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第九十四話 夜の街へ

 帰宅した慧は真っすぐ自室に向かうと、数少ない私服の中からなるべく大人っぽく見える服を選び出してそれに着替える。次いでお出かけ用のショルダーバッグにラヴィ一式やら財布やら鍵やらの小物を移し入れると、早々に自室を出る。そうしてこの勢いのまま出掛けてしまっても良かったのだが、突然喉の渇きを感じたので、一度キッチンに立ち寄り、麦茶で喉を潤した後、慧は家を出た。


【思いの外順調に話が進みましたね】


 喫茶店に向かう道中、装着していたイヤホンからラヴィの声が聞こえて来る。


「うん。まぁまだ会えるって確定したわけじゃないけどな」

【はっ! 確かに。出勤していなかったらお会いできませんね!】

「そう。だから、今日居てくれたら助かるんだよな、堤先生の都合もあるし」

【そうですね。しかしこればかりは時の運。お会い出来なかったら、また次の機会が巡って来るのを待つか、他の策を考えるしかありませんねぇ】

「あぁ。でも、今日会えないって確定したわけでもないし、今日は今日でやれることをやるよ」

【ご主人……! 成長しましたね……!】

「はいはい。どうも」


 慧はラヴィの大袈裟な称賛を雑に聞き流すと、青になった横断歩道を渡り、駅前にある喫茶店に入る。


「いらっしゃいませ」


 ドアの上部にぶら下がっているベルが柔らかな音色を奏でた後、低く渋い声が慧を迎える。声の主は誰だろう。そう思った慧は入口から少し進み、曲がり角から店内を覗き込む。するとすぐさまカウンターに立つ男性に視線が行く。とても背が高いので自然と目が留まったのである。と言うのは理由の半分で、残りの半分は顔面の大半が眼鏡と口髭によって秘匿されている驚きのため、視線が向いたのであった。


(あの人が堤先生の弟さんか? てかこの店、営業中だよな?)


 パッと見回した店内に客が一人もいないので、もしかしたら準備中の店に入ってしまったのだろうかと思い、慧は急に不安になって来た。するとその直後。

 ――カランコロン。

 と、つい先ほど聞いたばかりの音色がすぐ背後で聞こえる。そしてそれに続いて声が掛かる。


「あら風見君。もう来てたのね」


 振り向いた先には堤が立っている。


「こんなところで何してるの? 座って待っていれば良かったのに」

「あぁ、いえ、俺もたった今来たところで」

「あら、そうなの? それなら私と一緒に行きましょうか」


 堤はそう言うと真っすぐカウンターに向かい、カウンターに立つ男性に手慣れた挨拶をし、カウンターチェアに腰かける。その光景を見て、やはりあの人は弟なのだろう。と、無意味な推測をしつつ慧も歩き出す。

 慧がカウンターチェアに着いて間もなく。「あっ、これ、弟」と、あっさり答え合わせが為される。何となく気付いていた慧は、「あぁ、そうだったんですね」と、月並みの言葉を返し、カウンターの向こう側でグラスを磨いている、ザ・マスター。と言った風貌の弟に会釈をした。


「うーん、そうね……。二人とも堤だし、呼ばれたがってたし、弟のことはマスターって呼んであげて」

「わ、分かりました」


 マスターっぽいなぁ。と思っていた自分の脳内を読まれたのかと思い一瞬驚いた慧だが、きっとたまたま重なっただけだろうし、それにもし本当に読まれていたとしても、別段気にすることでもないと思い、慧は素直に堤の申し出を受け入れる。


