに泊る必要なんてあるか? 別に一回家に帰ってまた翌日行けばいい話だよな……。いや待てよ、交通費が二倍かかるのか……!)
金銭的な問題が脳裏に浮かんだ慧は、意図的に外していた視線を輝虎に向け直す。そして、
「その、一応確認なんですけど、俺が泊まるって話は既に家の人に?」
と聞いた。すると輝虎は少しも表情を変えず、
「あぁ。もちろん伝えてあるよ」
と答えた。
「も、もちろんなんですね……。分かりました。そこまで話が進んでるならお世話になりますよ」
「ハハッ! 流石は助手君。理解が早くて助かるよ」
最初からこうなると分かっていたかのように輝虎は笑う。
「よし、それじゃあ明日の放課後。教室に君を迎えに来るから、一緒に祖父母宅へ向かうとしよう」
「はい、分かりました」
こうしてまた輝虎の思い通りに話が決着すると、彼女は席を立ち、優雅に白衣を翻して教室後方の出入り口に向かう。そしてドアの前で立ち止まると、半ば振り返り、
「泊りの準備はしっかりとよろしくね、助手君。ではまた明日!」
忠言と挨拶を残し、輝虎は教室から去った。慧はそんな彼女の足音が雨音にかき消された後、ようやく自分も席を立ち、教室を出た。
翌日。慧はアラームの音で目を覚ました。勉強机の上に置かれた学校鞄の横には、見慣れないボストンバッグが置かれている。慧はそれを目にして、今日外泊するのだという事実を再認識する。そしてそれと同時に、昨晩、唐突な外泊の為にドラッグストアを回ったことや、バッグを引っ張り出したことや、なるべく綺麗な服を選定したことなど、どちらかと言うとマイナスに選別される記憶たちを思い出し、不安や億劫を感じつつ、小さくため息をついてから朝の支度に取り掛かるのであった。
しかしそんな慧の気持ちに反し、時間はあっという間に過ぎていく。家を出て、今朝も恵凛と登校して、授業を受けて、昼食をとって、また授業を受けて。気付けば迎えたくなかった放課後を迎えていた。
「ごめん龍宮。俺、今日も先輩と話があるから、先に帰ってて」
「はい。昼休み、先輩に聞きましたよ。新しい研究の下見に行くのだと」
「えっ、う、うん。そうなんだよ」
「頑張ってくださいね! 私、楽しみに待ってます」
恵凛はあどけない笑顔で答えると、軽く手を振って歩き出す。
「あ、ありがと。じゃあまた来週……」
純粋に自分を信じてくれている恵凛に二日続けて嘘をつくのは胸が痛んだ。しかしだからと言って洗いざらい話すわけにもいかないので、慧は気持ちを抑え込み、その背中に別れの挨拶をした。
一人教室に居残って数分、昨日と同じ調子で後方のドアが開き、昨日と同じテンションで輝虎が現れた。
「やあ、お待たせ」
輝虎はそう言った切り、全く教室に入って来る様子が無い。
(無駄話はせずにもう行くってことかな)
そう感じ取った慧は鞄を持って席を立つ。そして輝虎のもとへ歩み寄り、何か一言くらい下さいよ。とでも言ってやろうかと思ったのだが、その意気込みは廊下に出て間もなく挫かれた。何故なら、教室内からは見えなかったドアの裏側に、キャリーバッグが二つも置かれていたからである。
「えっ、荷物はそこまで無いって言ってましたよね? てか、学校に持って来たんですか?」
「待て待て助手君。ちゃんと答えるから慌てないでくれ給え」
「はい、すみません」
「まずは量のことだが、そこまで。という単語の解釈が僕と君とでズレていた。ただそれだけの話さ。そして荷物を学校に持って来たことだが、これも単純で、学校が終わってから家に寄るのは面倒だから、学校を休んで今持って来たというだけのことさ」
「い、今? えっと、たった今学校に来たってことですか?」
