第八十六話 宿泊先
今目の前に立つ女性は本当に堤なのだろうか? 視覚情報だけではイマイチ信じ切れず、慧がしばらく女性を見つめていると、その見つめられている相手はニコリと微笑み、
「ようこそ、江波戸さん。風見君」
と、答えた。それを聞いて間違いなく堤であることが分かった慧は、尚のこと困惑の表情を深める。
「なんでこんなところに。って顔してるわね」
堤は悪戯な笑みを浮かべたまま言葉を続ける。
「そりゃそうですよ。ここで何してるんですか?」
「ちょっとアルバイトをね。っていうのは冗談で、弟の店を手伝ってるのよ」
「弟さんの?」
「そうなの。見ての通り盛況ってわけではないんだけど、弟一人でやってるもんだから、土日が暇な時はこうして手伝ってあげてるの」
「なるほど。そうだったんですね」
「えぇ。それで、二人はなんでこのお店に?」
「行きたいところがあるって言われて付いて来て……」
慧はそう答えながら左隣に立つ伊武の方に視線を向ける。
「やっぱり。江波戸さんが連れてきたのね」
「……」
伊武はやや俯いたまま何も答えない。
「久しぶりに会ったって言うのに、釣れない子ねぇ」
「江波戸。何か言うために来たんじゃないのか?」
何も知らずについて来た慧は黙り込んでいる伊武に優しく声を掛ける。と言うか、そうする他に出来ることが無かったのである。すると伊武はチラリと慧を一瞥した後、堤の方に向き直る。そして、
「……先生にも、結論を伝えたくて」
ギリギリ聞こえる声でそう言った。
「分かったわ。それじゃ、喫茶店に来て立ち話って言うのも変だし、カウンターにでも行きましょうか」
堤は柔和に微笑むと、二人をカウンターテーブルまで案内する。そして自分はカウンターの向こう側に入って慧たちの前に立った。
「何か飲む?」
立場上慧たちは客で、向こう側に立っている堤は店員という事になっているが、彼女はいつも通り、保健室にいるときと何ら変わりないフランクな口調で二人に問いかける。
「えっとそうですね……。やっぱり喫茶店ってことは、コーヒーが売りなんですかね?」
初めて来た店という事もあり、入店した際は幾分か緊張していた慧だが、いつも通りの調子で話す堤に釣られていつの間にかその緊張は解れていた。
「そうね。一応コーヒー各種がウチのメインになってるわ。でも、普通にリンゴジュースとかオレンジジュースとかもあるし、炭酸もあるわよ?」
「なるほど。まぁでも折角なんで、コーヒーにします」
「カフェオレとかにしとく?」
「いえ、ブレンドで」
「無理しなくてもいいのよ?」
「大丈夫です。飲めますから」
「ふーん、じゃあブレンドね。江波戸さんは?」
「……リンゴジュース」
「分かったわ。じゃあちょっと待っててね」
堤はそう言い残してキッチンへ向かった。すると当然慧と伊武は二人きりになり、そして当然のように沈黙が訪れる。慧はその沈黙を気まずく思い、何か話すべきだろうか。それとも黙って待っておく方が良いだろうか。なんてぼんやり考えていると、
「先生にはどこまで話したの」
伊武の方がポツリと話を切り出した。
「え? えっと確か……。江波戸の家で鉢合わせて、駅で言い合った日のことまでは話してるはず」
「そ。じゃあほとんど知ってるんだ」
「まぁ、そういうことになるな」
裏でこそこそ堤に報告していたことを咎められるのかと思って少し身構えた慧だが、伊武は慧の口から必要な情報を聞き出すと、再び黙り込んでしまった。恐らくどこから説明するべきなのかを迷っていただけなんだろう。そうと解釈した慧は、胸を撫で下ろし、これ以上無理に会話を広げようとはせず、心地良くなった沈黙と共に堤が戻るのを待った。
それから一、二分が経った折、堤が戻って来た。
「はい、お待たせ。ブレンドコーヒーとリンゴジュースね」
