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第八十二話 決意表明

 告白に水を差すような形で料理が運ばれてきてしまったせいか、伊武は再び黙り込んでしまった。確かにあのタイミングで割り込まれてしまっては、決まったはずの心が揺らいでしまうのも仕方がない。話を深掘りしたい気持ちもあるが、今無理に言及しても逆効果だと思った慧は、伊武が話せるようになるまで無駄な口は出さず、黙々とマグロ丼を食べ続けた。

 周囲の賑やかな話し声。食器と食器がぶつかる耳障りな高音。店員を呼び出すベルの音。それら諸々の音はファミレスの中で複雑に混ざり合い、協和音とも不協和音とも言えぬ生活的な合奏となって慧の耳に届く。


「……さっきのことなんだけど」


 慧がファミレスの合奏に慣れ始めたころ、待っていた転調が起きた。囁くように力なく発されたその一言は、ファミレス内を飛び交うどの音よりも鮮明に響き、慧の意識を惹きつける。


「うん」


 今度こそ伊武の決心に無駄な雑音が生じないようにと、慧は必要最低限の極僅かな返事をする。


「あれが、三日間真剣に考えて出した結論」

「そっか。お母さんと仲直り。だったよな」

「そう」

「良いと思う。でもその、なんて言うか……」


 仲直りと言うには少々関係がこじれすぎじゃないか? と思った慧だが、その気持ちをストレートに言うことは出来ない。


「そんな次元じゃない。って思ったんでしょ」

「い、いや、そこまでは思ってないけど……」

「なら多少は思ってるってことね」

「ぐっ、ま、まぁ、はい。そうです……」

「はぁ、今更オブラートとかいらないから。それに、アレは誰がどう見たって虐待だったわけだし、私だってそうだって分かってた」

「じゃあなんで誰にも助けを求めなかったんだ?」

「簡単に言えば、必要ないと思ったから」

「必要ない? 怪我もしてるのに?」

「すぐに戻ると思ってたから」

「戻るって?」

「お母さんが。前の優しいお母さんに」

「……」


 これは昔何があったのか追及すべきか否か。慧は脳内に浮かび上がったイエスとノーを数秒間吟味した結果、どちらも正解では無いように思えて黙り込んだ。


「娘と向き合えって、アイツがお母さんに言ってたでしょ」

「アイツ? 雀野のことか?」


 慧がそう問い返すと、伊武は小さく頷いた。


「癪だけど、あの言葉で気付いた。私もお母さんのこと見てなかったって」

「お互いに目を背けてたってことか」

「うん。ていうかむしろ、先に目を背けたのはこっちだったのかも」

「江波戸が先に?」

「そう。変わっていくお母さんを見てどうしていいのか分からなくて、気まずくなっていって、距離を取るようになって、最後は私の方が先に目を背けたのかもって」

「うーん。確かに江波戸の方から目を背けたとも取れるけど、流石に自分を悪者にし過ぎじゃないか? 悪い方に向かっていく自分を制御出来なかったお母さんにも非はあると思うけどな……」


 こういう場合、虐待を受けている当人は既に感覚が麻痺しており、自分が悪いと思い込むように思考回路が組み替えられているのかもしれないと考えた慧は、遠回しに伊武の言葉を否定した。


「かもね。でも仮に昔の私が悪くなかったとしても、今お母さんから目を背けてるって事実は変わらないから、結局は一緒。逃げ出した私も悪いし、自分を制御出来なかったお母さんも悪い」


 そう言う伊武の声と視線には芯が通っていて、固い決心のようなものが窺えた。


「まぁ、そうだな。うん……」


 気掛かりでもあるし諭したいところでもあるが、ここで伊武の決心を挫くわけにはいかない。それに、聞いていた感じ冷静そうだし、何より彼女の意思を尊重したいと思った慧は、自分に言い聞かせることも兼ねて肯定の言葉を口にした。


