第六十話 連休の終わり
「あぁー! 楽しかった!」
演奏を終え、ホールにいる慧たちのもとに戻って来た璃音は満足気にそう言った。
「お疲れ様」
「お疲れ様でした。とても格好良かったです」
慧と恵凛が順に労いの言葉を掛ける。
「えへへっ。二人ともありがと!」
璃音は照れ隠しに笑って見せる。常ならば、当たり前よ! とか、でしょでしょ! とか、調子の良い事を言いそうなものだが、緩んだ頬が戻らないところを見るに、歌のことを褒められると素直に嬉しいんだろうなと慧は思った。
「あんたは? 楽しめた?」
慧が考え事をしている束の間、璃音が伊武の方を見て言った。ライブ直後で興奮しているせいか、璃音の声音はいつもより数段明るく、一層フレンドリーに聞こえた。
「……まぁ、悪くなかったんじゃない」
璃音のペースに呑まれたのか、普段は刺々しい調子の伊武が丸く収まった返事をした。しかしすぐその失態に気付いたようで、伊武は下を向き、前髪で顔を隠した。そんな伊武を見た慧たち三人は、顔を見合わせて微笑んだ。
「ふーん。言い方はすこーし気になるけど、素直に受け取っとこうかな。ありがとっ。伊武!」
弱みを握った気になった璃音が更に明るく高いテンションでそう返すと、伊武は少し縮こまったように見えた。しかしそこに僅かながら、関係の前進を見た気がした慧は再び頬を緩ませた。
その後四組目、五組目のバンドのパフォーマンスが終わり、残すところ二組となった時、左斜め後方の防音ドアが開き、女性店主がそそくさと入って来た。そして慧たちのもとに歩み寄り、
「りーちゃん。悪いけど、時間……!」
と、顔の前で手を合わせ、申し訳なさそうに軽く頭を下げた。すると璃音はその行動で全てを察したようで、店主に頷いて応えると、慧たちを連れてエントランスに出た。
「何かあったんですか?」
状況を理解出来ていない恵凛と伊武に代わって慧が質問する。
「ごめんね〜。高校生は十時前に帰らせなきゃいけないって決まりがあってね」
店主にそう言われて壁掛け時計を探し当てると、時刻は既に九時を回っていた。
「あたしも事前に言われてたんだけどね~。すっかり忘れてた」
璃音はその場にいる全員の顔を見回しながらそう付け加えると、苦笑しながら小刻みに頭を下げた。
「全くもう。私が気付いて良かったわ」
店主は少々呆れながらも、璃音に釣られて笑みを浮かべた。そして少し歩いてカウンターに立て掛けていたギターケースを手に取ると、それを璃音に手渡した。
「はいこれ。忘れたら大変だから勝手に持ってきちゃったわ」
「あっ、ありがと! 取りに行く手間が省けた」
「まぁ忘れることは無いと思うけど、こういう慌ただしい時は忘れちゃったりするからね」
「言えてる。でも、これだけは忘れないかな」
璃音は笑顔でギターケースを受け取ると、それを背負った。そうして慧たちの帰り支度が整ったのを見ると、店主は改めて慧たちに向き直り、
「追い出すような形になっちゃってごめんなさいね。今度はもう少し早い時間のライブに招待するから、また来てくれると嬉しいわ。それじゃあ皆、気を付けて帰ってね」
と、カジュアルでありながら丁寧な挨拶で慧たちを見送った。
「うん! また誘ってね!」
最初に璃音がそう返し、それに続いて慧と恵凛が辞去を述べ、伊武は軽く頭を下げて一行はライブハウスを後にした。
外に出ると、少し冷たい風が慧たちを迎えた。
「さむっ」
先ほどまで高い室温とライブの熱気に包まれていた四人には、肌を撫ぜる外気が余計に寒く感じられた。そんな中、その感想を真っ先に口に出したのは璃音であった。
「流石に夜の風は冷たいな」
「そうですね。身体が冷える前に駅へ向かいましょう」
「うんうん。そうしよ」
短い会話を交え、慧、恵凛、璃音が歩き出す。しかし伊武がついて来ない。それに気付いた三人はすぐに振り返り、立ち止まっている伊武を見た。
「どうした、江波戸?」
慧が問いかけると、伊武はようやく三人の方を見た。
「いや、私。家すぐそこだから」
「あっ、そうだったんだ」
「でしたら、先に江波戸さんを送り届けてから駅に向かいましょうか」
「だね。昼間あんなことがあったわけだし」
全会一致した慧たちが伊武のもとに戻ろうとすると――
「平気。ほんとにすぐそこだから」
三人を突き放すように断ると、伊武は大通りとは反対方向に歩き始めた。
「ど、どうしましょうか?」
「うーん。ちょっとだけ追ってみる?」
「そうしましょう」
恵凛と璃音は二人だけで決断すると、静々と伊武の後を追った。慧はそんな二人を無視して帰ることも出来ず、伊武を追う二人を追うという奇妙な形で慧も歩き始める。
先に歩き出していた伊武は既に十字路まで進んでおり、夕方に姿を現した右角を曲がった。慧たち三人はその後ろ姿を静かに追い、十字路の角で先を覗き込む。すると伊武は車道を横切り、丁度左の歩道へ移ったところであった。そしてそこから少し前進すると、次の曲がり角に辿り着く前に左へ曲がった。
「行くわよ……!」
指令を出すと共に移動を始めた璃音に続き、慧と恵凛も歩き出す。伊武の足跡を辿るように車道を渡り、道なりに少し前進し、そして伊武が曲がったところまで辿り着くと、慧たちはそこに年季の入った二階建てアパートを見つけた。
「マジですぐそこじゃん!」
璃音は芸人さながらの鋭いツッコミを溢した。
