第七十一話 敵か味方か
保健室前の廊下に佇む二人は互いに声を出せずにいた。その理由はもちろん驚きが大半であったが、慧の脳内にはそれに次ぐ大きな不安があった。
(もしかして今の話。聞かれてたか……?)
そう勘繰れば勘繰るほど、慧の表情はじわじわと歪んでいく。すると、
「き、奇遇ね。こんなところで会うなんて」
同じく苦しそうな表情を浮かべる璃音が口火を切った。
「あ、あぁ、うん。まさかこんなところで会うなんてな。ははっ……。それで、雀野は保健室に用が?」
「えっ、う、うん。そうなのよ。ちょっと指を切っちゃって」
璃音は答えるとともに右手を軽く上げると、そこで掌を慧に向けた。すると確かに人差し指の先に切り傷があり、そこからじんわりと血が滲んでいた。
「血が……。早く処置してもらった方が良さそうだな」
「ほんとだ。そんなに深くないはずなんだけどね。あははっ……」
分かり切った愛想笑いを浮かべると共に慧の横をすり抜けると、璃音はそそくさと保健室の中に入っていく。
(あの感じ、絶対聞こえてたっぽいな……。傷は見た感じそんなに深くなさそうだったし、多分処置は早く終わるよな。じゃあ雀野には悪いけど、出待ちさせてもらうか)
保健室のドアを鋭く睨みながら即断即決した慧は、ドアから少し離れたところで壁に背中を預け、璃音が出てくるまで今しばらく待機することにした。
数分後。思った通り高速で応急処置を終えた璃音が保健室から出てきた。そして間もなく慧の存在に気付き、苦笑いを浮かべた。
「ど、どうしたの? 保健室に忘れ物したとか? あははっ……」
まだ誤魔化せると思っているようで、璃音は尚も猿芝居を続けている。それに反し慧は既に事情聴取をすると心に決めているので、ゆったりとした動作で壁から離れると、落ち着いた余裕の表情で彼女を見つめる。
「な、なによ……」
「部活はもう終わったの?」
「うん。まぁ、今日はもう終わりかな。解散してから保健室に来たし」
「そっか。じゃあさ、この後少しだけ時間良いかな? 話したいことがあるんだけど」
少し落ち着きを取り戻しつつあった璃音だが、慧のその返しを聞いて再び焦り始めた。その証拠に、茶色がちな瞳が大きく見開かれていた。
「は、話っていうのは、ここじゃダメなの?」
「まぁ、出来れば人が通らなさそうなところが良いかな」
慧がそう答えると、璃音はバッと身構えた。実にわざとらしく。
「なっ! それってまさか……。告白?」
「んなわけあるか」
「だ、だよね」
予め何か吹っ掛けてくると分かっていた慧は、冷酷とも思われかねない冷静さで返答すると、璃音は一気に勢いを失って答えた。
「それで、時間はあるのか?」
「はい……」
今のが最後の手段だったようで、敢え無く玉砕した璃音は両肩を落としながら小さく頷いた。
「ありがとう。じゃあとりあえず、テラスでも行くか」
「待って。屋上なら絶対に誰も来ないよ」
「えっ、あぁ、確かに。なら屋上にするか?」
「うん。屋上にしよ!」
「分かった。雀野がそう言うなら屋上にしよう」
「サンキュ。行こっ!」
数秒前まで気落ちしていたはずの璃音は、もういつも通りの明け透けのテンションに戻ってそう言うと、先に廊下を歩き出した。それを見ていた慧は、自棄になって逃げるのではないか。と思い、咄嗟にその背中を追ったのだが、どうやらそれは杞憂のようで璃音が逃げ出す気配はない。それじゃあきっと彼女は腹を決めたのだな。そう思うことにした慧は、何も言わずに璃音と一緒に階段を上り、四階まで来ると渡り廊下を進んで教室棟へ移り、そして屋上へと続く階段を上がると、二人はものの数分で屋上に辿り着いた。
「すぅー、はぁー。やっぱ屋上って良いわ」
鉄のドアを押し開けて颯爽と屋上に飛び出していった璃音は、空に向かって大きく両手を広げ、身体の節々をうんと伸ばしながら深呼吸をした。
(確かあの時も、バンドメンバーと喧嘩した時も、雀野は屋上に来てたよな。屋上が好きなのかな? それとも落ち着くとか?)
