第九十三話 次の一手
玄関ドアの鍵をかけ、完全に一人になった慧は靴を脱ぐよりも前に鞄からイヤホンを取り出す。
「今日の俺の対応、どうだった? 合ってたと思うか?」
耳にイヤホンを着けるや否や、慧はやや早口に問いかける。
【ず、随分と急ですね? えーっと、その、まぁ良かったと思いますよ】
「良かったと思う? なんか雑だな」
【それはそうですよ。簡単に白黒付けられる問題ではありませんからね。それに、そんな急に聞かれましても、私にだって分析だとか、考察だとか、色々と準備があるんですから、すぐに答えを出すというのは難しいですよ】
「うーん、確かに。じゃあ先に手洗いうがいを済ませて来るから、その後で話の続きをしよう」
【はい。承知しました】
ラヴィに窘められた慧はようやく靴を脱ぎ、玄関から離れる。そして手洗いうがいをサッと済ませてリビングに戻って来ると、ソファに腰を下ろし、ラヴィとの話を再開する。
「終わったぞ」
【少しは落ち着きましたか?】
「えっ、落ち着く? なんで?」
【珍しく焦っている様子だったので】
「あぁー、雑に答えたのはそう言うことか」
【はい】
「まぁ実際焦ってたかもな。いや、不安だった。の方が正しいのかな」
【不安、ですか?】
「うん。なんか、考え込んでる江波戸の顔を見てたら、逃げる選択をしたのは間違いだったかもしれない。もしかしたら江波戸は、母親と話をしたかったのかもしれない。って思えて来てさ」
【ほう。それでじわじわと不安が大きくなって今に至るというわけですね?】
「うん。そういうこと」
【なるほど。私の所感を述べさせていただくと、ご主人は間違いなく江波戸氏を救ったと思いましたけどねぇ。だって、母親と仲直りするにしても、まずは身の安全が第一でしょう? ですから、ご主人の判断は間違っていなかったと思いますよ】
「そうかな……? もしかしたら、今日以上の機会は今後訪れないかもしれないんだぞ? 俺がそのチャンスを潰したかもしれないんだぞ? それでも俺の判断は正しかったって言えるのか?」
【なるほどなるほど。ご主人は、逃走も成功させつつ、江波戸母娘の対話も成功させたかったのですね?】
「まぁ、端的に言えばそうなるな」
【ふむ、お気持ちは分かります。ですが、あの状況で逃げることと江波戸母娘の仲直りとを両立しようなんて、高望みが過ぎますよ。ですからやはり、今日はあの選択で良かったのだと私は思います】
「……そうだよな」
【はい。今日はあぁする他にありませんでした。ですから凹む必要はありません。むしろ、逃げることをすぐに選んだご主人は偉いと思います。もしもあの場で優柔不断が発動し、少しでも判断が遅れていたら、江波戸氏の身は危険に晒され、母親とも仲直り出来ない。なんて一番のバッドエンドを迎えていた可能性もあるんですからね!】
「確かに。最悪の事態は避けれたのかもな」
【はい。ですので、過ぎてしまったことは忘れましょう! ご主人の不安をかき消すためにも、江波戸母娘を仲直りさせるためにも、今我々がすべきは、次の策を考えることです!】
「次の策って言われてもな……。結局何も糸口が無いし……」
【糸口が無い! 待っていました、その言葉を!】
「な、なんだ? 壊れたか?」
【壊れていません! 正常です!】
「急に変なこと言うから……。まぁいいや、で、その言い方だと、何か策があるんだよな?」
【はい、もちろん! ご主人が、江波戸母娘の架け橋になる作戦です!】
「か、架け橋?」
【はい。既に歩み寄ろうとしている江波戸氏は一旦置いといて、この作戦の肝は、母親の方を引っ張り出すことなのです】
「はぁ、なるほど……」
【今日、ご主人が江波戸氏の母親を見ている数秒間、私も観察をさせてもらいました。その結果、なんとなく表情に迷いが見えたんですよね。もしかしたら彼女は、玄関でのやり取りを聞いていたのかもしれません。ご主人もよく思い出してください。どこか不自然ではありませんでしたか?】