「良かったわね、マスター」


 堤が茶化すと、ポーカーフェイスだったマスターは少しだけ頬を赤らめ、小さく会釈をした。


「見た通りシャイな子だけど、話を聞くのは大好きだから気にせず話し掛けてあげて」


 苦笑を浮かべながら堤が付け足す。慧はそれに「はい」と答え、益々マスターらしいな……。と心の中で呟いた。


「さてと。弟の紹介も済んだことだし、フレンチトーストとブレンドを頼もうかしらね。あっ、風見君もブレンドで良いかしら?」

「えっ、は、はい」

「それじゃあフレンチトーストとブレンドを二つずつ。よろしく、マスター」


 茶化しの有効期限は既に切れたようで、マスターは無表情で黙って一礼すると裏に引っ込んだ。


「この店の売りなのよ、フレンチトースト」


 断る間もなく終了した注文に慧が呆けていると、堤が話を再開する。


「しっとりと甘いトーストにフワフワのホイップクリーム。典型的でシンプルな一品だけど、それがコーヒーとよく合うのよねぇ~」

「そ、そうなんですね」

「あっ、もしかしてお代を気にしてるの? 大丈夫よ。私が払うから」

「えっ、あぁ、いや、お代も気になってはいましたけど……」


 時間は大丈夫なのだろうか? と思う慧だが、勝手のいい言葉が見当たらない。すると、


「こんな悠長にしていて良いのかってこと?」


 それを察した堤が正解を言い当ててくれた。本当に脳内を見られているのかもしれない。そんなくだらない事を考えながら、慧は短く「はい」と答える。


「ふふっ、大丈夫よ。こんな早くにスナックは開店しないから」


 鷹揚に答える堤を見て、何となく慧の心にもゆとりが生じて来る。


「とは言っても、注文する前に説明しておくべきだったわね。ごめんなさい」

「いえいえ、全然大丈夫です」

「ふふっ、ありがとね」


 堤は分かりやすい感謝の笑みを慧に向けた。

 それから数分後、マスターが戻って来た。慧と堤の前には注文した品が並べられる。


「来た来た。相変わらず華は無いけど、これが良いのよね~」


 嬉しそうに独り言を漏らした堤はフォークとナイフを手に取り、早速フレンチトーストを切り始める。それを隣で見ていた慧も堤に倣ってフレンチトーストを一口サイズに切り出すと、不格好なひと欠片をフォークで刺し、ホイップクリームを少し掬い取り、そのまま口へ運ぶ。まずは滑らかなホイップクリームを舌で感じ。次いでしっとり柔らかなトーストの食感を噛み締める。そしてその食感に沼って咀嚼を進めると、トーストからはじんわりと甘い卵液が溢れ出し、それが溶け始めたホイップクリームと混ざり合い、口内には甘い泉が生じる。


「どう? 美味しいでしょう?」


 自慢げに聞いて来た堤に慧は頷いて応える。一方調理した当人であるマスターは無言でグラスを磨いている。表情が変わらないので喜んでいるのかも分からない。そんな弟に代わり、


「時間はたっぷりあるから、ゆっくり味わってちょうだいね」


 姉は随分と嬉しそうである。慧はそれに笑顔で「はい」と答えると、二人はじっくりとことんフレンチトーストとブレンドコーヒーを味わうのであった。

 残すところコーヒーのみとなった所で、夕方五時を告げる鐘が鳴る。堤はそれを聞いてコーヒーの最後の一口を飲み干すと、右手に持っていたカップを静かに置き、


「そろそろ行こうかしら」


 と、慧に言ったともマスターに言ったとも取れる中途半端な発言をして席を立つ。


「ごちそうさま。今日も美味しかった。あと、人手が足りないときはいつでも呼ぶのよ」


 身内と話しているせいか、いつもより砕けた調子で話しながら堤は支払いを済ませる。


「じゃ、ちょっと行ってくるわね」


 財布とスマホをバッグにしまうと、堤はカウンターを離れる。


「ごちそうさまでした。美味しかったです。また来ます」


 残りのコーヒーを飲み干し、慧も手短に挨拶を済ませると、小さく会釈をするマスターから視線を外し、堤の後を追って喫茶店を出る。

 店を出てすぐにある狭い駐車場には白い普通車が停まっていた。慧が喫茶店に訪れた時点では停まっていなかったので、これは堤が乗ってきた車なのだろう。なんて考察をしていると、車の向こう側からひょこりと堤が頭を出した。


「車で行くんですか?」


 慧は歩み寄りながら声を掛ける。


「えぇ。車の方が何かと都合が良いと思って。あと、電車はあまり好きじゃないのよね」

「そうなんですね……。なんかすみません。色々と迷惑かけてしまって」

「いいのよ。手伝うって決めたのは私なんだから。さぁ、乗って」


 堤はそう言うと助手席から離れ、運転席に乗り込む。慧はそれを見届けた後で車の向こう側に回ると、開けっ放しの助手席に乗り込んだ。


「そう言えば、お店って何時くらいに開くんですかね?」


 走り出して少し経った折、慧が口を開く。


「そうねぇ。大体六時とか七時だと思うけど」

「えっ、だとしたら少し早くないですか?」

「えぇ。でも、それでいいのよ。出勤前に当たるつもりだから」

「出勤前ですか?」

「そう。保健室で君と別れた後に考え直したの。やっぱり君はお店に入れない方が良いかなぁって。だから、今日はお店の近くで待って、江波戸さんのお母さんが来たら話しかけるって方針にしたいのだけど、どうかしら?」

