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第九十一話 訪問

 もう少しで下駄箱に到着しようという時、「それじゃあ僕はここで失礼しようかな。荷運びの件は改めて連絡するよ」と輝虎が切り出す。


「はい、分かりました。……あっ、でも先輩。眼鏡が無いのに一人で大丈夫ですか?」

「あぁ、それなら気にする必要は無いよ。アレは伊達だからね」


 輝虎はあっさり打ち明けると、そのまま二年生の下駄箱の方に歩いて行ってしまった。


(だ、伊達だったのか。俺と一緒かよ……)


 慧は心の中でツッコミを入れた後、自分も靴を履き替え、先に教室へ向かったであろう恵凛と伊武を追って階段を上り始める。

 大股で飛ばし飛ばしに階段を行き、あと少しで自分たちの教室がある四階に辿り着こうという時、二人の背中を見つけた。


「龍宮」


 慧が声を掛けると、恵凛は律儀に立ち止まってから振り返る。その間に伊武は独りで階段を上り続け、先に四階の廊下へ消えて行った。


「おかえりなさい。風見君」

「う、うん」


 周りの目が気になるせいなのか、それとも恵凛の言い回しのせいなのか、はたまたその両方なのか。何にせよ慧は恵凛との夫婦じみたやり取りを経て急に恥ずかしさを覚え、詰まった返事をする。


「お話は纏まりましたか?」

「うん。週末に荷運びの手伝いをすることになったよ」


 慧は答えながら恵凛の左隣に合流し、二人は残り数段の階段を上り切って四階の廊下に至る。


「そうだったのですね。私たちも何かお手伝いした方が良いのでしょうか?」

「うーん、特に何も言ってなかったから大丈夫だと思うけど、一応聞いておくよ。いやでも、俺たちは今雀野のことがあるから、龍宮には残ってもらった方が良いかもな……」


 虹色の歪みのことはまだ恵凛に話さない方が良いと思い、慧はそれらしい理由を述べて恵凛の同行をやんわり断る。


「確かにそうですね。分かりました。風見君がお手伝いに行っている間、こちらは私にお任せください」

「うん、ありがとう。よろしく」


 上手く誤魔化し終えたところで教室に辿り着くと、二人はそのまま教室に入り、それぞれの机に鞄を置き、椅子に腰掛ける。慧の左隣の席には、既に机に突っ伏して眠っている伊武の姿があった。今日はまだ保健室には行かないらしい。


(龍宮には雀野だけ監視しておけば良いって言ったけど、江波戸の方も問題が問題だし、一人で動きたいとかも言ってたから、しっかり監視しておかないとな……。まぁとりあえずは堤先生に報告しておくのがベストか)


 呼吸に合わせてゆっくりと微かに上下する銀色の後頭部を眺めながら、慧はぼんやりと今後の方針を考えるのであった。


 ……その後ちょくちょく伊武の動向を窺いながら授業を受けていた慧だが、結局伊武が保健室に行くことはなく、昼休みを迎えた。


(ほとんど寝てたけど、ずっと授業に出てるなんて珍しいな……。実は本当に体調が悪いとか?)


 教科書類を机の中に片付けながら、相変わらず机に突っ伏している伊武の様子を見ていると、


「風見君」


 右隣から声が掛かった。


「ん? なに?」


 慧が視線を右に移すと、恵凛が包みを持ってこちらを見ていた。おそらく弁当だろう。しかしよく見ると、机の上にも同じ包みがある。


「二つ?」


 慧が思わず呟くと、恵凛はニコリと微笑み、


「こちらは江波戸さんの分です」


 と答えた。


「あぁー、なるほど」


 納得したように答えながら、慧は照れ笑いを浮かべる。


「あの、これ、江波戸さんに渡してもらっても良いでしょうか? 私、璃音に呼ばれていて……」

「うん。全然良いよ。というか、雀野から連絡あったんだ?」

「はい。つい先ほど。何やら作戦会議をしたいから来てほしいとのことでした」

「そっか。元気なら良かった。でも、わざわざメッセージで龍宮を呼び出したってことは、しばらく俺と会うつもりは無さそうだな」

「璃音ならあり得そうですね」


 そこで会話が一段落すると、慧と恵凛は顔を見合わせ、じわじわと笑みを浮かべる。慧の予想が正しければ、きっと恵凛の脳内にも意固地な璃音の姿が浮かんでいた事だろう。


「では、私はそろそろ行きますね」

「うん。雀野のことよろしく」

「はい」


 恵凛は笑みを湛えたまま答えると、机の上に置いてあるもう一つの包みを手に取って教室から出て行った。

 さて、これで慧は一人残されたわけだが、素直に恵凛の依頼を遂行するにしても、眠っている伊武に突然話しかけるのは気が引ける。そこで慧は、手渡された包みを一度机に置き、少々考え込む。


