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第八十八話 報せと腹ごしらえ

 帰宅した慧は手洗いうがいのみを済ませ、リビングのソファに腰を下ろしていた。


【お疲れさまでした、ご主人。今日は大変な一日でしたね】


 イヤホンを着けてすぐ、ラヴィから労いの言葉が掛かる。


「あぁ、マジで大変だったよ……。今日は江波戸の話を聞いて終わりだと思ってたのに、まさか雀野の方でも問題が起きるとは……」

【そうですね。あれは予想外の出来事でした。ですがその緊急事態にも、ご主人は上手く対応したと思いますよ。それとつい先ほどの閃き! あれも素晴らしかったです】

「いや、あれは龍宮と江波戸の意見があったから辿りつけたんだよ。それに、雀野のことだって、もっと上手く対応できたかもしれないし」

【謙虚ですねぇ。ご主人は】

「まぁな」


 慧は微笑みながら答えると、背中をソファに預ける。


【……やはり雀野氏のことが気になりますか?】


 数秒の沈黙の後、ラヴィが静かに問う。


「まぁ、当然雀野のことは気になるよ。俺が傷を広げちゃったみたいなところもあるし。でもよく考えたら、江波戸の方だって何も解決はしてないんだよなぁって思って」

【確かにそうですね。今日は雀野氏の事件に気を取られてしまいましたが、江波戸氏の方も決心を聞いたというだけで、実際に事が進んだわけではないですもんね】

「あぁ。むしろようやくスタートラインに立ったって感じだよ」

【前途多難ですね……。ですがご安心を、ご主人にはこの私が付いておりますので!】

「うん、心強いよ」

【本当に思っていますか?】

「思ってるよ。ただ、疲れてるから声に抑揚がないだけ」

【そうですか? なら良いのですが……】

「今回だって、お前が後押ししてくれなかったら江波戸にメッセージを送って無かったと思うし、ちゃんと感謝してるよ」

【ご主人……! 私、もっともっと精進してまいりますので、何なりとお申し付けくださいね!】

「あぁ。とりあえず今はデカい二つの問題が同時進行してるから、視覚情報とか、会話の内容とか、細かい情報を記録しておいてくれるだけでも助かるよ」

【そんなの朝飯前ですよ! あっ、でも、充電は忘れずにお願いしますね?】

「ふっ、分かってるよ」

【私もご主人もエネルギーがなくては動けませんからね! という事でまずは、私は電気を、ご主人は栄養を蓄えましょう!】

「だな」


 ラヴィと話しているだけなのに、何故か疲労が回復したように感じた慧はその一瞬を逃さずにソファから立ち上がり、キッチンへ向かう。

 しかしそれは一時の勘違いだったようで、キッチンに着くと忽ち疲労感と倦怠感がぶり返し、慧は結局いつも通り、戸棚からカップ麺を取り出す。


【全く。またカップ麺ですか? それじゃあ栄養になりませんよ?】

「別に良いだろ」


 気だるそうに答えると、慧は電気ケトルのボタンを押し、水がお湯になるまでの虚無時間をつぶすためにズボンのポケットからスマホを取り出す。そしてユニユニでもやろうと考えながら電源を入れると、ロック画面にふわりと通知が浮かび上がる。すると当然その通知に目を奪われ、表示されている『父さん』という三文字を発見する。


