第八十話 開きかけの心
裏路地を駆け抜けて駅まで戻って来た二人は、伊武が電車に乗るのを防ぐために、或いは既に乗ってしまったのかを確認するためにひとまず改札前まで来ていた。
「と、とりあえず、改札まで戻って来たけど、こっから、どうするの?」
「はぁはぁ、そうだな……。駅員さんに聞いてみよう」
二人は息を整えながら次の行動を決めると、ダメ元で改札の横に備わっている駅員室に向かう。
「すみませーん!」
ガラス戸をノックして駅員さんを呼び出したのは、先に呼吸が整った璃音であった。すると間もなく、若い男性の駅員が顔を覗かせる。
「はい、どうかしましたか?」
「ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「はい、なんでしょう」
「その、あたしたち人を探してて。上は黒いパーカーで、下は灰色っぽいスウェットを着てるあたしと同じくらいの背丈の女の子なんですけど。見ませんでしたかね?」
「うーん……」
「あと、髪型はショートボブで、ちょっと目つきが悪いというか、鋭い感じの子なんですけど、どうですかね?」
「そうだなぁ……」
璃音が出来るだけ仔細に情報を伝えたものの、やはり写真が無いとパッと姿が浮かばないのか、男性駅員は唸りながら首を傾げた。その反応を見て、どうやらこれはダメそうだなと二人が諦めかけたその時、
「あっ、あの子じゃないかな?」
と、男性駅員が右手で指し示しながら声を上げた。するとすぐさま慧と璃音はその声に反応し、駅員の指先を見た。そしてそこから伸びる見えない糸を辿ってほとんど百八十度振り向くと、ちょうどコンビニから出てきた伊武が視界に映った。
「あっ、江波戸だ」
「あの子です、あの子! ありがとうございます!」
二人は伊武の姿を視認するとすぐに駅員の方へ振り返り、手短に感謝すると伊武のもとへ駆け出した。
「江波戸!」
歩き出そうとしている伊武を止めるため、慧はある程度近づいたところで彼女の名を呼んだ。すると伊武は立ち止まり、声がした方に視線を向ける。そしてそこに慧と璃音を発見するとあからさまに眉を顰め、忽ち走り出した。
「あっ、おい! 江波戸!」
「バカ! 名前呼んだら逃げられるに決まってるでしょ!」
「そ、そうだよな」
「ったく、さっさと追うわよ!」
呆気に取られている慧に引き換え、璃音は颯爽と走り出す。そしてグングン加速したかと思うと、あっという間に伊武の背後まで追い付き、駅の外へと繋がる階段に辿り着く前に伊武を捕まえた。
「なに……? 離して」
「離さない。あたしたちはあんたが心配なの」
「めんどくさ……」
璃音は伊武が逃げ出さないように彼女の着ているパーカーの袖をしっかりと掴み、伊武が興奮しないようになるべく落ち着いた口調で場を繋ぐ。するとそこへ少し遅れて慧が到着した。
「ごめん雀野。助かったよ」
「うん」
ひとまず伊武を捕まえてくれた璃音に礼を述べると、次いで慧はフードを被って少しもこちらを見ようとしない伊武の背中に視線を移した。
「江波戸。大丈夫か?」
「なんなの。二人でストーカーみたいなことして。これも先生の指示? それとも、全部自発的に探ってたとか?」
「えっ、いや、その……」
順序立てて真実を話そうと思っていた慧だが、不意に飛んで来たナイフがあまりにも鋭利で、正確無比に核心を突いてきたので言葉を失ってしまった。
「はぁ。家に張り込んでまで他人の家庭を探るなんて、相当いい趣味してるね」
慧から明確な反論が無かったので、伊武は傷口を抉るような追い打ちをかけてきた。すると、
「気を悪くするのは分かる。あたしだって家のことを勝手に探られるのは嫌だし。でも、あたしたちは本気であんたのことを助けたいと思ったから張り込んだの」
璃音が代わりに反論した。
「別に助けてほしいなんて言ってないけど」
「言うと思った。だから、あたしたちがあんたを助けたいと思う理由を見せるわ」
そう言うや否や、璃音は今の今まで離さずに掴んでいた伊武のパーカーの袖をグッとたくし上げた。すると前腕が露出し、そこに残る濃い青たんも露になった。
「やめてっ!」
伊武は珍しく声を荒げながら袖を掴む璃音の手を思い切り振り解くと、勢い余ってその場で半回転し、慧たちの方に身体を向けた。これでようやく面と向かって話せる。そう思ったのも束の間、伊武は顔を見られることを避けて即座に顔を俯けると、捲られた袖をいそいそと戻した。