(無理矢理起こすべきか? いや、絶対不機嫌になるな。とは言え、龍宮が作った弁当を無駄にするのもなぁ……。いっそ俺が食べるか? いやいや、江波戸だって腹減ってるかもしれないし、ひとまず声は掛けよう)


 右往左往した末にようやく腹を決めた慧は、そっと左手を伸ばす。そして伊武の肩に触れようとしたその時、もぞもぞと伊武が動き出したので、慧は慌てて手を引いた。


「なに」


 首だけを回して慧の方を向いた伊武は、不機嫌そうに尋ねる。


「あっ、その……」


 寝起きのせいか、角度のせいか、常よりも伊武の睨みが鋭く感じられた慧は少し尻込みする。


「昼休みなんでしょ。その弁当でも食べてれば」

「いや、これは江波戸のだから」

「は……?」

「腹、減ってるだろ?」

「別に――」


 いつもの調子で答え、窓側に顔を背けた直後。ぐうぅ。と、明らかに伊武の方から腹の音が聞こえてきた。


「折角龍宮が作ってくれたんだしさ、食べようよ」


 一瞬茶化そうかとも思ったが、流石に今茶化すのはデリカシーに欠けるだろうと判断し、慧は伊武を刺激しないような言葉を選び、かつ食事をする気が起きるような口調で話し掛ける。すると伊武はゆっくりと上体を起こし、気だるそうに背もたれに身体を預け、右手の人差し指で机をトントンと叩いた。


「ふっ。はい、これ」


 食べる気になってくれたのだろうと推察した慧は、恵凛から託された包みを伊武の机に置く。すると伊武は数秒間それを見つめた後、ようやく背もたれから背中を離し、包みを解き始める。その姿を見て慧も自分の鞄に手を突っ込むと、自分の弁当を。と言うか、今朝握ったおにぎりを取り出す。


「いただきます」

「い、いただきます……」


 慧に続き、伊武もぎこちなく挨拶をすると、慧はおにぎりに。伊武はサンドイッチにかぶりつく。


「腹が減ってるときの飯って美味いよな」

「……うん」

「それに加えてさ、朝ご飯を食べ忘れてると更に美味く感じるよな」

「……うん」

「ってことは、江波戸も朝ご飯は食ってきてないのか」

「……」

「ごめんごめん。からかおうと思ったわけじゃなくてさ、何というか、仲間を見つけた。的な? ははっ……」


 無理があるか……。答えながらそう思った慧は、乾いた笑いで会話を締めて食事に戻る。


「そう言えば、今日は保健室に行かないのか?」


 少しして慧が話を再開すると、伊武は食事の手を止めて慧を睨む。


「いや、その、早くどっか行けってわけじゃないからな?」


 慧が慌てて弁明すると、伊武は幾分か視線を和らげ、


「行かない」


 と答えた。


(ふーん。まぁでも確かに、こないだ堤先生には大体話したし、保健室に行く理由もないのか……)


 慧が心の中で一人合点していると、伊武が言葉を続ける。


「今日は家に帰る。だからついて来て。……ほしい、です」


 始めは高圧的な命令口調で言い切ろうとした伊武だが、途中で気まずそうに視線を逸らしたかと思うと、遜った言葉をたどたどしく尻すぼみに付け加えた。


「えっ、あぁ、別に全然良いけど」


 伊武にお願い? をされたことに驚き、慧は間申し出を精査する間も無く受け入れた。すると伊武はほっと一息つき、食事を再開した。


(もしかして、何かするときは事前に教えてくれって約束を守ってくれたのか……? まぁ真相は分からないけど、伝えてくれたのはありがたいな。それに最近は少しずつだけど、江波戸が心を開いてくれてるような気がするし、この調子で頑張らないとな)


 何となく安堵したようにも見える伊武の横顔を眺めて小さく頷くと、慧も食事を再開する。


 残り二時間の授業と帰りのホームルームが終わると、恵凛は昼休み同様、璃音に呼び出されているからと言って先に教室を出て行った。他の生徒たちも、月曜日は部活動が無いせいか、皆早々に教室を出て行く。そうして放課後の教室には、あっという間に慧と伊武だけが取り残される。