「えっ、父さんからだ」

【マスターですか?】

「うん。またお前のアップデートとかするのかな……?」


 慧は独り言のように答えると、時間を無駄にしないようにお湯を注ぎ、タイマーをスタートさせてからメッセージを開く。


『気になることがあるから近々帰るぞー。あと、試作品たちの調子も見るつもりだから、本体はもちろん、眼鏡とかイヤホンとかも紛失しないように!』


 父から久しぶりに送られてきたメッセージは、仕事仲間に送るような事務的なメッセージであった。


【近々帰る。ですか】

「うん。なんだろう、気になることって。お前の調子を見るのはついでっぽいけど」

【そのようですね】

「俺たちには全く関係ない仕事で帰って来るってことなのかな」

【うーん、どうでしょう。このメッセージからマスターの真意を探るのは難しそうですが……】

「だよな。帰って来るまで真相はお預けってことか……」

【はい。モヤモヤするとは思いますが、今は明日のために忘れましょう】

「大丈夫、分かってるよ。具体的に説明しないのは父さんの悪い癖だから」


 慧が呆れたような半笑いを浮かべて答えると、話の終了を手助けするかのように三分のタイマーが鳴った。

 その後食事を終え、シャワーを浴び、歯磨きを済ませた慧は真っすぐ自室に戻り、脳みそが変な邪推を始める前にベッドに入ると、無理矢理眠りについた……。


 そして翌日。慧は静かに目を覚ます。いつの間にか眠ってしまった上に、夢を少しも見なかったせいか、今のこの目覚めこそが夢の始まりなのかもしれない。なんて荒唐無稽な疑念を抱きながら、ゆっくりと枕もとのスマホを手に取る。時刻は七時過ぎ。通知は何も来ていない。どうやら早く起きすぎたようだ。昼前後に集まる約束だったので、きっと二人はまだ寝ているのだろう。慧はぼんやりと考えながらスマホを枕もとに戻すと、今自分が現実にいるのか、それとも夢にいるのかを確かめるためにベッドを出る。

 一階に下りて歯磨きと洗顔を済ませると、慧の頭はすっかり覚醒した。我ながら、現実世界だとか夢の世界だとか考えていたのが馬鹿らしい。慧は自嘲の笑みを心の中で浮かべながら部屋に戻り、枕もとに置かれたままのスマホを手に取る。通知は何も来ていない。


(そりゃまだ来てないよな。十分くらいしか経ってないし……。でもまぁどちらにせよ、いずれはメッセージを入れるわけだし、今のうちに送っておくか)


 朝日を受け、顔を洗い、脳みそも本格的に目覚めて来た慧は、ベットに腰掛けるとメッセージアプリを開き、迷いなく文字を打ち始める。


『おはよう。朝早くにごめん。起きたら連絡ちょうだい』


 常ならば文章を打つのに時間を要する慧だが、今日は何故か熟慮もせず、癖付いているメッセージの読み直しもせずに送信ボタンを押した。そして何事も無かったかのように背中からベッドに倒れ込むと、何も考えずに天井の一点を見つめる。……数秒見つめていると、その何もない一点からじわりじわりと黒いシミが広がっていくような錯覚に陥る。するとそれに伴い、璃音の問題。江波戸の問題。父親の帰宅理由等々。林立している悩みが慧の脳内にポツポツと浮かび上がってくる。慧はそれらから逃れようと、ゆっくり瞼を下ろす。そうして瞼が完全に閉じようとした瞬間。右手に持ったままのスマホがバイブレーションし、慧は再び瞼を上げた。


『おはようございます。私もつい先ほど起床しました』


 メッセージは恵凛からであった。慧はそれを読むと上体を起こし、返信を打ち始める。


『もしかして、俺のメッセージで?』

『いえいえ、違います! なんだか昨晩から気持ちが落ち着かなくて、すぐに目が覚めてしまっただけなんです』

『そっか。ってことは、あんまり眠れてない感じ?』

『どうでしょう。五、六時間は眠れたと思うのですが……』

『まぁ少し短めではあるね……。体調は大丈夫?』

『はい。大丈夫です。むしろ良いくらいですよ!』

『なら良かった。でも、無理はしないでね』

『はい。お気遣いありがとうございます』

『いや、昨日は龍宮に負担をかけっぱなしだったから、このくらいはね』

『困ったときはお互い様ですよ』

『うん。ありがとう』


 慧はそこで一度メッセージを送信すると、休む間もなく次のメッセージを打ち込み、恵凛から返信が来る前にもう一件送信する。


『そう言えば、江波戸とはどうだった? 何かあった?』

『いえ、文字通り何もありませんでした。こちらが話し掛けても短く答えるだけで、江波戸さんから質問をしてくることもなくて』

『そっか。今は?』

『まだ寝ています』

『なるほど。まぁ江波戸もここ数日出ずっぱりだったと思うし、疲れてたのかもね』

『そうかもしれませんね』


 ここで再びメッセージが途切れる。とりあえず聞きたいことは聞けたし、あとは集合時間の相談でも……。そう思った慧が文字を打ち始めようとすると、先に恵凛からメッセージが送られてきた。