「勝手に探ったのは悪いと思ってるし、今あたしがあんたに酷い事をしたってことも分かってる。でも、あたしはその怪我について真剣に考えた方が良いと思うし、本気であんたを助けたいから、あんたに助けを求めてほしいと思ってる」
璃音の言葉は実直が故に残酷なものであった。しかし裏を返せば、真に伊武のことを想っているからこそ出た言葉でもある。とは言え心と言葉の関係というのはとても複雑で、璃音がどれだけ正しいことを言っており、どれだけ救いたいと想っていても、今の伊武の心には素直にその言葉を受け止めるだけの余裕がない。言葉とは、ある時はとても身近な処方箋となり得るが、またある時はこの世で一番無力なものである。そして最悪の場合、言葉が起爆スイッチを押すこともある。それが今だ。
「……そんなの偽善」
数秒が経ち、震えそうな声を抑えながら伊武が答える。そしてその後ゆっくり顔を上げると、真っ赤に充血した瞳をやや潤ませながら慧と璃音を睨んだ。
「勝手に不幸だって認定して、自分たちが気になるから助ける? 自己満じゃん」
「うん、確かに今は自己満かもしれない。だから話してほしいの。それで、一緒に解決しよ?」
伊武の眼差しと言葉は尋常の数倍の鋭さを有していたのだが、璃音がそれに怖気づく様子は一切なく、むしろ一歩踏み出し、刺々しくなっている伊武を包み込むような柔らかい声音で答えた。
「解決策なんてない……! もう無理なの……!」
伊武の叫びは耳朶を打ったように聞こえた。しかし実際は絞り出したような小さな叫びだったようで、それは瞬く間に、駅構内を急ぐ数多の足音にかき消された。
「向き合って、考えて、その結果が今なの……!」
「それは一人での話でしょ?」
伊武の中で肥大していく絶望を食い止めるように、璃音が割り込む。
「そうだよ。まだ諦めちゃダメだ。俺も雀野も堤先生もいる。今の江波戸は一人じゃない。違う結果が出るかもしれないし、みんなで考え直してみよう?」
今が好機だと悟った慧もすかさず璃音に続き、ありったけのポジティブな言葉をかけた。すると伊武は、
「……放っといて」
と、敵を近づけまいとギラつかせていた視線を幾分か和らげると、力なく呟いて踵を返した。
「あっ、江波戸――」
「いいの。やれることはやったんだから。きっとちゃんと響いてると思うし、今は考える時間をあげないと」
去ろうとする伊武を呼び止めようとした慧だが、それは横に立つ璃音に制された。
「いや、そうかもしれないけど、このまま一人にしていいのか?」
「大丈夫よ。多分だけど、誰かの家に泊めてもらってるっぽいし」
「なんで分かるんだよ」
「まぁなんとなくだけど、家に帰ってない割には身だしなみがキレイだし、服はあきらかにオーバーサイズだったし、足取りもしっかりしてたから、向かう場所が決まってるのかなって思ったの」
「なるほど……」
「それに、今追いかけても逆効果な気がするんだよね。たった今勝手に探ってたことを謝って、すこーし心を開いてくれたような気がしてるのに、これでまた尾行なんてしたら同じことの繰り返しかなって……」
「うーん、確かに。それも一理あるな」
どうやら璃音の方が冷静に事態を観察できているし、女心も具に理解していると思った慧は、彼女の推測を信じてそれ以上言い返すことはやめた。こうして意見がまとまった二人は、歩き去っていく伊武の背中を静かに見送り、僅かな心配を抱きながらも帰路に就くのであった。
翌日。伊武は登校してこなかった。しかし流石にたったの一日で登校してくるとも思っていなかったので、慧も璃音も別段大きな不安や心配を抱くことはなく、堤に昨日あったことを報告して一日を終えた。
その翌日。もしかしたら伊武が登校してくるかもしれない。なんて思いながら一日を過ごしたが、結局登校してこなかった。放課後、保健室にも立ち寄ったが、そこにも伊武は訪れていないらしく、慧は少しだけ焦りを覚えて伊武とのメッセージルームを開き、あとは送信ボタンを押すだけ。というところまで行ったが、どうにか不安と心配を抑え込み、打ち込んだ文字を全て消して真っすぐ帰宅した。
そしてそのまた翌日。曜日は金曜日。つまり今日来なければ土日を跨ぐことになる。できれば今日は来てくれると嬉しいのだが……。慧はそんな思いを抱きながら教室の前に到着する。そしてドアに手をかけ、なぜか呼吸を整えてからドアを開ける。しかし、窓際の一番後ろの席。そこには誰も座っていなかった。
(来てないか……)
慧は心の中で呟くと、小さくため息をついてから自分の席に向かった。
(丸二日経っても無理か……。けど、来週まで待つのも心配だな。やっぱりメッセージだけでも入れておくべきか……?)
