第六十一話 日常のズレ
翌朝、アラームの音で目覚めた慧は全身の倦怠感に驚いた。体調が悪いというわけでは無く、ただただ身体が怠く重かったのである。眠りも相当深かったので、自分が思っていた以上に身体は疲労していたのだろうと決め込んで、慧は朝のルーティーンを済ませるために動き出した。
いつもの調子で準備を進めていた慧だが、家を出る時間はいつもより数分遅れた。とは言えそれでも電車が来る前には駅に着く計算だったので、慧は余裕綽々で住宅街を進んだ。しかし慧が駅に着いてすぐ、耳馴染みのある轟音が聞こえて来た。それを耳にした慧は急いで改札を抜け、プラットホームに出た。すると丁度電車が到着し、自動ドアが開いたところであった。
(今日は自分が思っている以上に身体が上手く動いてくれないみたいだ……)
自分が急に年老いたような感覚を抱きながら、慧は電車に乗り込んだ。
十数分間電車に揺られ、天方中央駅で下車する。今日は何をするにも一歩遅れてしまう日ではあるが、マインドを変えればどうと言うことは無い。同じ高校に通う生徒たちは同じタイミングで電車を降り、同じ改札を抜け、同じ道を通って同じ学校に向かうわけなので、慧は自分のペースで歩くことは諦めて、同じ制服を纏う彼らの後を追えば良いだけなのである。そうしていれば、遅刻をすることは無い。と、数メートル前を行く男子生徒の背中を見ながら呑気に考えていると――
「あっ、風見!」
背後から声がかかった。慧が振り向くと、そこには恵凛と璃音が立っていた。
「同じ電車だったんだ。一本早い電車だと思ってたよ」
「あはは~。あたしが寝坊しちゃってね~」
璃音は朗らかに答えると、眠たそうに欠伸をした。
「俺も今朝から身体が怠くて仕方ないよ」
「へぇー、恵凛も似たようなこと言ってなかった?」
「はい。連休中歩いてばかりだったせいか、足が重くて」
「そっか。龍宮もなんだ」
「あんたたち、二人そろって筋肉痛なんじゃない? 普段運動してないでしょ?」
「まぁしてないな……」
「はい……」
慧と恵凛が力なく答えると、璃音はニヤリと笑って歩き出した。
「ほらっ、このペースで行かないと遅刻するよ!」
数歩進んだ璃音は後ろを向いてそう言うと、すぐに前へ向き直って歩いて行く。残された慧と恵凛は小さくため息を吐くと、早足で璃音の後を追った……。
「ふ、二人とも、どうしたんだ?」
朝のホームルームギリギリに登校してきた友宏は、机に突っ伏している慧と恵凛を見て思わず問いかけた。
「無駄に早く歩かされたんだよ……」
璃音に乗せられた慧と恵凛は、結局ホームルームが始まる十分以上も前に教室に辿り着いたのであった。
「ご、ご愁傷様……」
少しも顔を上げない二人にそう言い残すと、友宏は静かに自分の席に向かった。
……その後、倦怠感が抜けることはなく、気付けば午前の授業が全て終了していた。
「おーい、元気になったか?」
昼休みに入ると、おにぎり二つを持った友宏が慧のもとに来た。彼は慧に声を掛けながら、慧の一つ前の席を引き出してそれに座った。
「まぁ、多少は」
四時限目が終わってすぐ机に突っ伏していた慧は、ノロノロと上体を起こし、眼鏡を掛けて友宏のことを視界に入れてから答えた。
「あんま元気には見えねーな」
友宏は苦笑交じりに言うとおにぎりを包むサランラップを解き始める。
「ま、こういう時は食うに限る! 食って元気をチャージしようぜ」
サランラップからおにぎりを解放した友宏は、そう付け足しておにぎりにかぶりついた。
「確かに、それもそうか……」
何となく聞いていた友宏の言葉に何となく納得した慧は机の横に引っ掛けている鞄を手に取り、膝の上に置いた。そして中から冷食だらけの弁当箱を……。取り出そうと思ったのだが、そこに弁当箱は無かった。
「あれ……?」
「ん、どうした?」
「いや、忘れた」
「お前、今自分が何をしようとしてたのか忘れたってことか?」
「いや違うよ。弁当を忘れたってこと」
「んだよ、びっくりさせんなよ。無いなら購買に行けば良いだろ」
「そんな簡単に言うなよ。俺にそんな財力は無い」
「そうなん? お前結構購買に行ってるイメージあったけどな」
