第九十二話 本性
ドアベルが鳴って数秒。室内にはガサガサとゴミ袋の擦れる音だけが響く。
「出なくていいのか?」
お節介だと分かってはいるが、それでも慧は念のため伊武に声を掛ける。すると伊武は作業の手も止めず、慧に背中を向けたまま、
「別に出る必要無いでしょ」
と答えた。
「まぁ、そうだけどさ、確認だけでもしておいたら?」
「面倒だからいい」
伊武は尚も背中を向けたまま答える。
「じゃあ俺が見て来るよ」
そう言って慧が歩き出した直後。
――ドンドン! ドンドン!
玄関ドアが激しく叩かれた。
「だ、大丈夫か、これ?」
「……別にヤバい人とは絡み無いけど」
居留守を決め込もうとしていた伊武も流石に驚いたのか、作業の手を止めて慧の方を見る。
「やっぱり俺、見て来るよ。鍵かけてないのも怖いしさ」
「ん。分かった」
どことなく心配そうな眼差しを向ける伊武に頷いて応えると、慧は短い廊下を静かに進み、玄関ドアの前で立ち止まる。そしてドアスコープを覗き込み、ドアの向こう側に立つ人物を目にして、慧は息を呑んだ。そこには、コンビニの店長が立っていたのである。
(そう言えば、一番の危険人物を忘れてた……)
全身が冷気に包まれたような寒気を覚え、慧がドアスコープから目を離した直後――
「伊武ちゃーん。出て来てよ。いるの知ってるんだよー」
と、ドアの向こうから声がしてきた。丸みのある穏和な声質であったが、それが却って慧の恐怖感を増幅させ、慧は無意識のうちに手を伸ばし、迅速に、かつなるべく音を立てずに玄関ドアの鍵をかけ、数歩後退った。すると間もなく、ドアハンドルがガチャガチャと音を立てて上下に動き出す。
「あれ、おかしいな。開いてるはずなのに……」
微かにではあるが、ボソボソと低く呟く声が聞こえて来る。
「もしかして、そこにいるのかなー? アルバイトの件で話がしたいから、開けてくれたら嬉しいなー」
伊武が鍵をかけたと思ったらしく、ドア向こうの声は明るく丁寧な調子に戻る。しかしそんな声色の変化は慧の頭に入ってこない。何故なら慧の脳内は今、こいつを伊武に会わせてはいけない。自分の存在を悟られてはいけない。という二点でいっぱいだったからである。そしてコンマ数秒考えた末、まずは息を潜め、忍び足で廊下を戻り、伊武と合流するべきだ。という結論に行き着いた慧は、そっと行動を開始する。しかしその途端。
――ドンドンッ! ドンドンッ!
またしてもドアが叩かれる。それも、一回目より強く。するとその音を聞きつけ、廊下の奥から伊武が顔を覗かせる。
「平気……?」
言わずとも何となく危険を察しているようで、伊武は小さい声で問いかける。それに対して慧は首を横に振って応える。
「聞こえないかなー? 伊武ちゃーん!」
先ほどよりも大きく、やや威圧的な声が廊下を突き抜ける。これは流石に聞こえたか……? そう思った慧が伊武の方を見ると、案の定聞こえていたようで、伊武の顔にはじわじわと嫌悪の色が浮かび上がる。それを見た慧はすかさず数歩伊武に歩み寄り、
「とりあえず今はやり過ごそう……」
と小声で伝えた。伊武はそれに頷いて応えると、警戒と威嚇の混じった瞳でじっとドアを見つめた。
二人は店長が去ることを祈りながら数秒の静寂を過ごした。しかしその願いは天に届かず、再びドアが叩かれる。
「伊武ちゃん、そろそろふざけるのは辞めてほしいな。少し話がしたいだけなんだよ。アルバイトのこととか、お母さんのこととかさ」
今度は諭すような、しかしどことなく暗く黒い印象を与える声で語り掛けてくる。
(本当に話をしに来ただけって可能性もあるのか……? いやいや、もし仮にそうだったとしても、やっぱり開けるのは危険だな)
確証もなく、善悪もハッキリしないグレーな人間を招き入れるのは危険だ。慧がそう決断を下した次の瞬間。
――ガンッ!
と、蹴破られるのではないかという勢いでドアが鳴動した。
「おい、ふざけてんじゃねぇぞ! こっちが心配して見に来てやったのに、男連れ込んで居留守か? 出て来い!」
ようやく化けの皮が剥がれたようで、店長は恫喝に近い怒号をあげる。それに対し慧は、迫られている恐怖は勿論のこと、既に自分の存在がバレていると知って一瞬たじろいだが、今は自分の身を案じている場合では無い。伊武の身を案じなくては。と、すぐに気を持ち直して伊武の方を振り返る。すると彼女は玄関ドアを鋭く睨んだまま、僅かに震えていた。
「大丈夫か、江波戸?」
「……平気」
そうは言うものの、伊武は明らかに怯えている。
(この状況で呼んで良いもんか分からないけど、一旦警察に電話してみるか……?)
