第九十五話 隠された思い
白いドアを抜けて踏み入った店内は薄暗い。間もなくクロコの手でライトが点けられたが、それでも店内は薄暗い。しかしこの薄暗さは慧のイメージ通りであり、気に入った。逆に気になったのは、店内が思っていたより狭いことである。スナックにはカラオケを歌うステージがあると勝手に思い込んでいた慧としては、少々期待外れであった。そんなスナックハーバーの店内を大雑把に説明すると、奥行きはあるが横幅は無いと言った感じで、店内右側にはズラリと黒いソファと四角いテーブルが設置されており、店内左側には店の奥まで続くカウンターがある。そしてそのカウンターの内側には洒落た棚が設置されており、そこには高いとも安いとも知れないワインがそこそこに並んでいる。と言ったシンプルな内装になっており、カウンター席とソファ席の間には、人と人が何とかすれ違えるくらいの隙間が空いていた。
「突っ立ってないで座ったら」
既にカウンターの中に入っているクロコが、出入り口で立ち止まっていた慧と堤に声を掛ける。
「行きましょう」
慧を促すように、或いは勇気づけるように呟いた堤は、出入り口に近いカウンター席に腰かける。それに続き、慧もカウンター席に着く。
「で、用件は」
クロコはぶっきらぼうに言い放つと、カウンターの上に置かれている灰皿を引き寄せる。するとそれを見て堤が、
「煙草、吸うつもりですか?」
と問いかけた。
「えぇ。悪い?」
「出来れば高校生の前では控えてほしいのだけれど」
「はぁ、ならさっさと済ませて」
クロコはキッと堤を睨むと、煙草のケースを叩きつけるようにしてカウンターに置く。
「え、えっと、それじゃあ早速」
睨み合う堤とクロコに気圧されながら、慧が話を始める。
「昨日の事なんですけど、俺たちが逃げ出した時、なんで止めなかったんですか? あの位置なら呼び止めるくらい出来ましたよね?」
「あの男の指示に従いたくなかっただけよ」
「本当は俺たちとあの男の、店長のやり取りを聞いてたんじゃないですか? 江波戸の言葉を聞いたんじゃないですか?」
「聞いてたら何なの」
「江波戸の言葉を聞いたから、あの時あなたは何もしてこなかったんだと、俺は思ってます。違いますか?」
「ふんっ。バカバカしい。妄想のし過ぎなんじゃない?」
慧の真剣な問いを鼻で笑うと、クロコは右手を煙草のケースまで伸ばし、その上に乗っているライターを手に取って弄ぶ。
(あの時の様子や態度からして、ほぼ間違いなく江波戸の言葉を聞いてるはずなのに、それを裏付ける決定的な証拠が無いから上手く躱されてるな……)
一切顔色を変えないクロコに慧は困り果てる。するとそれを知ってか、
「話は終わり?」
と、クロコは冷淡に、急かすような言葉を呟く。
「いや、その……」
ここで逃がすわけにはいかない。咄嗟にそう思った慧は口を開くが、声を発したというだけで、クロコを追い詰めるような言葉は浮かんでこない……。そうして数秒間慧がどぎまぎしていると――
「素直になるのが一番だと私は思いますよ?」
鷹揚な口調で堤が割り込んだ。
「は? 素直?」
「えぇ。娘さんに対してはもちろん。自分の気持ちに対しても。ですよ」
そのセリフを聞いたクロコは再度堤を睨み、敵意をむき出しにする。しかし好戦的なのは態度だけで、口答えはしない。すると、
「私、弟がいるんですよ」
それを好機と判断したのか、堤が話を続ける。
