第七十九話 鼎立
「はぁはぁ、いた……」
駅からライブハウスのある裏路地まで休まずに走って来た慧は、数十メートル先の曲がり角に立っている璃音の後姿を見つけてようやく立ち止まった。そして数秒間両手を腰に当てて呼吸を整えたのち、慧は残りの直線を歩き出した。
「雀野」
もうすぐ合流するというところで璃音の背中に向かって呼びかけた。すると璃音はフッと振り返り、視界に慧を捉える。
「マジで来てたんだ」
「うん。雀野の作戦が良かったから」
「そ、そう? ただの思い付きだったんだけど」
「良かったよ。理にかなってるし、相当可能性を感じたよ、俺は。それで、何か動きはあったか?」
「ううん。何も。誰も来なければ誰も出てこない。てか、そもそも人が通ってないって感じ」
「そっか……。それじゃあとりあえずもう少し張り込んでみるか」
「うん。言われなくてもそのつもりよ」
璃音はニコリと笑みを浮かべながら答えると、慧から視線を外して曲がり角の向こうを窺う。きっと一瞬たりとも目を離したくないのだろう。そんな感想を抱きながら、慧も璃音に倣い、少しだけ身体を出して曲がり角の向こう側を覗き見る。すると確かに璃音の言う通り、人通りが全くない。この調子じゃあ望み薄か……。とも思える光景だが、逆に考えれば伊武が来たら確実に分かるともいえる。なんて心の中でポジティブに変換しながら、慧は璃音とともに静かに張り込みを続けた。
……それから三十分程が経過し、十時半を迎えようとしたその時、
「あっ、アレ見て……」
と、曲がり角に残ってアパートの通りを監視していた璃音が小さく声を上げた。
「来たか?」
目立たないように、かつ背後から現れることを警戒して少し後ろに立っていた慧はその声を聞いてすぐに曲がり角まで戻ってくると、さっそく角の向こう側を窺った。するとアパートのずっと奥の方から迷いない足取りでこちらに向かって歩いてくる一つの人影が目に入った。
「江波戸か……?」
「うーん、まだ分かんない……」
歩いて来る人物とはまだまだ距離があり、顔も背格好もハッキリと分からない。それに服装も、ド派手であるとか制服であるとかいう明確な特徴が無く、外見だけで確定することは困難であった。つまるところ、二人はただじっと、その人物が近づいて来るのを待つ他なかったのである。
ということで、一、二分曲がり角の裏でジリジリしていると、ようやっと向かい来る人物の姿がそれとなく分かり始めた。上は梅雨のじめじめした気候にも関わらず長袖のだぼついた黒いパーカーを着てフードまで被っており、下はこれまた少々オーバーサイズ気味のスウェットを穿いていた。身長は慧よりも低く見え、体格は服装のせいでよく分からない。なんて洞察の内にも時は進み、監視対象はアパートの前まで来ていた。そして迷わず、その人影はアパートに向かって折れた。
「今の、多分江波戸だ」
フードを被っているので確証があったわけではないが、逆にそのフードを被っているという事実や、長袖長ズボンを着用しているという事実が、慧の記憶の中にある様々な伊武の情報と結びつき、何となく今の人物が伊武であるような気がした慧は独り言のように璃音に囁いた。
「マジ?」
「うん。百パーセントではないけど、俺は江波戸だと思った」
「ふーん。なんか曖昧だけど、ここでじっとしてたって来た意味ないし、とりあえずもう少し近づいといて、今の人がアパートから出てきたら話しかけてみよ」
「あぁ。そうしよう」
慧と璃音は顔を見合わせて小さく頷くと、今の人物が再びアパートから出て来るという可能性に賭けて二人で曲がり角を離れた。そしてアパートに一番近い電柱まで歩みを進めると、再びそこで身を隠すように立ち止まった。
「ここならすぐに動き出せそうね」