席に着いた慧は鞄の中から筆箱やらノートやらを取り出しながら思案する。そして一つの考えが浮かぶ度、ズボンの右ポケットに手を伸ばしてスマホを取り出そうとするのだが、またその度に伊武の鋭い視線やら璃音の警告を思い出し、その手は机の上に戻った。
そうして何も出来ないままうだうだしていると、左ポケットに入れているラヴィが振動した。教室にはまだそれほど人が来ておらず、ここで話しても大丈夫そうにも思えたが、慧は念の為個室トイレに向かい、そこでイヤホンを装着した。
「どうした?」
【どうしたはこちらのセリフですよ。先ほどから何をそわそわしているのですか?】
「なにって……。メッセージを送るか迷ってるだけだよ」
【江波戸氏にですか?】
「うん。あれからもう丸二日経つし、安否の確認も含めてそろそろメッセージの一つでも入れておこうかなと思ってさ。でも、雀野の言う通り、今は考える時間とか整理する時間とかが必要だとも思うから、完全に一人にしてあげた方が良いような気もするんだよな……」
【なるほど。それで悩んでいたのですね】
「あぁ。せっかく心を開き始めてるっぽいのに、ここで下手にメッセージを送って、それが原因でまた心を閉ざしましたぁ〜。なんてなったら最悪だしさ」
【はい、正しく水の泡ですね。しかし私はメッセージを送ってみるのもアリだと思いますよ】
「なんで?」
【こればかりは推測の域を出ないのですが、もしかしたら、江波戸氏もこちらの出方を窺っているという可能性はないでしょうか? 既に心は決まっているものの、自分から助けを求めるのは気が引ける。だからもう一度手が伸びてきたらそれを掴もう。そう考えている可能性もあるのではないかと思いまして】
「まぁ確かに、無いことはないな。多分俺も、自分から助けを求めるって選択はしないと思うし」
【ですよね。だから私はアリ派ですね】
「うーん。けどさ、さっきも言ったけど、それが原因で悪い方に向かったら嫌なんだよな」
【確かに面倒だと思われる可能性はありますね。ですが、あれだけ助けるとか心配してるだとか豪語していた人たちから全くメッセージが無いというのも変な話だと思いますけどねぇ】
「た、確かに……」
【なにも詰問をしろと言っているわけではないのですから。気楽に、それこそ朝の挨拶だけ送ってみるのはいかがでしょうか?】
「そうか。既読はつけてくれるかもしれないしな」
【そうですそうです。やらぬ後悔よりやる後悔です。もしも旗色が悪くなったら、その時はまた私がご助力致します故】
「分かった。変な空気にならない程度にメッセージを送ってみるよ」
慧はそう言ってイヤホンを外すと、ズボンの右ポケットからスマホを取り出し、メッセージアプリを起動した。そして伊武とのルームを開き、
『おはよう。調子はどう?』
とだけメッセージを送り、アプリを閉じて教室に戻った。
……その後、返信が気になり過ぎて何度も何度も休み時間に通知を確認しようと思った慧だが、もしも返信が無かったら、もしも悪い内容の返信が来ていたらと考えると手が動かず、ズルズルと昼休みを迎えてしまった。しかしこちらから送っておいて確認しないわけにもいかない。そこで慧は意を決し、この昼休みにようやくスマホをポケットから取り出し、電源ボタンを押した。するとロック画面に一件のメッセージ通知が浮かび上がった。
『明日、話がある』
それは伊武からのメッセージであった。