堤はそう言いながら二人の前にコースターを置き、慧の前にはコーヒーの入ったカップを。伊武の前にはリンゴジュースの入ったグラスを各々置いた。
「ありがとうございます。いただきます」
「どうぞ」
短く言葉を交わすと、慧は提供されたカップを手に取ってコーヒーを啜る。家で作るインスタントコーヒーとは違い、熱すぎない適温のコーヒーが口内へ流れ込む。すると瞬く間に苦みが口いっぱいに広がり、鼻腔には名前も知らぬ豆の香りが通り抜ける。
「どう。苦くない?」
「はい。美味しいです」
「本当に?」
「うーん、本当はちょっと苦いです」
「素直でよろしい」
「はは、すみません」
そんなたわいないやり取りを交わす二人の傍ら、伊武は静かにグラスを取り上げ、漱ぐようにリンゴジュースを一口飲む。そしてゆっくりグラスを置き、
「先生」
と、小さく堤を呼びながら、視線を彼女に向ける。
「なーに?」
「話しておきたいことがある」
「えぇ。何でも聞くわよ」
「もうほとんど聞いてるらしいし、手短にだけど……」
そう言って一呼吸置くと、伊武は今日ファミレスで慧にした内容と同じ内容の話を始める。まずは母親と仲直りしたいという結論。それに次いで暴力を振るわれていた事と、それが虐待であると自覚した上で黙っていたという事を打ち明け、最後に、今は身を守るために家出している事を伝えた。
「そうだったのね……」
話を聞き終えた堤は険しい顔つきでそう呟き、言葉を続ける。
「話してくれてありがとう。それで、今はどこに泊まってるの?」
「バイトの先輩の家に」
「女性? 信頼できる人なの?」
堤の問いに伊武は頷いて応える。
「それなら良かった……。けど、ずっと泊めてもらうわけにもいかないわよね」
「そ。だから先生に頼みに来た」
「私に出来ることなら何でもするわよ」
「先生の家に泊めてほしい」
「わ、私の家に?」
伊武の提案に堤は大きく目を見開いた。
「無理なら別に良いけど」
「そ、そんなことないわよ。私の気持ち的には全然大丈夫なの。でもね、その、学校の決まりがあってねぇ……」
「車で家まで送ってくれたことはあったのに」
「あ、あれは。ねぇ……」
答えに言い淀みながら、堤は慧の方に視線を向ける。どうやら助けを求めているようだ。しかし助けを求められたところでどうすることも出来ない慧は、首を横に振って応える。すると、
「じゃあ、風見の家に泊まる」
「えっ、お、俺ん家?」
突然慧に飛び火し、慧は思わず大きな声をあげる。
「そ、それはダメよ!」
「なんで。仕方ないじゃん。他に行くとこないし」
「だからって風見君の家っていうのは。ねぇ。話が飛躍しすぎじゃない?」
「そ、そうだよ。俺ん家はダメだ」
「別に一生居座るってわけじゃないんだし、良いじゃん」
「そういう問題じゃなくてね……」
堤は呆れながら答えると、悩ましそうにこめかみを掻く。そして数秒後、小さく息をついて返答を続ける。
「分かったわ。明日。また明日このお店に来て。そしたらしばらく私の家に泊めてあげるから」
「今日は?」
「今日は準備があるから、もう一泊だけバイトの先輩に頼んで。ね?」
「無理。先輩出掛けちゃったから」
「え……」
堤の妥協案は一瞬で玉砕した。
「じゃあやっぱり、今日は風見の家に――」
「分かった! 分かったわ。何とか今日中に準備するから」
「別に急がなくても平気。風見の家、今誰もいないみたいだし、迷惑にはならないでしょ」
伊武はそう言いながら慧の方を見る。
「い、いやいや。だからな、そういう問題じゃないんだよ」
「そうよ。誰もいないなんて、むしろ危険だわ。だって……。風見君も男の子なんだから!」
今まで慧と堤がそれとなく回避していた言葉が放たれた。しかし、
「だからなに?」
伊武はその言葉の意味を全く理解していないようであった。
「はぁ。ダメね、これは……」
「はい。このままじゃ話が進みそうにないので、今日はうちに――」
