第九十六話 小休止
伊武の心配をしていると璃音の姿が浮かんできて、璃音の心配をしていると伊武の姿が浮かんでくる。どれだけ切り離そうと努めても、何故か二つの問題は一つになり、螺旋になり、どこまでもどこまでも伸びていく……。そんな意識世界にそびえる螺旋を見つめ、答えを得るどころか一歩も進めずに立ち尽くしている間に一時間目が終わり、二時間目が終わり、三時間目が終わり……。気付けば全ての授業が終わっていた。
「それじゃあ号令をお願い」
遠くから朧気に内海の声が聞こえる。どうやら帰りのホームルームも終わるらしい。と、慧がようやく現実に戻って来た直後、「起立」という号令が掛かる。すると慧の身体はプログラミングされた機械のように反射的に立ち上がり、「気をつけ、礼」という次の指示に従い、お辞儀をする。そして教室から去っていく内海の姿を見送ると、慧は電池の切れたおもちゃのように椅子に腰を下ろす。
(あっという間に一日が終わった……。結局、雀野のことも江波戸のことも全然考えられなかったな……)
ちらほらと動き出した同級生たちを周辺視野で捉えながら、慧は何も無かった一日を振り返る。そしてまた、知恵の輪のように絡まる二つの問題と向き合おうとしたその時、
「風見君?」
横から声が掛かった。慧は見るまでも無く、声だけでその主が分かった。その為か、慧は少しだけ表情を作ってから右方に顔を向ける。
「大丈夫ですか?」
予想通り、視界には恵凛が映る。
「うん、大丈夫。ただぼうっとしてただけ」
「そうですか、良かった。……その、疲れが残っているようでしたら、後日でも大丈夫ですよ?」
「ありがとう。でも、今日で大丈夫だよ」
「分かりました」
「うん。それじゃあ帰ろうか」
会話が纏まると、二人は席を立って帰路に就いた。
帰り道。璃音のことも伊武のことも話題に出ることはないまま、二人は自宅前に辿り着いた。そしてその流れで龍宮宅の門扉を抜けようという時、ふと慧が口を開く。
「あっ、ちょっと待って」
「はい? どうしました?」
「音楽プレイヤーを持って来ようかなと思って。多分、言葉だけで説明するより、直接曲を聞いた方が分かりやすいと思うし」
「確かに。良いですね! 私聞きたいです、風見君の好きな曲!」
「そ、そんなに期待しないでね? 俺ミーハーだから有名な曲ばっかだと思うし、詳しい説明も出来ないと思うから」
「全然気にしませんよ。私は音楽の知識とか歌手の情報とかが知りたいのでは無くて、単純に、風見君の好きな曲を聞きたいだけですから」
「そっか、それじゃあサクッと取って来るよ。もしアレだったら先に帰ってても……。と思ったけど、二度手間になっちゃうか」
「ふふっ。そうですね。私、ここで待ってます」
「うん。分かった。高速で取ってくる」
慧は照れ笑いを浮かべながら答えると、早足で自宅に向かい、真っ直ぐ自室に駆け上がり、机上に置かれている音楽プレイヤーとスピーカーを手に取り、凡そ一、二分で外に戻って来る。そして待っていた恵凛と合流し、龍宮宅の玄関を抜けると、二階からパタパタと三宅が下りて来て二人を迎えた。
「おかえりなさいませ。江波戸様の様子は私が見ておりますので、お二人はどうぞリビングで御寛ぎください」
手短手早く言い残すと、三宅は踵を返して階段を上がって行く。その動作はあまりにも速やかで、二人は呼び止めることすら出来なかった。
「ここは三宅さんに任せましょうか」
「うん。そうだね」
数日前に三宅が伊武を連れ戻したという前例もあったので、慧と恵凛はそれを信じてリビングに向かうことにした。
「何か飲んで待ちましょうか」
リビングに入るや否や、恵凛はそう言ってキッチンへ向かう。次いで、「座って待っていてください」と言われたので、慧は素直に従い、ダイニングチェアに腰かけた。
「そう言えば、今日は麦茶以外にも用意があるんですよ」
