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第七十六話 火種

 滞りなく安雲橋駅に辿り着いた二人は、ひとまず改札を抜けて切符売り場の横で立ち止まっていた。


「それで、どこに向かうの?」

「まずは江波戸の家に行ってみようと思ってる。作戦の詳細は歩きながら話すよ」

「ん。りょーかい」


 一度そこで話を区切ると、二人は駅構内を流れる人の流れに従って歩き出した。そして十数秒の沈黙の後、駅を出て少し歩いたところで慧が話を再開する。


「今日はとりあえず様子見ってことで、江波戸の家に出入りがあるかとか、江波戸の母親がどんな人なのかが分かれば良いかなって感じで、時間が許す限り張り込みたいなぁって思ってるんだけど、何時頃まで大丈夫そう?」

「うーん、六時くらい?」

「オッケー。まぁ決まった時間じゃなくても、帰りたくなったら言ってくれて良いから」

「もちろん。遠慮なく言うつもりよ」

「そ、そっか。なら良かった」

「うん。でもさー、あんま作戦に口出しするつもりはなかったんだけど、今回の張り込みって何か得られるの? 正直、誰かが来るとも限らないし、母親と遭遇できるかも分からないわけじゃん。となると、もっと確実に情報を得る方法がありそうだなぁって思っちゃうんだけど」

「そうだな。雀野の言う通りだよ」

「えっ。てことは、もっと確実な方法があるってこと?」

「うん。あると思う。けど、今はない」

「なにその言い方。要は思い付かなかったってだけでしょ」

「ぐっ……。そ、そうなんだけど……」

「頑張りは認めてほしいってこと?」

「ま、まぁ。うん。今できる限りの案は考えたつもりだからさ」

「ぷっ、あんたもそういうとこあるんだね」

「そりゃ、俺だって人間だからな」

「名言みたいに言うなし。まぁでも、作戦を考えてきてくれたことは事実だし、今回は良しとしてあげるわ」

「あ、ありがとう。……って、なんでそっちが偉そうにしてるんだよ」

「あんたが付け入る隙を与えたからじゃない」

「お、俺が悪いのか? いやでも、実際そうなのか……?」

「そうそう。だから次までに良い案を考えておくように!」

「あ、あぁ。分かったよ」


 いつの間にか会話の主導権を璃音に握られた挙句、切りのいいところで逃げられてしまった慧は反撃の機会を逸した。しかし思い返せば会話は相当脱線していたし、これ以上話していても璃音の優勢は覆りそうになかったので、むしろここで会話が切れてくれたのは良かったのかもしれない。なんて前向きな言い訳を頭の中で唱えて精神を安定させた後、慧は全く別の話題で会話を再開する。


「そういえば今更なんだけど、月曜日って軽音部のミーティングがあるんじゃなかったっけ?」

「ん? あるよ」

「えっ、出なくて良かったのか?」

「いいのいいの。ひと月に二回までは欠席しても大丈夫ってことになってるから。それに、今日はあたし以外のバンドメンバーみんな出てないから、あたし一人出ても意味ないんだよね」

「出ても意味ない?」

「そっ。バンドメンバーが全員ミーティングに出席してないと、その週はバンド練習が入れられないの。だからあたし一人がミーティングに参加したって意味ないってこと」


 システムの説明をしていくうちに、璃音の表情は俄かに曇り、声音が刺々しくなってきた。


「なるほど。確かにそれだと出る必要性は薄く感じちゃうな」


 その機微を見逃さなかった慧は、彼女の気持ちを逆撫でしないよう、寄り添うような、包み込むような言葉を選択し、ついでに微笑みも浮かべて見せた。すると、


「そうなのよ。うちのバンド、みんな自分勝手すぎ。ま、あたしもだけどね」


 慧の笑顔と言葉選びが功を奏したのか、璃音の声音は幾分か丸くなり、苦笑いではあるが一応表情の緩みも伺えた。よし。どうやらこれで一安心だ。と、少し前の慧なら思っていたであろう。しかし、今の慧はひと味違う。なぜなら、慧の感性はここ最近で急激な成長を遂げており、その感性が、この表情の裏には璃音の強がりが潜んでいる! と激しく訴えかけてきたからである。そこで慧はその感性に従い、行動に出てみることにした。


「なぁ、作戦を始める前になんか食べないか?」

「は、はぁ? いきなりなに?」

「いやさぁ、わざわざ部活を休んで手伝ってもらってるって話を聞いたらお礼がしたくなってさ。あと、景気付けってのもあるし、張り込みをするから体力も必要かなって」


 バンド仲間と上手く行ってなさそうだから。とか、お前を元気づけたいから。なんて言えるわけもなく、慧はそれらしい理由をいくつか見繕ってそう答えた。


「うーん。まぁ一理あるかもしれないけど、あたし、別にお腹減ってないし、お金もそれほど持って来てないからなぁ」


 良い感じで説得できたと思っていた慧だが、璃音の返事はあまり芳しくなかった。しかしめげるにはまだ早い。もうワンアクション起こしてみて、それでも断られたら潔く退き下がろう。そうと決めた慧は、魔法の言葉で攻めてみる。