「あぁ。話しかけるにしても逃げるにしても、ここならどっちにも対応出来そうだ」
「だね。あとは、今の江波戸伊武と思しき人が出て来るのを待つだけね」
アパートの方を見つめながら、璃音は何気なく答えた。そんな些細な一言から、また退屈な待機時間が始まるのだなと二人が自覚し始めた直後、アパートの通りにポッともう一つ人影が現れた。
「誰か来るわ……」
現れた人物は先ほどの人物同様、アパート方面に向かって歩みを進める。つまりは慧たちがいる方に向かってどんどん近付いて来るのである。
「どうする? 離れるか?」
「うーん。話してるフリしてれば大丈夫じゃない?」
「分かった。それで行こう」
この場に留まることを選んだ二人は、接近してくる人物に注意を払いながら電柱の近くで見せかけの会話を続ける。すると程無くして、歩いて来る人物が女であることが分かり、それが伊武の母、クロコであることも分かった。理由は単純で、始めは地味なコートを着ていて遠目では少しも分からなかった風体が、近付いて来るにつれてハッキリと分かって来たからである。顔の化粧がけばいことであったり、やけに高いハイヒールを履いていたり、気だるそうに煙草を吸う姿だったりと、それらは全て昨日見たばかりで記憶に新しかったので、二人はすぐに歩き来る人物がクロコだと分かったのであった。
「少し身を隠そう」
顔を見られたくなかった慧はそう言って電柱の陰に身を潜めた。しかし璃音は聞く耳を持たず、睨むようにじっとクロコの動向を見つめた。
「おい、雀野……」
「大丈夫よ。昨日顔を見られたわけじゃないんだから」
璃音は慧の方に一瞥もくれずに答えると、尚もクロコに睨みを利かす。すると次の瞬間、向こうがチラッと璃音のことを見た。ヤバい。慧は内心そう思った。しかしクロコは何もせず、何も言わず、ハイヒールをカツカツと鳴らしながらアパートの鉄階段を上がって行った。
「おい、何考えてるんだよ」
クロコをやり過ごして電柱の裏から出てきた慧は、未だ頑強に立つ璃音に向かってやや強い口調で言った。
「別にいいでしょ。何も無かったんだから」
「何かあってからじゃ遅いだろ?」
再度強めの口調で問い質すと、璃音はゆっくり振り返り、伏し目がちに慧を見て、
「ごめん……」
と、唇を尖らせて謝った。
「いや、俺もごめん。ちょっと強く言い過ぎた」
「うん……」
順調な空気から一変、気まずい空気が流れ始める。正直、このまま伊武かクロコのどちらかがアパートから出て来るのを待つのはキツイな。なんて慧が考えていると――
「あんた、どこほっつき歩いてんのよ?」
と、怒気と倦怠の混じった声がアパートの方から聞こえてきた。それを耳にした慧と璃音はすぐさまアパートの前まで進み出る。
「仕事、出てないって聞いたけど、どうなってんのよ。え? 関係ない? ふざけんじゃないわよ。誰が紹介したと思ってんの」
二階の一番手前にある角部屋は玄関ドアが開け放たれており、その全開のドアの前に立つクロコは室内に向かって声を飛ばし続けている。
「金入れないんだったら追い出すって言ったよね? 分かってるならちゃんと働いて?」
おおよそ親とは思えない高圧的な口調と言葉で畳みかけると、クロコは部屋に入ろうと数歩前進する。しかしその瞬間、開けっ放しの玄関から伊武が飛び出して来た。
「ちょっと、どこ行くつもり!」
母親の横を強引に駆け抜けようとした伊武だが、クロコもそう容易く娘を逃がすわけにはいかなかったので、体勢を崩しながらも伊武の腕をがっしりと掴まえ、玄関の方に引き戻した。
「離して……!」
「迷惑かけるんじゃないわよ!」
イライラが頂点に達したのか、クロコはいよいよ大きな怒声を上げた。かと思うと、それと当時に右手を振り上げた。
(まさか……!)
