第七十二話 深まる信頼
屋上を離れた二人は視聴覚室へ向かい、そして璃音の宣言通りバンド練習後の放置されていた機材の後片付けをし、二十分ほど経ってようやく一段落した。
「はぁ~。やっと終わったわね」
「ふぅー。あぁ、思ったより疲れたよ」
「アンプとかマイクスタンドって案外重いからね」
「うん。でも、ライブハウスで手伝いをした時は、そんなに重いと思わなかったんだけどなぁ」
「ま、いいやつ使ってるんでしょ」
視聴覚室の隣にある倉庫にマイクやらアンプやらスタンドやら、一式の備品を片付け終えた二人は各々伸びたり肩を回したりとストレッチをしながら他愛無い会話を交わす。
「どーせあたしが鍵返しに行くし、ちょっと休んでから帰ろっか」
璃音はそう提案すると、慧の答えを聞かずに視聴覚室の中に入って行く。
(拒否権なしかよ)
残された慧は反抗的な一言を心の中で漏らした。しかしそれは咄嗟のツッコミみたいなもので、実際には璃音を置いて一人で帰る残酷さも無ければ勇気も持ち合わせていない慧は、何も言わずに視聴覚室へ向かう。
「ドア。開けっぱでいいからね~」
視聴覚室に入るとすぐ、璃音のリラックスした声が聞こえてきた。
「あぁ、うん。分かった」
一応閉めるつもりで防音ドアのハンドルに手を掛けていた慧は、璃音の言葉を聞いて手を引いた。そして緩やかな弧を描いた階段教室となっている内部に目を向けると、長机三列の内、真ん中の列の一番前の席に腰掛けている璃音の姿が目に留まった。
「今更だけど、ここなら防音室だから外に漏れないよね」
慧と目が合うと、璃音はたった数分前の出来事をまるで大昔の失態のように語りながら笑みを浮かべた。
「確かに。言われてみればそうだな」
このやり取りには豪快な面白さなど微塵も存在しなかったが、ニヒルな笑みを浮かべる璃音を見ているといつの間にかそれが慧にも伝播し、笑っているのに楽しそうではない不思議な笑顔が出来上がった。
「風見も座りなよ」
「あぁ、言われなくても」
そう答えると、慧は長机三列の内一番手前に位置する右列に向かい、そこの最前列の中央寄りの端席に腰掛けた。ここならば璃音と近過ぎず遠過ぎず、絶妙な距離感だと思ったからである。
「そういえばさ」
席について数秒、ふと疑問が浮かんで来た慧が話を再開する。
「ん、なに?」
「解散してから保健室に来たって言ってたよな?」
「そうだけど。なんで?」
「いや、俺の中ではさ、片付けも含めて全部終わったら解散なんじゃないかなぁって思ったからさ」
「ま、まぁそれはアレよ。怪我して練習を中断させちゃったから、あたしが片付けときます~って言ったのよ。それにそもそも、あたし一年だし!」
「ふぅん。それで今日はそのまま解散になったのか」
「う、うん。そゆこと」
「なるほどね。まぁだとしても、それを鵜呑みにして片付けを全部怪我人に任せるなんて、薄情な先輩たちだな」
「あはは、だね……」
慧は純粋な疑問と率直な感想を述べただけなのだが、それに対して璃音がしどろもどろに答えたので、なんだか会話が噛み合っていないような違和感を覚えた。すると間もなくその違和感が派生して、もしや彼女はまだ何か隠し事をしているのでは? という疑惑が湧いてきた。しかしそれと同等に、この期に及んで隠し事をするはずがない。という信頼も生じており、慧は信と疑、相反する二つの感情を胸中で争わせた。
「ちょっと、怖いんですけど……」
葛藤に意識を奪われていた慧は十数秒間璃音を見つめてしまっていたようで、璃音は凄く渋い表情を浮かべ、半ば身を引きながら耳を少々赤らめてそう言った。
「あっ、ごめん。でも気になってさ」