もう真っ向からの話し合いは無理だ。かと言ってベランダから飛び降りて逃走するのも現実的ではない。となると消去法で警察に頼る他ないと考えた慧は、ポケットからスマホを取り出す。そして電話アプリを開き、一、一、と入力したところで、男の追撃が始まる。
「親がいない間に男を家に連れ込むなんて……。君はそんなことしないと思ってたのに、結局血は争えないってことか。君にもあの売女の血が流れていたんだ! つまり君も、あの女みたいに捨てられるんだよ!」
耳を塞ぎたくなるような言葉が次々と飛んで来る。慧はその挑発に乗せられ、今すぐにでも殴りに行ってやろうかという怒りを覚えたが、それは何とか抑え込み、最後のボタンを押そうとする。しかしその時、伊武が突然玄関に向かって歩き出したので、慧の行動は中断された。
「おい、江波戸……!」
なるべく小さい声で伊武を引き留めようとするのだが、伊武は全く聞く耳を持たず、真っすぐ玄関に向かうとその勢いのままに鍵を開け、ドアを押し開けた。
「いだっ! ちっ、急に開けやがって――」
「黙れ! あんたに何が分かる……。二度とお母さんのことを語るな! 二度とウチに近付くな!」
ダムが決壊したように怒涛の言葉を浴びせ掛けると、伊武は両手を突き出して思い切り店長を吹き飛ばす。そして間髪入れずに共用廊下を駆け抜け、鉄階段を下りて行く。その一方、吹き飛ばされた店長は後方によろけ、鉄柵に背中を打ちつけたまま呆然と立ち尽くしている。どうやら不意の一撃が相当効いたらしい。
(今なら俺も抜け出せる。江波戸を追いかけないと……!)
慧は一瞬生じた隙を突き、腰を抜かしている店長の前を横切る。そして伊武の後を追って鉄階段を下り、そこから長い追跡が始まる。と思われたが、意外にも追跡はそこで終了した。何故なら、階段を下りたところで伊武が立ち止まっていたからである。そしてその視線の先には、伊武の足を止めた原因が立っていた。
「お母さん……」
アパート前の通りにクロコが立っていたのである。
「伊武、帰ってたのね」
前回会った時よりも柔らかい口調でクロコが呼び掛ける。しかし伊武は答えない。そうして母娘の沈黙の睨み合いが数秒間続いた後、
「クロコさん! 伊武ちゃんを捕まえて!」
と、放心状態から立ち直った店長が横槍を入れる。
(マズい。今はとりあえず逃げないと!)
店長の声を聞いて現在の状況を思い出した慧は、慌てて伊武のもとに駆け寄り、彼女の手を取る。そして、
「今は逃げよう」
と一言だけ伝え、伊武と共に走り出す。すると当然クロコの横を通り抜けることになるのだが、その際、クロコは伊武を捕まえようともせず、引き留めようともせず、言葉を交わそうともせず、追おうともせず、文字通り何もしてこなかったので、慧はそのまま伊武を連れて裏路地に飛び出した。
そうして走り続けること数分。駅前のバスロータリー付近に辿り着いたところで二人は足を止める。
「はぁはぁ……。大丈夫か……?」
立ち止まった慧は腰に両手を当て、息を整えながら伊武に問いかける。それに対して伊武は肩で息をしながら小さく頷く。
「良かった……。にしてもあの男、ずっとアパートを見張ってたのかな? まぁなんにせよ、しばらく家に帰るのは止めた方が良さそうだな」
「……」
「江波戸?」
「ん? あぁ、かもね」
名前を呼んだことで伊武はようやく返事をする。しかしそれは曖昧な生返事で、呼び掛けられたからとりあえず返事をした。といった風であった。
(母親のことが気になるんだろうな……。まぁそりゃ、会話も出来なかったし、追いかけても来なかったんだから、気になって当然だよな……)
考え込む伊武の横顔を見ていると、同情心が風船のように膨れ上がり、慧まで苦しくなってくる。しかしこのまま二人して悩んでいても埒が明かない。そう思った慧は気を強く持ち直し、
「今日は帰ろうか」
と声を掛け、頷いただけの伊武を連れて古屋根まで戻った。
しかし、古屋根駅に到着して慧は気付いた。伊武の宿泊先が無いことに。いや、正確には、伊武がいつまで泊って良いのか恵凛に確認していなかったことに。そこで慧はすぐさま、まだ泊めてもらうことは可能か? と言う旨のメッセージを恵凛に送る。すると恵凛は即レスで快諾してくれたので、慧はホッとしながら、伊武と共に龍宮宅を目指して住宅街を進む。
それから数分後、龍宮宅に到着し、インターホンを押すと恵凛が出て来た。
「お待ちしていました。江波戸さん。いえ、お帰りなさい。伊武ちゃん」
慧たちを出迎えた恵凛の無垢な笑みを見ていると、どんよりと暗く厚い雲に覆われていた慧の心に晴れ間が広がっていく。
「なんで名前呼び」
「すみません、嫌でしたか? 名前呼びにしたらもっと仲良くなれると思ったのですが……」
「はぁ、もういい。好きに呼べば。でも、ちゃんはやめて」
「はい! 分かりました!」
「ん。じゃ、その、お世話になります……」
伊武は気恥ずかしそうに答えると、恵凛の横を抜けて靴を脱ぎ、そそくさとリビングの方に消えて行く。
「ふふっ。最初は少し近寄り難い子だと思っていましたけど、話してみると凄く良い子ですよね」
「うん。江波戸はちょっと不器用で不慣れなだけなんだと思う」
「そうですよね。あと、意外と押しに弱い気がします」
「ははっ、そうかも」
なんて談笑をしていると、リビングの方から三宅の声が聞こえて来る。何を言っているか判別は出来なかったが、何となく恵凛を呼んでいるように聞こえた。
「あっ! 夕飯の支度! すみません、私、そろそろ戻りますね」
恵凛はパッと大きく目を見開いたかと思うと、すぐに困り眉で慧に謝罪をする。
「全然気にしないで。むしろこっちこそごめん、こんな時間に」
「いえいえ。伊武ちゃん……。こほん。伊武のことは任せてください」
そう言って恵凛は笑みを浮かべる。
「うん。めっちゃ心強い。ありがとう」
慧はその笑みに感謝を伝え、別れの挨拶を交わすと、龍宮宅の玄関ドアが閉まるのを待ってから帰宅した。