「そっか。お礼も兼ねてるから奢ろうと思ってたんだけどな……」


 これでどうだ! 慧は心の中でそう叫びながら璃音のほうをチラリと見る。すると思惑通り、彼女は食事に勘付いた猫のように、ビー玉のような瞳を慧に向けていた。


「奢り? 奢りならまぁ、行っても良いわよ。でも、お腹は減ってないから、スイーツとかなら?」


 食いついてない風を装っているが、璃音の声音は明らかに高くなっていたし、食べたいジャンルを自ら提案している時点で、成功は確約されたようなものであった。


「いいね、スイーツ。俺、結構甘いもの好きなんだよな」

「ふーん、そうなんだ。それなら、ライブハウスの近くに美味しいクレープ屋さんがあるんだけど、そこ行ってみる?」

「あぁ、そこにしよう」

「おっけー!」


 また一段と声音を明るくして答えた璃音は、とても嬉しそうな笑みを浮かべた。

 こうしてちょっとした寄り道が増えたものの、進行ルートに変わりはない。店の場所を知っている璃音が少し先を歩く形で、二人は相も変わらず大通り沿いの歩道を進む。その内、この信号を曲がればライブハウスのある裏路地へ出る。という信号付きの横断歩道に差し掛かるが、今回はそこで曲がることなく直進する。そして信号を渡って少し歩くと、不意に璃音が立ち止まった。


「到着!」


 璃音は高らかにそう言うと身体を右に向けたので、慧もそれに倣って右を向く。するとそこには、受け取り口とレジスターと商品見本の棚だけでカウンターが埋まっているこぢんまりとしたクレープ屋があった。ビルとビルの間に無理矢理押し込まれたようなその店にイートインスペースがあるはずもなく、商品は全てテイクアウトのみの販売となっている。しかしそんな第一印象とは裏腹に、漂ってくる生地の焼ける甘く優しい匂いは、少し足を止めただけの客を一瞬にして誘惑し、惹きつける。


「いい匂いだ……」

「でしょでしょ! ここのクレープ、素材はもちろんなんだけど、生地が良いのよ。ふわもちで最高なの!」


 瞳を輝かせて語る璃音を間近にして、まるで子供みたいだな。と慧は思った。


「オススメとかあるの?」

「うーん。オーソドックスにチョコバナナもいいけど、バニラアイス入りのクレープも美味しいんだよねぇ~。キャラメルもいいし、シナモンもいいし。ん~、悩むなぁ~!」

「ははっ。オススメする側が悩むってことは、どれを頼んでも美味しいってことだな」

「そう! ほんとにそうなのよ!」


 オススメが一つに絞られるのを待っていると日が暮れてしまいそうだったので、慧は璃音に数種ピックアップしてもらい、その中からバニラアイス入りのチョコクリームクレープを選んだ。璃音は長考の末、キャラメルクリームのクレープを選び、その二つを慧がまとめて注文した。


「はい、お待たせね~」

「ありがとうございます」


 丸顔に朗らかな笑みを浮かべるおばさんから二つのクレープを受け取ると、慧は左手に持つクレープを璃音に手渡す。


「うぅ~ん、いい匂い! いただきます!」

「いただきます」


 二人は店の前から少し離れ、なるべく道の端に寄ってからクレープを食べ始める。


「んん~。久しぶりに食べたけど、やっぱり最高! あんたもそう思うでしょ?」

「うん。美味しい……」


 店の前に漂っている匂いから既に美味しそうな予感はあったが、それは舌に触れることでようやく現実的な旨味へと昇華される。ふわもちの生地からはチョコソースのかかった生クリームとひんやりとしたバニラアイスが溢れ出し、それを噛み切って口に含み、いよいよ咀嚼を始めると、今度はその、たった今出てきた甘いチョコ、まろやかなクリーム、ひんやり触感のバニラアイス、そしてそれらを包んでいたほの甘く温かい生地とが口腔内で交じり合い、新たな触感、更なる甘味となって口いっぱいに広がる。慧はその素晴らしい仕上がりに、美味しい。という率直な感想をただ一言漏らした。