「だから、真剣に向き合って、ちゃんと正したい。自分の過ちも、お母さんの過ちも」

「うん。良いと思う。俺たちも全力で手助けするよ」

「それなんだけど、最初は一人でやらせてほしい」

「え? でも、一人じゃ危ないだろ」

「言うと思った。けど、自分の力で頑張りたい。ケジメってわけじゃないけど、何となく」

「うーん、そっか……」

「無理はしないから」

「じゃあ、何かあったら絶対に言うって約束できるか? いや、何かするときは事前に伝えてくれ。俺たちも付いて行くから。うん、そっちの方が良いな」

「ふっ。なにそれ、保護者じゃん」

「そりゃ現場を見ちゃったからな」

「ま、それもそっか。なら好きにしていいよ」

「言ったな? また尾行されても文句言うなよ?」

「言わない。ここまで来たら言う文句もない。それに……」

「それに?」

「傍に誰かいる方が……」


 この後も伊武は確かに何かを言っていたのだが、その声はとても小さく、加えてファミレスの合奏が突然蘇ってきて、彼女の声をかき消してしまった。


「ごめん。後半なんて言った?」

「……別に。何でもない」


 伊武はいつもの刺々しい眼つきと調子に戻って答えると、止めていた食事を再開する。それを見た慧は、理由は分からないにせよ伊武の心模様の変化を悟り、下手に口を出すことは避けてこちらも黙って残りのマグロ丼を食べ始めた。

 それから一、二分後、先に慧が食事を終え、それに続く形で伊武が食事を終えた。本題を話し終えた伊武からはもう話し出すような気配はなく、彼女は静かにコップを手に取り、残っている水を飲み干し、テーブルの端に置いてある紙ナプキンを一枚取って口を拭った。


(さて、これからどうしよう……。聞きたいことは聞いたし、もう解散の方が良いかな?)


 どちらも話を切り出さない空間と言うのはとても気まずかった。しかし不思議と慧の気持ちは落ち着いていた。伊武の安否を確認出来てホッとしているのか。それとも伊武が前向きになってくれて喜ばしいのか。はたまた自分を頼ってくれたことが嬉しいだけなのか。理由は何であれ、慧はさざ波も立たぬ心で自分も紙ナプキンを手に取ると、それで口を拭った。


「そろそろ出るか?」


 昼の繁忙時間に何も飲み食いせず居座り続けるのは忍びないと思い、慧はひとまず店を出る提案をした。


「うん」


 伊武はそれに対して小さく答えると、素早く伝票を取り上げて席を立ち、レジに向かった。その姿を見て、慧はすっかり失念していた奢る奢らないの話を思い出して慌てて伊武の背中を追った。しかし会計に間に合ったところで一銭も払うことは叶わず、結局伊武に全額奢ってもらう形で慧と伊武はファミレスを後にした。


「ごちそうさま。なんか悪いな、何もしてないのに奢ってもらっちゃって」

「気にしないで。厚かましいお節介へのお返しだから」

「な、なるほど。それならありがたく受け取っとかないとな」

「そ。だからこれで貸し借り無しね」


 伊武はスマートに話をまとめると、とても自然に片微笑んだ。


「分かった。これでトントンだな」


 貸し借りなんて何も考えていなかった慧だが、きっと伊武はこういうことにしっかりと白黒をつけたいタイプなのだろうと思い、慧は伊武の言葉と想いを素直に受け取ることにした。


「それで、江波戸はこれから何か予定あるのか?」


 このまま解散を切り出しても良かったのだが、どことなく一人にするのも不安な気がした慧は様子見のジャブを打った。


「別に。何もない」

「そっか。ならゲーセンでも行くか?」

「なんで」

「いやぁ、その、時間もまだ早いし、一人にするのもアレかなって」

「アレってなに」

「まぁ、何と言うか、まだ心配なんだよ」

「ふっ、気にしすぎ。もう大丈夫だから」


 一見呆れた風に答えた伊武だが、その表情にはどこか満更でもないような雰囲気があった。もしかしたら後一押しすれば……。とも思ったが、これ以上しつこく絡んで嫌われてしまったら元も子もない。そう思い至った慧は潔く退くことを選び、


「はは、だよな。じゃあここで――」


 と、話を切り上げようとしたその時。ポケットに入れているスマホが震え出した。どうせしょうもない通知だろう。そう思った慧はそれが収まってから話を再開しようとしたのだが、どれだけ待ってもバイブレーションが止まらない。どうやら電話のようだ。


「出ていいよ」


 出るか出ないか逡巡している慧の心中を察してか、伊武がそう言った。


「ごめん。ありがとう」


 慧は申し訳なさそうに細かく頭を下げると、ポケットからスマホを取り出して画面を見る。するとそこには恵凛の名が表示されていた。何かあったのか? 嫌な予感とまではいかないが、多少の焦りを覚えながら慧は通話ボタンを押す。