キッチンから恵凛の嬉しそうな声が聞こえてくる。そして、
「オレンジジュースにリンゴジュース。あと、初めてサイダーも買ったんです!」
と、恵凛は冷蔵庫から二リットルのペットボトルを次々と取り出す。その姿は、無邪気な幼子そのものである。
「どれにしますか?」
「うーん。それじゃあサイダーをいただこうかな」
「はい。分かりました。氷はどうしますか?」
「お願いしようかな」
「ふふっ、はい」
始終笑みを湛えたまま答えると、恵凛は作業に戻る。
(一瞬不穏な空気になりかけたけど、たった数秒で明るい雰囲気に戻すなんて、恐ろしい才能の持ち主だな……)
心の中で恵凛の純真無垢さを評価していると、
「お待たせしました~」
ご機嫌な恵凛がコップを両手に一つずつ持って戻って来た。
「ふふっ、私もサイダーにしちゃいました」
恵凛は慧の手元にコップを置きながら言葉を付け加え、自分は対面の席に腰かける。
「ありがとう。いただきます」
「はい。召し上がれ」
典型的な受け答えをして、二人は渇いた喉にサイダーを流し込む。
「んー! やっぱ炭酸はサイダーだな」
一気に三分の一程飲んだ慧に反し、恵凛は目を細めてちびちびとサイダーを飲む。
「ははっ。まだ慣れないんだね」
「はい。味は好きなんですけどね。まだこのしゅわしゅわ感に慣れなくて、一気に飲めないんですよ。でも、少しずつ飲むのもこれはこれで病みつきになると言うか……」
恵凛は分析結果を話しつつ、尚もサイダーを飲む。無理に飲んでいるようだったら止めるつもりでいた慧も、楽しそうに、かつ興味津々でサイダーを飲む恵凛を見ていたら、なんだか止めるのは無粋なような気がしてきたので、何も言わずに見守ることにした。
(待ってるだけって言うのもアレだし、なんか流すか)
一足先にクールダウンした慧は、机上に置かれたままになっていた音楽プレイヤーとスピーカーを繋ぎ、サイダー片手に曲を選ぶ。ラインナップは一昔前の曲ばかり。ジャンルも歌手も雑多で、慧が小、中学生の時にドラマや映画、コマーシャルなどで起用されていたヒット曲が多く並んでいる。その中から、確か夏のビールだか炭酸飲料だかのコマーシャルに起用されていた爽やかな曲を選び、再生ボタンを押す。すると忽ち曲が流れ出し、二人は音楽に包まれる。
「……良いですね。ライブとは違って、しっかり身体に染み入る感じがします」
サビが終わった辺りで、いつの間にかサイダーを飲む手を止めていた恵凛が呟くように感想を述べる。
「だね。ライブはどちらかと言うと、全身に力が漲るというか、力が湧くというか、そういう感じだもんね」
「はい。そんな感じです。でもお家だと、気持ちが昂っていないせいか、歌詞がじっくりと聞けていいですね」
「へぇ~、龍宮はメロディよりも歌詞が先に入ってくるタイプなんだ」
「うーん。どうなのでしょう。聞き始めたばかりでハッキリとした好みは分かりませんけど、何となく歌詞が入って来ますね」
「そっか。それなら……」
慧はそう言って再生途中のプレイヤーを手に取ると、一つだけ存在するプレイリストを開き、一番最初の曲から再生する。すると間もなくアコースティックギターの演奏が始まり、それから数秒後、ややハスキーな男性の歌声が流れ始める。
「演奏がギターだけ、ですね?」
「うん。前に雀野がライブのリハでやってたみたいに、自分一人でギターを弾きながら歌ってる人なんだ」
「弾き語りという形式ですね?」
「そうそう。でもこの人は、ギターだけじゃないんだよね」
そう答えながら慧は矢印の右ボタンを押す。すると今度はピアノの演奏から曲が始まる。
「ピアノも!」
「そう。ピアノの弾き語りもするんだよ。あとシンセを使った曲も……」
興が乗って思わず早口になり始めていた慧だが、目を閉じて曲だけに集中している恵凛の姿が視界に入り、慌てて口を閉じる。そして自分も久し振りに、スピーカーから流れる好きな歌手の好きな曲と好きな歌声に浸った。