「今はマシになったんですけど、小さい頃はとても無口で、何を考えているのか少しも分からないような子でした。正直、あまり仲良くありませんでしたね。でも、両親が共働きだったから、私が面倒を見てあげないといけないことも多くて。だから私は一生懸命お姉ちゃんを務めてました。そしたらある時。確か、私が高校三年生で、弟が高校一年生の時でしたかねぇ。父が単身赴任で不在の間に、母が流行病で寝込んでしまって、私と弟、二人で生活しないといけない時が来たんです。でもその時の私は、受験勉強とかバイトとか学校行事とかで毎日忙しくて。それなのに家事もしなきゃいけなくなって。それで、たったの数日でキャパオーバー。つい弟に当たってしまったんです。そしたら当然弟といるのが気まずくなって、家にいても気持ちが休まらなくなって。高校生の私は限界を迎えたんです。もう何もかも辞めたい。全部投げ出したい。そう思った私は、弟に全部話しました。頑張ってお姉ちゃんするのは疲れた。もう何もしたくない。ついでに、あんたのことが未だに何も分からないって。本音も弱音も全部話しました。話してる最中、積み上げてきた私がボロボロ崩壊していくのが分かりました。でも、それが不思議と清々しくて、その日はグッスリ眠れましたよ。とは言え、本当にそれで全部投げ出せるわけでもないので、翌朝起きた私は、今日からまた頑張ろうって気合いを入れてリビングに行ったんです。そしたらビックリ! 掃除も洗濯もゴミ出しも終わってて、テーブルには朝ご飯が並んでいたんです。それを見て私、母が回復したんだと思いました。でも、ダイニングには弟しかいなくて。それで弟に聞いたんです、誰がやったの? って、そしたら弟は、俺がやった。とだけ答えたんです。……それ以来、私と弟はよく話すようになって、弟から話し掛けてくれることも増えて、今では仲良しです。フフッ。まぁ、相変わらず口数は少ないですけど」
思い出に浸るような落ち着いた声音で滔々と語っていた堤は、頬を綻ばせながら話を終えた。そんな堤の語りに聞き入っていた慧とクロコは、話が終わっても尚何も反応することができず、沈黙が流れる。するとその空気に気付き、またしても堤が話し出す。
「あっ、ごめんなさい。お酒も飲んでないのに思い出に浸っちゃったわ。えっと、つまり私が言いたかったのは、自分の本当の気持ちと向き合って、その向き合った本当の気持ちを素直に伝えたら、周りもそれに応えてくれるってことです」
堤は曇りない笑顔を浮かべてそう言うと、クロコを見つめる。
「はぁ、それはあんたの場合でしょ……」
ようやく反応を示したものの、クロコは呆れた調子である。しかしその言葉と態度の端々には、嫉妬や嘆きや羨望の影が見え隠れしているようにも思えた。
「そうですね。私は弟で、あなたは娘さんですもんね。きっと私より難しいですよね。でも、難しいからって逃げてはダメだと思うんです。今向き合わないと、今後どんどん苦しくなるだけですから」
「ちっ、そんなこと……」
クロコは舌打ちをして忌々しそうに呟き、堤から視線を逸らす。
(分かってるんだ。きっとこの人も、今向き合わないとダメだって分かってるんだ……)
俯くクロコを見てそう感じた慧は、考える間もなく口を開く。
「アイツ、待ってますよ。それも、ただ待ってるだけじゃありません。自分も変わろうと頑張ってます」
勝手に伊武の心を代弁するような形になってしまったが、それでも慧は伝えたかったのだ。伊武が頑張っているという事を。仲直りを願っているという事を。しかしクロコは視線を逸らしたまま答えない。そうして数秒が経過した折、出入り口のドアが開いた。
「お疲れ~。って、あら、どちら様?」
白いドアを抜けてきたのは、厚化粧をした女性であった。
「あっ、ママ。お疲れ様です。二人は私の知人で、仕事の前に会いたいって言うから少し話してたんです。勝手に入れちゃったのは、その、すみません」
先ほどまでつんけんしていたクロコは畏まって答える。
「良いの良いの。謝らないで~。ロコちゃんが知り合いを連れて来るなんて初めてなんだから。どうぞ、このままゆっくりしていって。と、言いたいところだけど……」
ママと呼ばれた女性は慧を見て言葉を濁す。それで何かを察したのか、堤は椅子ごとくるりと回り、席を立つ。
「開店前にお邪魔してしまって申し訳ありません。話は済んだので帰ります」
堤はそう言いながら頭を下げる。それを見て慧も慌てて席を立つと、同じように頭を下げる。
「ウソウソ! 冗談よ。保護者がいるなら居ても構わないわ」