ラヴィの提案を受けた慧は、早速クロコと遭遇した瞬間を回想する。前回よりも柔らかい物腰。数秒間の意味深な沈黙。娘を凝視する瞳。そして最後に、すれ違い様に何もしてこなかったという迷いの看過。或いは慈愛。それらクロコの一連の行動を具に思い出すと、慧は小さく頷く。
「……確かに、聞いてたのかもな」
【ご主人もそう思いますよね?】
「うん。あの時は逃げることで頭が一杯で不自然さに気付けなかったけど、思い返してみると、確かに様子はおかしかった気がする」
【ですよね! 江波戸氏を捕まえてくれ。と言う男の指示も無視していましたからね】
「うん。江波戸の言葉を聞いて心が揺れて、今日は何もしてこなかったのかも」
【大いにあり得ますね】
「うん。それにもし江波戸の母親が騒動を聞いてなかったとしても、様子がおかしかったのは確かだ。ってことは、どちらにせよ、今日何かあった可能性は高い」
【ですねですね!】
「母娘の架け橋作戦、ありかもな」
【本当ですか!】
「うん。上手くいけば母親の本心に辿り着けるかもしれない」
【探りましょう、ご主人! 私も全力でお助けします!】
「うん。やってみよう」
こうして話がまとまると、慧はソファに放っていた鞄を手に取り、計画熟考のために自室へ戻った。
翌朝、家を出た慧は、恵凛と伊武と登校しようと思い、隣家のインターホンを押していた。恐らく二人きりでも問題ないとは思うのだが、恵凛に任せきりと言うのも申し訳ないし、昨日の一件で伊武がどうなっているかも心配だったので、慧はその二つの目標を果たすために二人を誘いに来たのであった。
「はい?」
少しすると、インターホンからは恵凛らしき声が聞こえて来る。
「おはよう。俺、風見」
「風見君! おはようございます」
「その、二人の様子が気になってさ。一緒に学校行こうかなって」
「ふふっ、そうだったのですね。私たちも今、丁度家を出ようと思っていたところですので、少し待っていてください」
「分かった。それじゃあ外で待ってるね」
「はい」
恵凛の短い返事を最後に、インターホンは無機物に戻った。慧は会話をするために丸めていた背中を真っすぐに戻すと、鉄柵脇の石塀に背を預けた。
数秒後、玄関ドアの開く音が聞こえる。その音に反応して慧が振り向くと、そこには恵凛と伊武が立っていた。
「お待たせしました~」
穏やかな挨拶と共に恵凛がこちらに向かってくる。その後ろには、昨朝よりかは幾分か機嫌の良さそうな伊武が付いて来る。
「おはよう。事前に連絡してなかったから驚いたよね?」
「はい、多少は。ですが全然気にしないでください。みんなで登校した方が楽しいですから!」
「そっか。良かった」
「はい。それでは行きましょうか」
「うん」
今日も今日とて恵凛という存在からは純粋な光が溢れ出ている。慧はそんな彼女の笑みに釣られ、自らも微笑みを浮かべて答えると、流れのままに歩き出そうとする。しかしその時ふと、恵凛の奥に立つ伊武の姿が視界に入る。彼女は眉間に皺を寄せ、何も無い地面とにらめっこをしている。スマホもいじっていない。……何か一言声を掛けるべきだろうか。なんて慧が考えている内に、
「行きましょう、伊武」
と、恵凛が先に声を掛けた。
「……ん」
対して伊武は魂の抜けたような返事をすると、朧気な足取りで恵凛と歩き出す。
(江波戸、大丈夫じゃなさそうだな……。これは早いとこ母親の本心を探り出さないと……)
未だに考え込んでいる伊武を目の当たりにした慧は、計画の前倒しを検討しつつ、二人に続いて歩き出す。