……それから十数分が経過し、五曲目が終わったところで恵凛が瞼を上げる。
「良い曲ばかりですね。もっと色んな曲が聞きたいです」
「ほんとに?」
「はい。ゆったりと明るく優しいメロディーに詩的な歌詞がマッチしていて、とても聞き心地が良かったです」
「そうそう。そこが良いんだよね、この人は」
「ふふっ。風見君はこのアーティストさんが大好きなんですね」
「えっ、なんで?」
「ずっと楽しそうに話しているからです」
「ははっ、そっか、バレてたか。実はこの人、俺が唯一アルバムを集めてた人なんだ」
「そうなのですね。お気に入りを聞かせていただき、ありがとうございます」
「いやいや。こっちこそ、押し付けるようなことしちゃったのに聞いてくれてありがとう」
「いいんですよ。元々風見君の好きな曲を聞きたいと言ったのは私なんですから」
「そう言えばそうだったね」
「はい。他にも聞いていいですか?」
「うん、もちろん」
……その後二人は慧の素人説明付きで色々な歌手の色々な曲を聞き、夕方五時の鐘が鳴ったことでようやく時の進みに気付き、プレイヤーを止めた。
「ありがとうございます。とても参考になりました」
「そっか。なら良かった。けど、今日聞いたのは古い曲ばっかだから、雀野と話すためにはもう少し最近の曲も聞いといた方が良いかもね」
「そうですね。今日聞いて把握した好みを元に、自分でも色々と聞いてみようと思います!」
「うん。良いね。俺も探してみるよ」
慧は賛同を示しながら、何でも純粋に楽しみ、スポンジのようにどんどん吸収する恵凛に感心する。こんな彼女だからこそ、みんな色々話したくなるんだろうな。なんて慧が思っていると、リビングのドアが開いた。そして、食器の乗った盆を持つ三宅が入って来た。
「あっ、三宅さん。伊武の様子はどうですか?」
「朝はまだ幾分か良かったようですが、今は体を起こすのも辛いようでして……」
遣る瀬無い様子で答える三宅を見て、慧は三宅の持っている盆に視線を移す。そしてそこに、ほとんど手の付けられていない料理たちを発見して、伊武の容態を何となく察した。
「そうですか……。今日お話しするのは難しそうですね」
「うん。みたいだね」
そう答えながら、まさか本当に体調を崩しているとは……。と、慧は心の中で呟き、自分の中で違うベクトルの心配が増幅するのを感じた。
「まぁでも、雀野のことは話せたし、今日はこの辺で解散にしようか」
「そうですね。何か進展や変化があったらご連絡します」
「うん。ありがと。俺も一応メッセージを入れてみるよ」
話して音楽を聞くだけの時間になってしまったが、それでも璃音の問題解決に向けてほんの少し前進したということで、慧は未練無く席を立ち、音楽プレイヤーとスピーカーを回収し、恵凛と三宅に挨拶をして龍宮宅を後にした。
帰宅後。自室に入った慧はベッドに寝転がり、スマホを開く。
(ここ数日ずっと切羽詰まってたけど、何となく今日で一区切りついた感じがするな。まぁ、何も解決はしてないけど、喉に支えてた小骨が取れた。みたいな……。って、何言ってんだか。とりあえず、江波戸にメッセージを入れておこう)
数多の峠を越えて一時的な休息地点に到達した慧は、伊武にメッセージを送ると、いつでも再出発ができるように、いつまで続くか分からない休息を思う存分享受するのであった。
こんにちは。玉樹詩之です。
あとがき恒例、次週は休載のお知らせです。
梅雨が明け、夏に入り、体調も筆の調子も優れず、ギリギリで書いている状態が続いていたので、ここらでリフレッシュをさせてもらおうと思います。
それとは別に、八月はもう一回休載を挟む可能性があるという事だけ書き記しておき、今回は終わろうと思います。
今週もお読みいただきありがとうございました。
読者の皆様も、どうか体調にはお気を付けください……。