「ふふん。気に入ってくれたみたいで良かった」

「あぁ。もう他の味も食べてみたいよ」

「あははっ。でしょ~。リピートしたくなるよね」


 璃音は心からの賛同を示すと、再びクレープを口に運ぶ。

 その後、談笑を交えながら五、六分かけてクレープを食べ終えた二人は、店前の端っこに置かれたゴミ箱に包み紙を捨て、今来た道を少しだけ引き返し、ライブハウスのある裏路地に入った。


「あぁ~、美味しかった。奢ってくれてありがとね」

「いいんだよ。お礼も兼ねてるって言っただろ」

「そっか、そうだったね。でも、ありがと」


 改めてお礼を述べた璃音は、少しだけ頬を赤らめた。


「どういたしまして。ってことで、こっからは切り替えていかないとな」

「だね! 最低でもクレープ分の働きはしないと!」


 完全に邪気の濯がれた璃音のおどけたセリフに、二人は微かな声を漏らして笑みを浮かべる。

 なんてやり取りをしながら二人がライブハウスの手前まで来たその時、事件が起きた。


「安雲橋にこんなライブハウスあったんだな」

「ね〜。知らなかったわ」

「駅から割と近いし、ステージもフロアも広いし、良さげだよな」

「はい。今からとても楽しみです」


 下見に来ていたであろう男二人と女二人の計四人組の学生が感想を語りながらライブハウスから出てきた。その内三人は天方中央高校の制服を着ており、一人の小柄な女子生徒のみが別の高校の制服を着ていた。その姿を見て、どこの高校だろう。なんて慧が呑気に考えていると、隣を歩いていた璃音が慌てて数歩前に飛び出し、声を漏らした。


「えっ……。ここで何してるんですか?」


 璃音の声を聞いた学生たちは一斉にこちらを見る。そして間もなく璃音の姿を視界に捉えると、小柄な女子生徒一人を除く他の三人が、ほとんど同時に表情を歪めた。


「よ、よお、雀野!」

「き、奇遇だな……」


 まず反応を示したのは男子の二人であった。一人はやけに元気よく、もう一人はあからさまにおずおずと、璃音の顔色を伺いながら返事をした。かと思うと、二人は肩を寄せ合い、後ろに立つ小柄な女子生徒を隠した。


「ごめんね~。ミーティング出れなくて」


 二人の男子生徒とは打って変わり、一瞬にして平静を取り戻し、表情を整えたロングヘアの女子生徒が前に出て来てそう言った。


「ミーティングも出ずにここで何してるんですか? あと、後ろの子は誰?」


 勝気な璃音が勢い任せの誤魔化しに流されるわけもなく、芯の通った質問を返す。


「俺たちは……」


 一番背の高い男子生徒が小さく口を開いたが、それ以上の言葉は続かない。すると先ほど前に出てきた女子生徒が更に前へ出て来て、


「私たち、もう一つバンドを組んでたの」


 と言い放った。


「いつからですか?」

「雀野さんとバンドを組んだのとほとんど同時期よ」

「お、俺がボーカルとして雀野を推薦した時、こいつもボーカル候補がいるって言うから、それなら二つバンドを組んで試そうってことになって……」


 女子生徒が事実だけを答えた直後、その後ろに立っていた背の高い男子生徒が早口で成り行きを説明した。


「要は黙って品定めしてたってことですね?」

「いやいや、そういうわけじゃ――」

「そうよ」


 空気はまさに一触即発。慧は目の前で繰り広げられる女二人の無言の睨み合いに固唾を吞む。


「二人に悪いとは思ってたわ。でも、複数人で音楽をやる以上、相性があるっていうのは雀野さんにも分かるでしょ?」


 怒る動物を宥めるような調子で女子生徒が説き伏せにかかる。それに対し璃音はすぐに答えず、一度天を仰ぎ、大きく深呼吸をしてから向き直る。


「そうですね。分かります」

「良かった。今日はいつもより冷静みたいで。そこで提案なんだけど、この件に関しては改めて話すことにしない? 腰を据えて話せるほうがいいでしょ。みんなもそのほうがいいよね?」


 先頭に立つ女子生徒が振り返ってそう問うと、男子二人も、その後ろに立つ別の高校の制服を着る小柄な彼女も、皆頷いて答えた。


「雀野さんも、それでいい?」

「……はい。あたしも今日は用事があるんで」


 口ではそう答えるものの、璃音の瞳は今すぐにでも噛み付いてやると言わんばかりの鋭さで相手を睨んでいた。


「ありがとう。それじゃあまた連絡するね」


 しかしそんな璃音の性質を知悉している彼女は、手短に挨拶を述べて駅の方に向かって歩き出す。するとそれに続いて残りの三人も歩き出し、ライブハウス前はあっという間に人気が失せ、元の静けさを取り戻した。しかしそれは外面的な話で、慧の耳には確かに聞こえていた。璃音の内面でメラメラと煮え立つ怒りの音が……。

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