しかしそもそもの話、どうやってクロコに接触するんだ? 教室に着いて一人になった慧は、今更盲点に気付く。そして朝のホームルームが始まるまでの数分間、自分の席で打開策を思案する。まず真っ先に浮かぶのは、アパートに行く。という案だが、あそこにはまたあの男がいるかもしれないので、一旦保留に……。ならば安全面に焦点を当て、安雲橋駅周辺をうろうろして偶然出くわすのを待つ。という案が浮かぶが、これは流石に運ゲー過ぎるし、かかる時間も未知数過ぎるため却下……。と、なかなか良い案が思い浮かばないまま時間だけが過ぎていく……。その結果、一人で正解に辿り着くのは無理だ。という結論に至り、堤に聞いてみよう。という一番現実的で原初的な案に落ち着いたところでチャイムが鳴った。
放課後。恵凛に頼み込み、伊武を連れて帰ってもらった後、慧は一人で保健室に向かった。
「失礼します」
ノックして保健室に入ると、デスクで暇そうにしている堤が慧を迎えた。
「いらっしゃい。今日はやることが無くて暇だったのよ」
堤はそう言って立ち上がると、慧をソファに座るよう促す。
「珍しいですね。いつも忙しそうですけど」
「まっ、こういう日もあるのよ。それで、今日はどうしたの?」
「江波戸のことで」
「そうそう! 私も聞きたかったのよ。あの後どうなったのかしら?」
堤は軽快に話しながら対面のソファに座る。慧はそれを待ってから、先日喫茶店で別れた後の話を始める。まずはあの日別れた直後、連絡通り恵凛の家に泊ったこと。次いでその翌日に璃音とちょっとした勝負が始まったこと。そして最後に、昨日アパートで一悶着あったこと。それぞれを簡易的に伝え、慧は話を終えた。
「そう……。あれから色々あったのね」
「はい、ありました。まぁでも、宿泊先に関しては龍宮がしばらく泊めてくれることになりましたし、雀野の方も別に焦るような勝負じゃないので、今のところ気にしなきゃいけないのは、江波戸のことと江波戸の母親の事だけなんですよね」
「そうね。結局そこよねぇ……」
「はい。それで、先生に聞きたいことがあって来ました」
「あら、そこに繋がって来るのね。何でも聞いて頂戴」
「ありがとうございます。実は今、江波戸の母親に接触しようと思ってるんですけど、さっき話した通り、アパートに近付くのは怖いので、他にどこかで会えないかなと思いまして……。何か心当たり無いですかね?」
「な~るほど~」
明るい調子で答える一方、堤の表情は渋い。
「やっぱ無いですよね……」
「うーん。無いことも無い。って感じかしらね」
「えっ、何かあるんですか?」
「えぇ。けど、あまりオススメはしたくないわね」
「聞くだけ聞くってのはダメですか?」
慧が食い下がると、堤は小さく一息ついてから頷く。
「職場を知ってるの」
「江波戸の母親の?」
「そう。でも、未成年が行ける店じゃないのよ」
「えっと、それは――」
「別にエッチなお店じゃないわよ?」
「わ、分かってますよ! 居酒屋とかですよね?」
「まぁほとんど正解ね。スナックで働いてるらしいのよ」
「スナックか……。確かに俺一人じゃ厳しそうですね……」
「そうね」
テンポ良く進んでいた会話は突然途切れる。
そして数秒が経過したところで、
「……はぁ。一応私がいれば入れると思うけど、どうする?」
と、堤がため息交じりに提案する。
「先生……。良いんですか?」
「えぇ。でも、ぜっっっったいに! 口外しないって約束して」
「もちろんです。約束します」
慧は答えと共に力強い眼差しを向ける。
「そんな目をされたら信じるしかないわね」
「ありがとうございます。ちなみに、いつなら行けますかね? なるべく早く行きたいんですけど……」
「そうね、なら、今日はどうかしら?」
「きょ、今日ですか?」
「えぇ。念のため約束の言質は取ったけど、私だって一刻も早く江波戸さんを助けたいと思ってる。だから今日よ」
「分かりました、行きましょう」
「それじゃあ決定ね。でも、流石に制服では行けないから、一度家に帰って、喫茶店で合流しましょ」
「はい。分かりました。ありがとうございます!」
慧は改めて礼を述べると、恭しくお辞儀をして堤と別れ、帰路に就いた。