『もう朝食はとりましたか?』

『まだだよ』

『でしたら、ご一緒にどうですか?』

『いいの?』

『はい。折角早く目覚めたので、今日の打ち合わせでもしながら。いかがでしょうか?』

『うん、いいね。それじゃあご馳走になろうかな』

『はい。お待ちしていますね』


 文字で返すと話が続いてしまうかもしれない。しかしだからと言って何も返さないわけにもいかない。そう思い悩んだ末、「りょうかい」という吹き出しのついたクマのスタンプを送ると、慧はアプリを閉じてベッドから立ち上がった。

 その後服を着替え、このまま雀野宅に向かっても良いように、ラヴィ一式やら財布やら自宅のカギやらを小さなショルダーバッグに詰め込んだ慧は、それを持って家を出た。そして龍宮宅のインターホンを押し、応じてくれた恵凛の案内で昨晩と同じ部屋に入ると、昨晩と同じ席に着いて恵凛を待つ。

 やがて、同じ大きさの真っ白い丸皿を持った恵凛がキッチンから戻って来た。彼女は慧の前に皿を置き、次いで慧の対面の席に皿を置き、再びキッチンに戻る。まだ品が残っているのだろう。慧はそう思いながら、手元に置かれた料理を見る。白い丸皿の上には、目玉焼きとタコさんウィンナー。それと少量のサラダ。初めて朝食をお裾分けしてもらった時とは打って変わり、大分控えめだな。なんて感想を抱いていると、白米が盛られた茶碗を持って恵凛が戻って来た。


「お待たせしました」


 そう言いながら恵凛は席に着く。そしてその隣には家政婦の三宅が着く。


「これで足りますかね?」

「うん。十分だよ」

「ふふっ、そうですよね。以前風見君のお家に押しかけてしまったときは、明らかに作り過ぎでしたもんね」

「あっ、ごめん。そういうわけじゃなくて、その、あれはあれで良かったよ! ほんとに」

「大丈夫ですよ、気を遣わなくても。悪いのは私の方ですから。それに、風見君のおかげで一般的な朝食の雰囲気も分かりましたし、感謝もしなくてはなりませんね」

「う、うん」


 恵凛は笑って答えるが、どこか気まずい。すると、


「はて。あの日は確か、風見様と親睦を深める為に朝食を多く作ると張り切っていたような――」

「あぁ! 三宅さん! お茶。お茶を忘れていましたね」

「あら、そういえばお出ししていませんでしたね。これは失礼いたしました」


 三宅は全て分かり切ったような笑みを浮かべながら答えると、キッチンへ向かった。


「ふぅ……。ごめんなさい」

「ううん、平気。それより、ありがとう」

「えっ、な、何のことでしょうか?」


 恵凛は顔を赤らめながら視線を逸らす。きっと、いや、明らかに、慧には聞かれたくなかった話なのだろう。そうと悟った慧はそれ以上の追及はせず、頬を緩ませながら、


「いや、何でもない」


 と言って話を区切った。

 それから数秒後、キッチンから戻って来た三宅が各々の前に麦茶の入ったコップを置く。これで準備万端いよいよ朝食が始まる。とその時、廊下へと続くドアが開き、


「ふぁ~。あ……?」


 胸元にリボンの付いた、可愛らしいフリフリの白いネグリジェを着た伊武があくびをしながら部屋に入って来た。


「あっ、おはようございます。江波戸さん」

「お、おはよう、江波戸……」

「こ、これは違うから……!」


 確実に慧の方を見て鋭く言い放つと、伊武は忽ち廊下に出て行ってしまった。


「どうしたのでしょうか?」

「私が連れてきますから、少々お待ちください」


 三宅は仏のような柔らかい笑みを浮かべて言うと、伊武の後を追って部屋を出て行く。


「三宅さんは原因が分かっているようでしたね」

「う、うん。そうみたいだね」

「私たちも行った方が良いでしょうか?」

「いや! ここで待ってよう」

「は、はい。分かりました」

「多分、俺はいない方が良いと思うから……」


 慧は何となく、伊武はあの部屋着姿を見られたくなかったんだろうなぁと思いながら小さく呟き、三宅が無事に伊武を連れ戻してくれることを祈りつつ、恵凛とともに待つことを選んだ。

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