トイレに行ってラヴィと話していた時もあるし、一人になりたくてテラスに行っていた時もあるが、それら全てを購買に行っていると友宏は勘違いしているのだろう。慧は瞬時にそれを悟ったが、そう言う事にしておこうと思い、
「まぁ、それなりだよ」
と答えた。
「ふーん。で、飯どうすんの?」
そもそもの解釈が食い違っている無駄な議論をこれ以上展開されるのも苦であったが、こうして現実を叩き付けられるのも相当な苦しみであった。
「いや、どうって……。今日はもう何も食べずに過ごすよ」
「ははっ。マジか、チャレンジャーだな」
友宏は笑いながら答えると、二個目のおにぎりを一気に半分近く頬張った。恐らくその行動に悪意など含まれていないと思うのだが、それでも少しイラっとした慧は変なことを言わないように黙り込んだ。これが彼なりのアンガーマネジメントなのであった。
「あの……」
心の中で深呼吸をして怒りを抑え込もうとしていると、右隣から声が掛かった。慧がそちらに視線を向けると、恵凛が覗き込むようにこちらを見ていた。そして彼女の机には、まだ開けていない竹で出来た弁当箱が置かれていた。
「どうしたの?」
慧は心を染めている怒りが表に出ないよう、少し間を置き、意識的に穏やかな口調で答えた。
「これ、よろしければどうぞ」
恵凛はそう言うと弁当箱の蓋を開け、竹籠を慧の方に差し出した。その中にはサンドイッチが数種詰まっていた。
「え、いいの?」
「はい。身体が資本ですから! しっかり食事は摂った方がいいですよ」
そう付け足すと、恵凛はグッと慧の方に竹籠を突き出した。
「そ、それじゃあ……。これ」
左から順に、たまごサンド、ハムチーズサンド、トマトレタスサンド、ツナサンドと並んでいる中、慧は一番左にあるたまごサンドを選んだ。サンドイッチたちはほとんどぴったりと竹籠に収まっており、指の入る隙間が無く、慧は手に取る際、ふわふわのパンを少し押し潰しながらたまごサンドを取り上げた。
「いただきます」
恵凛と視線を合わせて感謝の念を込めながら挨拶をすると、慧は大きく一口、たまごサンドをかじった。
「ん。美味しい」
「本当ですか? 良かった」
慧の感想を聞いてホッとしたのか、恵凛はニコリと笑みを浮かべ、両手に持っていた竹籠を机の上に戻し、自分もそこから一つサンドイッチを手に取って食事を始めた。
つい先ほど、何も食べずに過ごす。なんて豪語していた慧だが、恵凛から貰ったサンドイッチはものの数秒で平らげてしまった。サンドイッチがそこまで大きくなかったということもあるが、単純に空腹だったことも当然起因していた。
「おい慧……」
短い食事を終えた直後、友宏が小声で話し掛けて来た。さては、お前やっぱり腹減ってたんじゃねぇか。と茶化してくるだろうと思った慧は何も答えずに視線だけを友宏に向けた。しかし向けた後で、なんで友宏は小声なんだ? という疑問が浮かび上がってきた。するとその問いに答えるが如く、
「お前、周りの奴が見てるぞ」
と友宏が小声で続けた。
「え……?」
慧は予想外の台詞に思わず声を漏らした。そしてそれからあからさまにはならない程度にザッと周囲に目を向けると、確かにこちらをチラチラと見ながら話をしている何組かの集団が目に付いた。
「慧、ちょっとトイレ行こうぜ」
何も言葉が続かない慧を見てそう提案したかと思うと、友宏は間断なく立ち上がり、さっさと歩き始めた。慧はその姿を見て半ば無意識に、半ば慌てて立ち上がると、そのまま友宏に続いて教室を出た。
「ったく、ただでさえ登下校が一緒で噂になり始めてるってのに、あんなに仲良さそうに弁当まで貰っちまったらもっと噂がデカくなっちまうぞ?」
廊下に出た友宏に追い付くと、彼はいつもと変わらぬ明るい調子で言った。その言い方は茶化しているようにも聞こえたが、並び歩く彼の表情は真剣そのものであったので、慧はぼんやりと、これは友宏なりの啓発なのだと気付いた。
「まぁ俺はさ、お前と龍宮が楽しそうなんだからこのままで良いじゃんって思ってるんだけどさ、他の奴ら、全員が全員俺と同じ考えってわけじゃ無いと思うからさ。その、なんだ。一応気を付けろよ」