泊ってもらいましょう。そう言おうとした直前、テーブルに置いていた慧のスマホがバイブレーションし、それに意識を奪われた慧は言葉を止めた。
「すみません」
そう言いながら一応なんの通知が来たのか確認すると、ロック画面には恵凛の名前が表示されていた。
(龍宮からか。きっと雀野のことだろうな。後で返そう)
そう思ってスマホをスリープ状態にしようとした瞬間、慧の脳裏に稲妻が閃いた。
「先生!」
「な、なに?」
「一つ可能性がありました!」
一縷の希望を見出した慧は勢い良くそう言うと、スマホを手に取ってノータイムで恵凛に電話を掛ける。するとその思いが通じたのか、恵凛はワンコールで電話に応じてくれた。
「もしもし、龍宮?」
「は、はい。どうかしましたか」
「至急聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「はい。なんでしょうか?」
「ありがとう。実は今、江波戸の宿泊先を探してるんだけど、龍宮の家に泊めてあげるとかって出来るかな?」
「そうですね。お部屋は空いていますけど、お洋服とかが無いので……」
「そっか……。ごめん。急に電話しちゃって」
「あっ、待ってください。ダメってわけじゃないんです! 諸々足りないものがあって不便かなと思っただけで、お泊り自体は全然大丈夫なんです。ですので、それを踏まえた上で江波戸さんに聞いて貰えると助かります」
「いいの?」
「はい、もちろんです!」
「ありがとう。聞いてみるよ」
そう答えた後にもう一度念押しの感謝の言葉を述べると、慧は通話を終了した。
「どうだった?」
「龍宮が泊めてくれるらしいです。ただ、服とか諸々足りないものがあるから、それでもよければ。ってことでした」
通話の結果を話し終えると、慧と堤の二人は同時に伊武の方へ視線を向ける。するとその視線を受けた伊武はほんの少しだけ背筋を伸ばし、
「……別に良いけど」
と答えた。
「良かったわぁ~。これで全部解決ね」
「はい。お互いラインを越えずに済みましたね」
「本当にね。私も風見君も首の皮一枚繋がったわね」
「はぁ、しょうもな」
感動を分かち合う慧と堤をよそに、伊武はため息を漏らしながらグラスを手に取った。
こうして何とか伊武の宿泊先を決め終えると、慧と伊武はそれぞれ残っている飲み物を飲み干し、席を立った。
「今日のドリンク代は私が持つから、このまま帰っちゃっていいわよ」
「いいんですか?」
「良いのよ。私が連れ込んじゃったようなもんだし」
「じゃあ、お言葉に甘えて、ごちそうさまでした」
「あざす」
「フフッ。江波戸さんのお礼を聞けるなんて、やっぱりお代は取らなくて正解だったわ。それじゃ、気をつけて帰ってね」
「はい。失礼します」
そう言って頭を下げる慧に合わせて伊武も軽く頭を下げると、二人は堤の見送りを受けながら喫茶店を後にした。
「このまま龍宮の家に向かっても平気か?」
店を出てすぐに慧が聞く。
「うん。家はどこなの」
「えっと、俺ん家の隣」
「は?」
「いや、マジなんだって」
「ふーん……」
「行けば分かるから」
言葉で説明するよりも行ってしまった方が早い。そう思った慧は早々に話を切り上げ、伊武と共に歩き出す。
その後横断歩道を渡って住宅街に差し掛かると、これからそちらに向かう。という旨のメッセージを恵凛に送信した。するとすぐに、いつでも来て良いですよ。という旨の返信があり、慧はそれに、ありがとう。と簡単に返信をして、既に日が落ちて街頭頼りになっている一本道を伊武と進んだ。
それから数分が経過し、風見宅前を少し過ぎて龍宮宅前に辿り着くと、慧がインターホンを押す。すると程なくして玄関ドアが開き、
「いらっしゃいませ。どうぞ」
と、やや緊張した面持ちの恵凛が二人を出迎えた。