慧がそう思ったのも束の間、振り上げられた右手は伊武の頬目掛けて思い切り振り下ろされた。そして、バチンッ。と、弾けるような音が慧と璃音の元まで響いた。
「江波戸!」
痛烈な音を聞き、暴力の瞬間を目の当たりにした慧は反射的に声を上げていた。すると当然クロコはその声に反応し、アパートの前に立っている慧たちを発見する。
「なに、あんたたち」
不愛想で刺々しい言葉が慧たちに降りかかる。
「お、俺は、江波戸の同級生です!」
一瞬怯んだ慧だが、すぐに気を引き締め直して威嚇するような語気で応戦する。
「ふんっ。何しに来たか知らないけど、今取り込み中だから帰ってくれる」
クロコは冷ややかに言い放つと、生気を失したような瞳で慧たちを睨みつけ、視線を室内の方に、おそらく玄関にいるであろう伊武に戻した。
(クソ……! 止めないといけないのに、言葉が出てこない……!)
緊張なのか、恐怖なのか。何かを言えば足止めくらいは出来るはずなのだが、そう思えば思うほど慧の喉は締まっていき、言葉はどんどん腹の方へ押し戻されていく。するとその時、四苦八苦している慧の少し後方に立っていた璃音が慧よりも前に歩み出た。そして、
「ちょっと待ちなさいよ!」
と、怒鳴りつけるような口調で割って入った。
「ちっ、今度はなに?」
「なにじゃないわよ! それ以上動かないで!」
「は? なに指図してんの?」
まだイライラが収まっていないクロコは鬼のような形相で威圧的に答えると、璃音を無視して玄関の方に歩き始める。すると次の瞬間――
「あんた親でしょ! ちゃんと娘と向き合いなさいよ!」
璃音の容赦ない一言が轟いた。それはまさに青天の霹靂といった感じで、慧もクロコも言葉を失い、忽ちその場は静まり返った。
無言の睨み合いはしばらく続いた。それは永久に続くかのように思われたが、時が止まるなんてことは起こり得ない。すると早速それを証明するかのように一人が動き出した。それは慧でも璃音でもクロコでも無く、伊武であった。おそらく玄関に倒れていたであろう伊武は静かに立ち上がると、今度こそクロコの横をすり抜けてアパートの鉄階段を下り、慧たちと目を合わせることもなく駅の方へ走って行ったのであった。もちろん三人はそれを止めることも出来た。しかし今現在、伊武に触れてはいけないという暗黙の了解が生じているかのように、三人は彼女を見逃したのであった。そして伊武が大分遠ざかってからその規定が撤廃され、三人の時が動き出す。
「ちっ、なんなのこいつら……」
今日会ったばかりの娘の同級生に怒鳴られた挙句、娘にも逃げられてしまったクロコは突然気恥ずかしくなったのか、はたまた怒りが収まったのか、慧たちを睨みながらボソッと独り言のような文句を吐くと部屋の中へ入って行き、壊れてしまいそうな勢いで玄関ドアを閉めた。
「ふぅ。スッキリした」
取り残された二人の内、先に口を開いたのは璃音であった。
「すごい度胸だな。まさかあんな強く出るなんて」
「別に。あたしはただ、ムカついたから思ったことを言ったまでよ。でも、あんたはそれが危ないって言いたいんでしょ?」
事件が起きる直前にも慧に注意されていた璃音は、再び慧に注意されると予期して少々拗ね気味に答えた。
「まぁ、確かに危険で軽率だとは思ったよ。でも、考えてるだけじゃ江波戸を救うことは出来なかった。それを教えてくれたのは雀野のだし、実行してくれたのも雀野のだ。だから、何も言うことは無いよ。むしろその、助かったよ」
「そ、そうなの……?」
「うん。雀野のおかげで江波戸を救えたよ」
「そっか。なら良かった。でも、まだ完全に解決したわけじゃないよね?」
「あぁ、あの状態の江波戸を放っておくわけにはいかない。多分駅に向かっただろうから、電車に乗る前に見つけ出さないと」
「うん、だね。行こ」
「あぁ、急ごう」
本来ならば運良く収めた勝利を噛み締め、もっと余韻に浸る権利を得ているはずの二人だったが、真に、そして完全に伊武を救うため、二人は休む間もなく駅に向かって駆け出すのであった。