「ありがとうございます。でも、今日は車なので失礼します」
「あらそうなの? それじゃあまた来てね。女性一人でも歓迎してるから」
ママはそう言いながら堤に歩み寄ると、名刺と紙片を差し出す。堤はそれを受け取って軽く頭を下げると、慧を連れてスナックを出る。結局、クロコの本心を聞き出すことは叶わなかった。
「はぁ、私、話し過ぎちゃったわね」
店を出た堤はため息と共に苦笑を浮かべる。
「いえ、そんなことないです。俺は先生の話、響いてたと思いますよ。絶対とは言い切れないですけど、なんとなく心が揺らいでいるように見えた瞬間があったんです。だからこそ、俺も最後に一言ぶつけようと思ったわけですし」
「そうね。今日やれることはやり切ったのかもしれないわね。となるとあとは、彼女の心が変わると信じて待つしかないわね」
「ですね」
そこで会話は途切れる。そして各々物思いに耽りながら歩みを進め、コインパーキングのある直線に差し掛かったところで、堤がつと話を再開する。
「あっ、そう言えば、叔母ってことにしちゃってごめんなさいね?」
「いえ、俺は全然」
「良かった。それなら、これからも彼女と接触する時にはそう言うことにしておきましょう」
「はい。その方が何かと都合が良さそうですもんね」
「えぇ。よろしくね」
短い会話の中で些細な約束を交わし、二人は車に乗り込む。
そうして慧は堤の車で自宅まで送り届けられると、日課となっている諸々の用事を済ませ、ベッドに入り、早い眠りについた。
翌朝。目を覚ました慧が何気なくスマホを起動すると、メッセージが入っていることに気付いた。
『こんばんは。明日も一緒に登校しませんか?』
メッセージは恵凛からであった。文面からして、これは昨晩送られたものらしい。
『ごめん。寝てて気付かなかった。もちろんいいよ』
慧は寝ぼけている頭で何とか単語捻り出し、それを箇条書きのようにして送る。すると間もなく、
『おはようございます。お疲れ様でした』
という労いの文に謎の絵文字が添えられたメッセージがまず入り、それに続き、
『登校の件。ありがとうございます。お時間は昨日と同じくらいで大丈夫でしょうか?』
という真面目なメッセージが届いた。慧はそれに、『うん。大丈夫』とだけ送り、登校の準備を始める。
やり取りから約二十分後。着替えを終え、朝食のバタースティックパンも食べ終えた慧は、約束通りの時間に家を出る。そして隣家の門扉前に立ち、一応恵凛にメッセージを送ろうとしたのだが、それよりも前に玄関ドアが開いたので、慧はスマホをポケットにしまった。
「あっ、おはようございます」
出てきた恵凛は微笑みながら挨拶をする。そしてその後に続き……。伊武が出て来ると思っていたのだが、玄関ドアは静かに閉まった。
「あぁ、うん。おはよう」
「伊武のこと、気になりますよね」
慧が返事に詰まったせいか、恵凛は早速問題に切り込む。
「まぁ、そうだね」
「実は昨日から部屋に籠り切りでして……。今朝も声を掛けはしたのですが、体調が悪いから行きたくないの一点張りで」
「そっか……」
「はい。ですから、今日学校が終わったら、私と一緒に伊武の話を聞いてあげて欲しくて」
「うん。そうしよう。俺も気になるし」
「ありがとうございます。それと、璃音の方でも問題がありまして」
「え?」
てっきり伊武の報告だけだと思っていた慧は、思わず声を漏らしてしまう。
「その、璃音が、浜崎さんと仲直りするために曲を作ると言い出したのです。それで、参考程度に私の好きな歌手を聞かれたのですが、私、音楽はクラシックしか聞かなくて……。ですので、風見君にアドバイスを貰えたらなと思いまして……」
「な、なるほど……。分かった。それじゃあそれも含めて、今日は学校が終わったら龍宮の家でゆっくり話そう」
「はい。ありがとうございます」
予想外のことが次々と起きた朝の一幕を終え、慧と恵凛は駅を目指して歩き出した。