「もしもし、龍宮?」

「あっ。もしもし、風見君?」

「うん。どうしたの?」

「その、今私、安雲橋のライブハウスにいるのですけど、来れたりしませんか?」

「あぁー」

「すみません急に……。予定があるようでしたら全然大丈夫ですので」


 ちょうど安雲橋にいるし、伊武とも解散の流れになっている。しかしたった今心配していると言った手前、他の用事が出来たと言って別れるのはなんとなく気まずい。それならば……。と、コンマ数秒で思考を巡らせ、とある案を思い付いた慧は恵凛との通話に戻る。


「いや、大丈夫。行くよ」

「ほ、本当ですか?」

「うん」

「ありがとうございます! では、ライブハウスの前で待っていますね」


 嬉しそうな恵凛の声を聞いて思わず頬が緩みそうになりながらも、うん。と返事をした慧は通話終了ボタンを押す。


「なんかあった?」


 伊武と目が合い、彼女が問う。それに対し慧は微笑みを浮かべ、新たな提案をする。


「あのさ、一緒にライブハウス行かない?」

「は?」

「今龍宮に誘われてさ。せっかく近くにいるし、どう?」

「……」


 慧の提案に伊武は黙って視線を逸らす。


(まぁ、流石に急すぎだよな)


 勢い任せのダメ元で提案をしたおかげか、無視されても慧はほとんどノーダメージで今の一件を受け流す。そして通話を終えたスマホをポケットにしまった直後。


「行ってもいいよ」


 と、伊武の返事。


「うん、それじゃあ今日は……。えっ?」


 完全に断られる想定で解散の言葉を用意していた慧は数秒間思考が停止する。


「その代わり条件がある」

「ど、どうぞ」

「ライブが終わった後、行きたいところがある」

「行きたいところ? 別に構わないけど」

「交渉成立。じゃ、行こ」


 言質を取ることに成功した伊武は、早速ライブハウスがある方に向かって歩き出す。


「ちょっ、待ってくれよ江波戸!」


 考える時間を与えないという伊武の巧妙な策にハマり、思考も行動も置いてけぼりを食らった慧は急いで伊武の後を追う。そして追いついてからいくつかの質問をしたのだが、伊武はだんまりを決め込み、気付けば何一つ聞き出せないまま二人はライブハウスのある裏路地に辿り着いていた。


「あっ、風見君!」


 裏路地に入って間もなく、キョロキョロと不安そうに左右を見回している恵凛の姿が目に映った。かと思うと、丁度彼女は慧たちが入って来た方を向き、慧と目が合うや否や、嬉しそうでいて助けを求めるような声で慧を呼んだ。


「おはよう、龍宮」

「おはようございます。江波戸さんと一緒だったのですね?」

「あぁ、うん。最近学校に来てなくて心配だったから、無理矢理連絡を取って話してたんだ」


 伊武の家庭環境に介入している。なんて真正直なことは言えず、半分の真実と半分の嘘を混ぜて慧は答える。


「そうだったのですね。江波戸さん、微力ですが、私にも出来ることがあれば何でもお手伝いしますので、いつでも相談してくださいね」


 恵凛は伊武の方に向き直ってそう言うと、一切の汚れない純情な笑みを浮かべて見せる。対して伊武は不愛想に小さく頭を下げると、早々に視線を逸らしてパーカーのポケットからスマホを取り出した。


「フフッ。元気そうで良かったです」


 皮肉なのか天然なのか。まぁ恐らく天然なのだろうが、返事をしない伊武を見て恵凛は嬉しそうに言った。


「そ、そう言えば、龍宮はなんでライブハウスに?」


 絶妙に気まずい空気が広がりつつあったので、慧は早速本題に入った。


「そうでした! えっと、多分ですけど、風見君は璃音から何も聞いていませんよね?」

「うん。何も聞いてないよ」

「やっぱり……。実はですね、今日これからボーカル決定戦が行われるんです」

「ぼ、ボーカル決定戦?」

「はい。その名の通り、バンドのボーカルを決めるらしいです」

「なるほど……」


 慧はそう答えながら、もしかして……。という心当たりが俄かに浮き上がって来た。それと言うのは、先日ここで出くわした別の高校の制服を着た女子生徒の姿である。


「もう少しで始まると思うので、そろそろ中に入っておきましょうか」

「うん。分かった」


 薄っすらと嫌な予感を抱きながらも、慧は恵凛と伊武と共にライブハウスの中へ入って行くのであった。

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