「まぁ、そうですよね。先生の立場もありますし、俺も停学とか退学は避けたいですし」

「そうなのよ……。でも、これはあくまでも私の意見であって、風見君がどうしてもと言うなら私も腹を括るわよ」

「いえ、流石にそこまでは言いませんよ。と言うか、江波戸の母親と一対一で話せるならそっちの方がありがたいです」

「ふぅ、なら良かった。腹を括るとは言ったけど、正直こうなることを願っていたのよね~」


 堤は冗談めいた本音を告げて笑みを浮かべる。その横顔を見て慧も笑みを浮かべ、話が一段落すると、丁度信号が青に変わった。

 その後約二十分のドライブを経て、車は安雲橋駅北口にある小さなコインパーキングに停車した。


「ここからは徒歩で行くわね」

「はい」


 慧は堤の指示に従って車を降り、ほとんど馴染みのない安雲橋北口の地に踏み入る。

 恐らく馴染みが無いのは慧に限った話ではない。北口側には居酒屋やスナック、バーやパブなど、酒類を提供する店が多く、点在する雑居ビルにはマニアックな店か怪しげな店が詰め込まれているため、大人が遊ぶ区画。というイメージが強く、未成年者は寄り付かないのであった。一応ゲームセンターやボウリング場、カラオケなどもあるにはあるが、それらは南口の方にもあるので、強いて北口の店舗を利用するという事は無いのである。


「こっちにはあまり来たこと無いでしょ?」

「はい。初めて来ました」

「そうよね~。学生が行くような店が無いものね」

「そうですね。南口に行けば大体用が済むので」

「じゃあ今日は、他の子たちより先に大人の街に踏み込むってことね」

「ははっ、大袈裟ですよ」

「そうでもないわよ」


 堤に言われて辺りを見回すと、確かに周囲にはスーツを着た大人の姿ばかりが映る。制服姿なんてもちろん見当たらない。


「ね? 君と同年代の子は一人もいないでしょ?」

「みたいですね。なんか急に緊張してきました……」

「ふふっ。大丈夫よ、私から離れなければね」


 そう言って歩き出す堤に続き、慧も慌てて歩き出す。

 しばらくは車がすれ違えるくらいの道を歩いていたが、その道も次第に狭くなっていき、気付けば車がギリギリ通れるくらいの狭い道に来ていた。その通りには飲み屋ばかりが並んでおり、街頭はほとんど機能しておらず、店の灯りが街頭代わりになっていた。


「多分ここら辺なんだけど……」


 右手にスマホを持って歩いていた堤は突然立ち止まり、辺りを見回す。そして、


「あっ、あの店ね」


 と呟く。その視線の先には、スナックハーバーライト。と書かれた看板が立っている。しかし電飾はまだ点灯していない。


「やっぱりまだ開いてないみたいですね」

「そのようね。近くで人が来るのを待ってみましょうか」


 目的地を見つけた二人が踵を返すと、幸か不幸か、向こうからクロコが歩いて来た。そして間もなく慧はクロコを見つけ、クロコも慧を見つけた。


「なに。ここまで来たの……?」


 クロコは慧を睨みつけて呟く。


「こんばんは。昨日のことで聞きたいことがあって来ました」


 ここで怖気づいてはダメだ。そう思った慧は強く出る。


「別に良いけど、それは学生生活を棒に振ってまで聞きたいことなわけ?」


 しかしすぐにハードカウンターが返って来る。


「お、脅しですか?」

「脅し? 学生が飲み屋街を歩いていたって報告するのは正しい事じゃない?」


 先手必勝を狙ったものの、慧はあっさり劣勢へと追い込まれてしまう。するとそこに――


「私が付き添いとしていますので、大丈夫だと思いますよ?」


 と、堤が助け舟を出した。


「誰?」

「叔母です。この子から聞きましたよ。あなたと関係のある人に襲われそうになったと」

「はぁ。私は関係ない」

「そうですか。それじゃあ、あなたが娘さんに暴力を振るうところも見たというのは?」

「……分かった。答えるわよ」


 クロコは渋々答えると、慧たちの横を抜けてスナックハーバーライトの前まで移動する。そして二人に目配せをしてドアを開けると、中に入って行った。


「入れってことですかね……?」

「行ってみましょう」


 怪しくはあるが、この絶好の機会を逃したくなかった二人はクロコに続いてハーバーライトのドアを抜ける。

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