「えっ、まだなんかあるわけ?」
「うん。先輩たちのことなんだけど、やっぱり雀野一人に押し付けるのはおかしいような気がしてさ。確かに雀野が怪我をしてバンド練習が――」
「ストップ! 分かったから!」
慧の熱弁が始まろうとした瞬間、璃音が即座にそれを制止した。
「ご、ごめん……」
その予期せぬ事態に勢いと思考を奪われた慧は、ほとんど本能的に謝罪の言葉を呟いていた。
「はぁ……。謝るのはあんたじゃなくてあたしの方よ」
「え?」
「実はね、また先輩たちと喧嘩したの。それも、今回に関してはあたしの方が悪いって分かってたんだけど、それでもその時はカッとなって言い返しちゃって……。で、先輩たちは怒って帰っちゃったから、あたし一人で片付けをすることになったんだけど、とりあえず傷の手当てをしないと機材に血が付いちゃうと思って先に保健室に行ったら、そこであんたと出くわしたってわけ」
「そうだったのか……。でも、なんで急に話そうと思ったんだ?」
「それは……。正直保健室のこととは無関係だから黙っておこうと思ってたんだけど、あたしが悪いのに先輩たちが悪者扱いされるのは流石に申し訳ないし、それに、あんたに変な気を遣わせるのも悪いと思ったからよ」
「ははっ。そっか。雀野らしいな」
「は、はぁ? どこがよ?」
「素直なところ? いや、他人に迷惑を掛けようとしないところ?」
「べ、別にあたしは……。そう、あれよ! 今後のあたしの立ち位置が悪くならないためにこうしたの!」
「そっか。まぁ何にせよ、雀野が自分のためにそうしたんならそれで良いよ」
「な、なにそれ……」
璃音は不満そうにブツブツ呟きながら頬を紅潮させたかと思うと、それを隠すように慧から視線を逸らした。
「てか、あっちの方はどうすんのよ」
気まずい雰囲気を打破したかったのか、それとも単純に本題を思い出したのか、璃音はつと話を切り出した。
「あっち? あぁ、江波戸のことか」
「それ以外ないでしょ」
「あっちとか曖昧な表現するから……」
「なに?」
「いや、なんでも」
「で、なんか策は無いわけ?」
「たった数分で名案が思い浮かぶわけないだろ」
「あんた、真剣に考えてないでしょ」
「そ、そんなわけないだろ。真剣だからこそ、じっくり考えようとしてるんだよ」
「ふーん、あっそう……」
「やめてくれよ、その疑いたっぷりの視線」
「だってさぁ、口では何とでも言えるし~。行動で示してくれなきゃなぁ~って」
「うーん……。分かったよ。それじゃあ、江波戸がいない時にコンビニに行こう」
「いない時に?」
「うん。まずはコンビニの店長から探ろうかなって」
「ほう。何故に?」
「働いてる様子とか、江波戸以外の人間とどう接してるのかとか、あとは、まだ江波戸の家に出入りしてるのか。とか?」
「うんうん。いいじゃん。それで行こう!」
「えっ、あっさり過ぎないか?」
「こんなもんでしょ。それより、なんにも計画無い方が嫌だし」
「まぁ、それもそうだな……」
「でしょ? ってことで、タイミングはそっちに任せるけど、早めに連絡頂戴ね」
「あぁ、分かったよ」
「よし。それじゃ、今日は帰りましょ!」
「うん」
こうして短い小休止は、得てせず璃音の秘密を暴き、お粗末な作戦会議から凡庸な策を生み出したところで幕引きとなった。
それから土曜日を経て日曜日。二日続けて何一つ予定が入っていなかった慧は、起床してから昼頃まで自室に籠ってスマホをいじったり小説を読んだりしていた。しかし起床時刻が八時前後だったこともあり、とうとう腹の虫が鳴き始めた。
(流石に腹が減ってきたな。昨日は何とか乗り切ったけど、今日はなんか食べとくか……?)