屋上へと続くドアを片手で押さえながら、日光を全身に浴びている璃音の背中を見ている慧は、あの時見つけた背中のことを思い出した。
「どしたのー! 話、あるんでしょ!」
「あぁ、うん。今行くよ」
まだ二か月も経っていない出来事を懐かしんでいると、外で待っている璃音から声がかかった。それで思い出の中に沈んでいた意識が戻ってきた慧は、やや早口に返事をすると屋上へ出た。
「そっちが誘ったんだから早くしてよね。あたしだって暇じゃないんだから」
「ごめん。でも、さっき話してた感じ、今日はもう予定はなさそうに思えたけど」
「あぁーもう! そういう詮索はいいから!」
「ごめんごめん。じゃあ早速本題に移るよ」
そう答えたはいいものの、まだ話す内容が定まっていない慧はここで一度言葉を区切る。するとそんな慧の様子を見て何かを感じ取ったのか、璃音の顔つきがキュッと引き締まった。
(急に真剣な表情になったな。話の内容を察してるのか? それだったら変に遠回りする必要もないよな)
話し出そうとして璃音の表情の変化に気付いた慧は、それで質問の内容が整った。
「単刀直入に聞くけど、さっきの保健室での俺と堤先生の会話。聞こえてたよな?」
ズバリそう問うと、璃音は分かりやすく唾を飲み込み、
「うん。聞こえてた……」
と、消え入りそうな声で答えた。
「やっぱりか……」
「でも、聞くつもりは無かったの! 指を切ったのもホントだし! って言っても、盗み聞きしたのは事実だもんね。その、ごめん」
「いいんだよ。いつ誰が来るとも分からない保健室であんな話をしてた俺たちだって悪いんだから、雀野が謝ることはないよ」
「でも、その、えっと……」
何か言いたそうに話し出した璃音だが、意味を持たないフィラーだけを並べると、眉をひそめて逡巡の様子を見せ、最終的には口を結んでしまった。
(話し辛そうにしてるってことは、話の核心を聞いたってことだよな、きっと。とは言え憶測で話を進めるわけにもいかないし、変に話を拗らせない為にも、ここは一つ一つ着実に話を進めていった方が良さそうだな)
言葉が続かない璃音を見て、自分が流れを作らなくてはならないことを察知した慧は小さく深呼吸をすると主導権を握りに出る。
「分かった。それじゃあ俺が質問するから、雀野はそれに答えてくれ」
慧がそう提案すると、璃音は幾分か表情を和らげて頷いた。
「まずは、どこから話を聞いてたか。だな。俺と堤先生が協力して何かをするって話は聞こえてたよな?」
一つ目の質問に璃音は頷いて応える。
「それじゃあ次は、コンビニの店長が。とかは聞こえてた?」
「うん……。ていうかその、お母さんが。ってところまで……」
質問に答えているだけというのが忍びなくなったのか、璃音は次なる質問が飛んでくる前に全てを白状した。
「あぁーっと、つまり全部ってこと。だよな?」
「うん。ごめん……」
「ははっ、なるほど……」
璃音の声音からも表情からも申し訳なさがひしひしと伝わってきたのだが、それでも何か気の利いた一言が浮かんでくることはなく、結局慧の口から出てきたのは乾いた笑いと微塵の慰めにもならない自己完結の言葉であった。
「ほんっとにごめん! 聞こえ始めた時点でこれ以上は聞いちゃダメだって分かってたんだけど、好奇心に負けて最後まで聞いちゃいました!」
雲行きが怪しいと思ったのか、しおらしく謝っていた様子から一変、今度は九十度に等しい綺麗なお辞儀をしながら大声で懺悔した。そんな璃音の姿を見て、慧は再び言葉を失いかけたのだが、却ってそれは慧に一つの閃きをもたらした。
「さっきも言ったけど、警戒して無かった俺たちも悪いんだから、偶然聞いちゃったことは仕方ないよ」
「風見……!」
「それに、分かってて聞き続けちゃったって全て洗いざらい話してくれたのも凄く嬉しい」
「じゃああたしは無罪――」
「でも、最後まで盗み聞きしたってことは覚悟があったってことだし、今こうして懺悔したってことは、罪悪感があるってことだよな?」
「えっ、うん。それはまぁ……」
「じゃあそこで相談なんだけど、罪滅ぼしだと思って協力してくれないか?」
閃いた筋書き通り、慧は確実に決まるカウンターパンチを繰り出した! が、よくよく考えてみると璃音と伊武の関係性は最悪で、彼女に協力を仰ぐのは一番の悪手であった。しかし事態は急を要する。加えて正常な精査が出来ない中、迅速な情報収集、璃音の口止め、そして少数の協力者の必要性を感じていた慧としては、その全ての条件を一挙に満たす選択。つまりは璃音を抱き込むという選択が、まるでダイヤモンドの原石のように、まるで神からのお告げのように輝いて見えてしまったのだから、これを選ぶより他無かった。
「……分かった。手伝うわよ」
返答を持ち帰りされるところまで想定していた慧だが、璃音が案外すんなりと申し出を受け入れてくれたので、慧の方が面食らってしまった。
「い、いいのか?」
「うん。あんな実情を知っちゃった以上、見て見ぬふりも出来ないし」
真剣な表情で力強く答える璃音を見て、そこに嘘偽りは無いのだと慧は悟った。
「ちょっと脅しみたいになっちゃったけど、受けてくれてありがとう」
「いいのよ。だって全部あんたが言った通りだし。あたしの意思で聞き続けたんだから、何を言われても文句は言えないわ。ていうか、交渉するなら最後までやり切ってよね。なんであんたの方がびっくりしてるのよ」
「わ、悪い……。もう少し考え込むと思ってたから……」
「まぁ確かに、あたしたちは仲が良いとは言えないわね。でも別に嫌いってわけじゃないから。ちょっと気に食わない部分はあるけど、あたしだって仲良くなろうと心掛けてるし……」
「えっ、そうだったのか?」
「そ、そうよ! 部活も一緒になったわけだし?」
「にしては毎度毎度ケンカ腰だったような……」
「過ぎたことはもういいの! それに、手伝うって言ってるんだからそれでいいでしょ!」
「は、はい。すんません」
「それで、いつから動き出すわけ?」
「いや、まだ全然決めてないよ」
「はぁ~? 思い立ったが吉日ってやつじゃないの?」
「そうも言うけどさ、急いては事を仕損じるとも言うだろ」
「知らない! あたしはそんな言葉知らないから、さっさと何するか決めるわよ!」
いつの間にか会話の主導権を握っていた璃音はそう言い切ると、屋上の出入り口に向かって走り出す。
「あっ、おい、雀野!」
「ほら早く! まずは視聴覚室の片づけよ!」
「は?」
「あんたが無理矢理連れ出したんだから、そのくらい手伝いなさいよね!」
出入り口のドアを開いて振り返った璃音は、満面の笑みを浮かべてそう言った。そのひまわりのような笑顔を前にして、何か言い返すのは野暮なような気がした慧は半ば呆れながらも、半ば安心した微笑みを返し、璃音に続いて屋上を後にした。