重い雰囲気を察知したのか、友宏は最後にそう付け加えて男子トイレのドアを押し開ける。その背中を黙って見ていた慧だが、今彼に声を掛けなくては何かを失ってしまう。という直感が湧いて来て、
「ありがとう、友宏」
と、少々早口に感謝の言葉を述べた。すると友宏は声に反応して振り返り、ニカッと笑った。
「いいんだよ! てか、小便が漏れそうだから先行くわ」
真面目に話をしていた自分が気恥ずかしくなったのか、友宏はそそくさとトイレの中に入って行った。慧はそんな友宏の答えを聞いて安堵の微笑みを浮かべると、閉まりかけのドアが完全に閉まる前に手で押さえ、友宏の後を追ってトイレの中に入って行った。
用を済ませて友宏と共に教室に戻った慧は、つい数分前にもいたはずの教室に、いつもとは違った空気を感じた。これは慧がクラスメートを見る目が変わったからなのか、それともクラスメートが慧を見る目が変わったからなのか、慧には判然としなかった。
「んじゃ、俺はこのまま席戻るわ」
慧の席まで一緒に歩いて来た友宏は、そのまま教室前方の自分の席に戻って行った。変わってしまったように感じる教室の空気の中で、その背中だけは唯一変わらぬ景色であるような気がしながら、慧は数秒動かずにいた。すると、
「どうしました?」
右隣の席に座る恵凛から声がかかった。
「いや、何でも無いよ」
平静を装って答えたものの、つい先ほど友宏から忠告を受けたせいか、慧は咄嗟に恵凛と距離を取るような返事をしていた。
「そうですか?」
恵凛の大きな目がパッと見開かれ、それから愛想笑いに近い微笑みが浮かぶ。その表情と声音から、彼女は納得していない事実を無理矢理飲み込もうとしているのだなと慧は気付き、申し訳ないと思った。しかしそれと同時に、脳裏には友宏の言葉が響く。
(龍宮と距離を取るべきなのか? それとも今の距離感を保つべきか。それかいっそ覚悟を決めて……)
心身共に立ち往生をしていると、昼休みの終了を告げる鐘が鳴った。
……空腹と倦怠感、更には新たに生じた悩みに襲われながらも、残りの二時間を乗り切ることに成功した慧は無事放課後を迎えた。ホームルームは既に終了しており、帰り支度を整えたクラスメートたちは続々と教室を去って行く。今日は、というか毎週月曜日は、ほとんど全ての部活動が休みになっており、あったとしても、ミーティングを行うか、軽いトレーニングを行うかだけなので、ほとんどの生徒がホームルーム終了と同時に学校の束縛から解放される曜日なのであった。当然、超常現象研究部も部活動は無いので、慧はダラダラと帰り支度を整えて、過半数の生徒が居なくなった頃にようやく鞄のファスナーを閉めた。
「えりーん! かえろー!」
そろそろ帰ろうかと慧が席を立とうとした時、璃音が教室に訪れた。
「おっ、風見もまだいたんだ。あんたも一緒に帰る?」
あっという間に恵凛の席まで歩いて来た璃音は、その奥にいる慧に気付いてそう付け足した。慧は質問者である璃音をチラリと見た後に、その傍らに立つ恵凛を見た。
(早速来たか……。今日は用事があるとか何とか言って誤魔化すか? いやでも、今日はほとんどの生徒が半強制的に帰宅させられる日だから、学校に居残るのは難しいか……。と言うかそもそも、今更龍宮を避けるのは不自然過ぎるよな。ってなると距離を取るって選択肢は無いに等しいから、ひとまず今できることは、この距離感を保つ。これだな……)
二人の顔をチラチラと見ながら考えていると、璃音の表情が歪み始めた。そして、
「さっきから何? 別に無理なら二人で帰るけど」
「あ、いや、ごめん。俺も一緒に帰るよ」
「ふーん、あっそう。じゃ行こ」
「う、うん」
璃音は呆れた様子で首を傾げると、くるりと反転して先に廊下へ向かう。残っていた恵凛は何も言わずに優しくはにかむと、璃音の後に続いた。
(うん。これで良いんだ。確かに周りの奴らの視線は気になるけど、龍宮を悲しませるわけにはいかない。良くも悪くも、この距離感は保ち続けるんだ)
慧は一人静かに決意を固めると、二人に続いて歩き出した。