前日に倣い、朝食と昼食は飛ばして夕食だけ摂ろうと考えていた慧だが、どうやらそれは浅はかな考えだったようで、正午を過ぎた辺りから空腹の知らせが止まらない。最初は無視できていたそれも、断続的に鳴ることでジワジワと慧の集中力を削いでいき、そして最終的には慧の脳内に、食事を摂る。という確固たる選択肢を顕現させた。
(二時前か……。まぁ今食べとけば、八時頃にはまた腹が減ってくるだろ)
時計を見て簡易的な逆算を行った慧は、まず椅子から立ち上がり、勉強机の上に置いている学校鞄から自宅のカギと財布を取り出す。次いでスマホを右ポケットに入れ、ベッドサイドテーブルに置いているラヴィの本体を左ポケットに入れると、イヤホンと眼鏡を流れるように装着して自室を出た。
【お出掛けですか、ご主人?】
「うん。ちょっと食料調達に行こうかなと」
【コンビニですか?】
「まぁそうかな。とりあえず今日の昼と夜の飯があれば良いし」
【でしたら、雀野氏に連絡をした方が良いのではないですか?】
「雀野に?」
【はい。だって、動き出す時は言ってくれ~。とか、早めに連絡をくれ~。とも言っていましたよね?】
「うーん。まぁ言ってたけどさぁ……」
【おや、乗り気じゃないのですか? 雀野氏は相当協力的だったように見えましたが】
「いや、雀野が協力的だってのは分かってるんだよ。けどさ、昨日一日冷静に考えてみて、やっぱり巻き込まない方が良いのかもな~。なんて」
【何を言っているのですか。ここまで来て、やっぱり協力はいいや。なんて言われる方が、雀野氏は怒ると思いますよ?】
「あぁー、確かに。怒ってる姿が目に浮かぶな……」
【ですよね。だから連絡だけでも入れておきましょう。少し待ってみて、それで連絡が来ないのならば一人で行けば良いだけの話ですから】
「だな。仰せのままに」
遜った返事は却って厭味のように聞こえてしまったが、ラヴィがそんなことを気にするはずもないので、慧は右ポケットにしまっていたスマホを取り出して璃音との個人チャットルームを開き、『今暇? これから軽い偵察がてらコンビニに飯を買いに行こうと思ってるんだけど、一緒に行く?』とメッセージを入れて階下のリビングに向かった。
現在時刻は一時五十五分。それを見て、じゃあひとまず五分待ってみるか。と、第一関門を二時にセットした慧は、スマホをダイニングテーブルに置いてキッチンへ向かった。そして冷蔵庫から麦茶の入ったピッチャーを取り出すと、コップの半分程まで麦茶を注ぎ、ちびちびと濯ぐように麦茶を飲む。しかしこの一連の動作をどれだけ緩慢に行おうとも、二分以上の時間を潰すことは出来ない。まぁ一、二分潰せて喉も潤せたのだから良しとしよう。なんてことを考えながら空になったコップをシンクの端に置いた慧は、ダイニングに戻ってテーブルに置いたままにしていたスマホを手に取る。そして念のために電源を入れると、メッセージの通知が表示された。送り主は璃音であった。
(はやっ!)
慧は心の中でツッコミを入れながらメッセージを開く。内容はとても単調で、『行く!』とだけ来ていた。それに対し慧は、『了解。駅前まで迎えに行くよ』と返信を送る。しかしすぐに『大丈夫、もうそっち向かってるから!』と返事が来たので、慧は素直にその言葉を受け入れ、『了解』とだけ送り返して玄関へ向かった。
しかし玄関に来て慧は思った。家を出るには早くないか? と。メッセージのやり取りがあまりにも迅速だった故にノリで玄関まで来てしまったが、きっと璃音は今駅前を通過したくらいだろう。ではここで立ち往生するか? リビングに戻るか? いや、どちらも億劫だ。ならばいっそ外に出て待とう。割り切ってその考えに至った慧は早速靴を履いて立ち上がると、玄関ドアを押し開けた。
外に出たところで勿論璃音の姿はない。目に映るのは斜向かいに停まる一台の赤い軽自動車だけである。しかしその軽自動車も、慧が出てきてすぐに走り出してしまった。ふと、走り出すまで運転手の女性がこちらを見ていたような気もしたが、サングラスでその視線の先は読めなかったし、恐らくゆとりある時間が妄想を生み出したのだろうと決めつけて、慧はその場で振り向き、自宅の鍵を閉めた。
それから数分後、門扉の脇でスマホをいじって時間を潰していると、軽快な足音が聞こえてきた。それに反応して顔を上げると、荒いながらも規則正しい呼吸法で走り向かってくる璃音の姿が目に入った。
「はぁはぁ、ごめん。おまたせ!」
走ってきた璃音は息を整えながらそう言った。
「いや、大丈夫だよ。てか、急に呼び出したのはこっちだし」
「ま、それもそうね」
「うん。少し休んでから行くか?」
「ううん。平気。行こ」
「分かった。じゃあ行こう」
準備が出来ているか確かめ合った二人は緩やかな歩度で歩き出し、その調子のままコンビニ目指して住宅街を進んだ。