「あぁ。そうだよ。厳密には、帰りのホームルームが始まる前くらいだったかな」
「いや、別にそこはこだわらなくて大丈夫です……」
「そうかい? まぁ良い。とにかく、周りには何も迷惑を掛けていないのだから、問題はないだろう?」
「うーん、そうですね……」
「よし、じゃあこの話は終わりだ。出発しよう。助手君の荷物を回収してから祖父母の家に向かうのだから、早く行動するに越したことはない」
「はぁ、分かりました。行きましょう。それで、これは俺が持つんですよね?」
「あぁ、こっちは僕が持つから、もう片方をよろしく頼む」
輝虎は気さくに言うと、白いキャリーバッグの取っ手を掴んで颯爽と歩き出す。慧はその姿を見ながらもう一度小さくため息を漏らすと、残された黒いキャリーバッグの取っ手を掴み、輝虎の後を追った。
学生二人がキャリーバッグを引く姿は珍しく映ったのか、すれ違う人々は皆、二人のことをチラチラと見た。しかし声を掛けられるわけでもなく、慧たちはただ、視線を浴びるだけ浴びて電車に乗り、古屋根駅で下車し、住宅街を進んだ。
「あそこです」
先を歩いていた慧は、自宅が見えてきたところでやや振り向いてそう言う。
「ふむ、良い家だね。それに、閑静でとても住み心地の良さそうな場所だ」
「はい。住みやすいですよ」
特別意味も無い会話を二言三言交わしている内に家の前に着いたので、慧はさらりと「じゃあ、荷物取ってきますね」と言って自宅に上がる。そして迷わず自室に向い、服を着替え、ラヴィ一式やら財布やら鍵やらを学校鞄からボストンバッグへ移し、移し終えたらそのボストンバッグを持って外に出る。
「お待たせしました」
「おぉ、随分早かったね」
門扉の傍で待っていた輝虎は、一通り周囲を見回してから視線を慧に向ける。
「まぁ、着替えてバッグを取って来ただけですから」
「ハハッ、それなら早くて当然か。では、駅に戻るとしようか」
「はい」
慧は答えながら黒いキャリーバッグを持ち直し、今度は輝虎と横並びになって駅に戻る。内心、恵凛とばったり出くわすのではないかと冷や冷やしていたが、それも杞憂に終わった。
駅まで戻った二人は再び下りの電車に乗った。幸い乗車時に角席が空いていたので、輝虎をそこに座らせ、その隣に慧が座り、電車は走り出した。
輝虎の話によると、祖父母宅があるのは終点から二つ前の駅らしく、凡そ三十分程かかるらしい。快速があればもう少し早く着きそうなものだが、残念なことに慧が愛用しているこの路線は全て各駅停車のため、これ以上の時間短縮は望めない。つまり確実に三十分は電車に揺られることになる。それらを踏まえ、慧は空虚な移動時間になることを覚悟した。しかし聞き慣れた駅を一つ、また一つと過ぎ、とうとう星峰も過ぎると、車窓の向こうには聞いた事も見た事もない駅や風景が広がり始め、慧の心は俄かに躍り出す。それは未開の地へ赴く時の冒険心とも言えたし、新天地に臨む時の緊張感とも言えた。一度芽吹いたそのワクワクは留まることを知らず、電車の進行と共に大きくなっていき、そしてついにワクワクが全てを呑み込もうとしたその時、
「間もなく竹川。竹川。お出口は右側です」
と、アナウンスが響いた。
「おや、もう着くのか」
腕を組んでウトウトしていた輝虎は、アナウンスを聞いてパッと目を開き、小さく呟く。そして電車が減速を始めたところで慧の方を向き、
「ここで降りるよ」
と言った。慧がそれに、
「はい。分かりました」
と答えて数秒後、電車は止まり、乗降口が開く。慧は自分の中の期待感が最高潮に達したことを自覚しながら席を立つと、輝虎に続いて竹川駅に降り立つのであった。