「俺たちもそろそろ行くか?」

「ん」


 ユニユニをプレイしていた伊武は短く答えると、スマホをカーディガンのポケットにいれて席を立つ。それを見てから慧も席を立つと、二人は鞄を持って教室を出る。


「そういえば、今日は何しに帰るの?」


 下駄箱に到着し、靴を履き替え、昇降口を出たところで慧が口火を切る。


「家の様子見。あと、散らかってたら掃除もする」

「そっか。何かアクションを起こすってわけではないんだな」

「うん。だって何もネタないし」

「まぁ、それもそうだな。でも焦る必要もないし、ゆっくり仲直りのきっかけを探そう」

「言われなくてもそのつもり」

「ははっ、だよな……」


 伊武の手厳しい返しに慧は思わず苦笑を浮かべると、その会話はそこで途絶えた。

 以降、二人はポツポツと会話を交わすには交わしたが、少しも盛り上がることはなく、気付けば安雲橋駅に着いており、その数分後にはアパートの前に到着した。


「中見て来るから少し待ってて」


 伊武はそう言うと、アパートの鉄階段を上って角部屋の前まで行き、鍵のかかっている玄関ドアを開き、奥に消えて行く。それから数秒後、玄関ドアが開くと、伊武が顔を覗かせて「いいよ」とだけ言って、再び部屋の中に戻ったので、慧はその指示に従い、階段を上がって江波戸という表札のかかったドアの取っ手を握る。


「お、お邪魔しまーす……」


 別に恐れる必要は無いのだが、慧は何となく恐る恐るドアを開きながら囁くような声で挨拶をする。


「こっち」


 入ってすぐ、玄関に立っていた伊武はそれだけ言うと、狭く短い廊下を奥に進んでいく。


「う、うん」


 詳細な説明も無いままスラスラと話が進んでいくので、慧はその流れに身を任せる他なく、靴を脱いで廊下に踏み入る。廊下の左右にはドアが一つずつある。しかし今は伊武の後を追って真っすぐに進む。そうして廊下を抜けると、今度はダイニングキッチンに出る。突き当りにはベランダに繋がる窓。そしてダイニングキッチンの左側には開け放たれた襖があり、その奥には和室が広がる。と言っても、和室にはちゃぶ台が置かれままで、布団も敷かれたままで、洗濯物も散らばっている。と、中々に乱雑な状態となっており、とても広くは見えなかった。


「そこ、座ってて」


 伊武はダイニングの椅子に目配せをしながら言うと、キッチンからゴミ袋を持ってきて和室へ向かう。


「俺もなんか手伝おうか?」


 このまま座ってしまうのは何か違うような気がした慧は、和室に散乱するゴミを片付け始めた伊武の背中に問いかける。


「いい。だってこんなの拾いたくないでしょ」


 そう言ったかと思うと、伊武は食べかけの弁当と飲みかけのビール缶を持って振り返った。


「い、いや、全然大丈夫だよ。拾えるよ」

「ふーん。……じゃあこれは?」


 弁当と缶をちゃぶ台に戻すと、伊武はちゃぶ台の下に手を入れ、何かを拾い上げて振り返る。その両手には、女性の下着が握られていた。


「ちょ、おい!」


 慧は慌てて視線を逸らす。


「もう片したから平気」

「ったく、からかうために使うもんじゃ――」


 文句を垂れながら視線を戻すと、歯が薄く見えるくらいの笑みを浮かべる伊武が視界に飛び込んで来て、慧は言葉を失った。


「案外いいリアクションするんだね」


 言葉に詰まる慧を余所に、伊武は垂れ下がって来た前髪を耳に掛け、夜空に浮かぶ月のような静謐な微笑を浮かべる。


「も、もう二度とやるなよ?」

「ふっ。分かってる」


 慧が少々説教臭いことを言うと、伊武は普段通りのニヒルな笑みに戻って答え、作業を再開する。


(まさか江波戸がこんなからかい方をしてくるとは……。正直意外だったな……)


 ときめきなのか羞恥なのか、どちらにせよ自らの鼓動が高鳴っていると慧が自覚した直後。

 ――ピンポーン。

 追い打ちをかけるようにドアベルが鳴った。

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