「ちょっと璃音……。声が大きいですよ……」
逆に恵凛は眠った赤子を起こすまいとするような囁き声で璃音を咎めると、三人は逃げるようにライブハウスの方へ引き返した……。
「まさか、本当にすぐそこだったとはね~」
大通りに出て少し経つと、思い出したように璃音が呟いた。
「江波戸のことだから、一人になりたくて嘘をついたのかと思ったよ」
「それそれ。あたしもそう思った!」
「まぁでも、言葉通りで良かったよ。俺たちだってどこまでも尾行するわけにはいかないし。それに、人をつけるのって気が引けると言うか……」
養護教諭の堤に頼まれたからとは言え、一度伊武を尾行したことがある慧の言葉にはやけに生々しい重さが籠っていた。
「だね、言えてる。にしても、あの短い移動距離で変な奴に絡まれるって、相当持って無いよね」
そう言って笑みを浮かべる璃音を見て、慧はふと、伊武がチャラ男たちに絡まれていた瞬間を思い出し、口を開いた。
「そう言えば、あの時雀野が真っ先に声を掛けたよな?」
「え? うん。そうだけど、なんで?」
「あ、いや、その……。正直雀野が江波戸に声を掛けると思ってなかったと言うか……」
言い辛いことではあったが、ここまで言ってしまって今更引き返すことも無理があるだろうと考えた慧が怒られる覚悟で素直に白状すると、璃音は忽ち失笑した。
「ぷっ。まぁそうだよね。あたしたち、どう見たって仲良しには見えないもんね」
「うん、ごめん……」
「いいのいいの、気にしないで」
璃音は気さくに答えると、一呼吸置いて話を続ける。
「まぁでも、大した理由は無いんだよ。単純に気に食わなかっただけだから!」
「へ? き、気に食わなかった……?」
想像の斜め上をいく返答が来て、慧は変な声が出た。
「うん。あのチャラついた連中もそうだけど、あんな奴らに絡まれて何もやり返さない伊武も気に食わなくってね。気付いたら名前を呼びながら走ってた!」
爽快に笑いながら答える璃音を見ていると、こっちまで笑いたくなってくる。
「ふふっ。璃音らしいですね」
「でしょでしょ! まぁとは言え、気に食わない七割、心配三割ってのが本音かな。やっぱりさ、知り合いが困ってたら助けたくなるもんじゃん?」
先ほどまでは愉快な笑みを浮かべていた璃音だが、追加で本心を答える今は、その笑みにどこか真剣な色が混じっていた。これが雀野璃音という人間の性質なのだろうと慧は思い、ふっと優しい笑みを浮かべた。
「ははっ。雀野は優しいんだな」
「そうかな、お人好しなだけじゃん?」
変わらず笑って答える璃音だが、その表情は少しだけ曇ったように見えた。
なんて話をしている内に三人は駅に辿り着いた。仕事帰り、飲み帰り、遊び帰り、様々な人が駅構内を行き交っていた。慧たちはそんな人混みではぐれないよう、なるべく余裕のある道を選んで改札まで進み、プラットホームまで降り、丁度到着した電車に乗り込み、席に着いて発車の時刻を待った。
発車時刻を迎える頃には全ての席が埋まっていた。しかし満員と言えるほどぎゅうぎゅうに乗っているわけでも無く、程よい客数を乗せて電車は動き出した。
電車内でのマナーもあり、ライブの疲れも出てきたようで、三人は一言も話すことなく古屋根駅まで運ばれた。適度な揺れが何度も三人の眠気を誘ったが、結局は誰も眠ることなく電車は古屋根駅で停車した。「降りようか」という旨の言葉を誰かが発するわけでも無く、三人は示し合わせていたかのように黙って電車を降りた。
「あぁー、疲れたー。あっ、そうだ。二人とも、今日はありがとね。急に誘ったのに来てくれて」
先に改札を抜けた璃音は、うんと伸びた後に振り返ってそう言った。
「いえいえ、むしろこちらこそありがとうございました。とても楽しかったです」
璃音に次いで改札を抜けた恵凛は、そう答えるとお辞儀も添えた。
「ちょっと恵凛、固すぎるって!」
「ふふっ、すみません。まだ慣れなくて。でも、感謝の気持ちを表すにはこれが一番いいと思いまして」
「もう~。そこまでされたらあたしの立場が無いじゃ~ん。元はと言えばあたしがバンド練を見せられなかったんだし、ありがとうもごめんもあたしが言うべきなのにさ」
「璃音の方こそ、そこまで気にしなくても良いんですよ」
「えっ、でも……」
「今日こうして約束を果たしてくれたのですから、気にすることはありません。それに私たち、もっと打ち解けて、もっと仲良くなるって約束したではありませんか」
「恵凛……。うん、そうだね!」
そこで会話が一段落したようで、恵凛と璃音は大声にならないようにクスクスと笑った。それを静かに見守っていた慧はそろそろ行っても良さそうだと感じ取り、二人のもとに歩み寄った。
「風見も、今日はありがとね」
歩み寄って来た慧に気付いた璃音が笑顔のままそう言った。
「うん。誘ってくれてありがとう。俺も楽しかったよ」
「そっか。なら良かった!」
「正直、未知過ぎてちょっと怖かったけど、オーナーも良い人だったし、お客さんの雰囲気も良かったし、予想の数倍は楽しめたよ」
「ほんとに? ちょっと持ち上げ過ぎじゃない?」
「本当だって」
恵凛との会話で気分が良くなったのか、璃音は喜びを隠せないニヤケ顔を浮かべて慧のことを小突いた。思いの外鋭利な肘が慧の横腹に刺さったが、慧は笑って誤魔化した。
「っと、そろそろ帰らないとね。折角レンカさんが早く帰らせてくれたわけだし」
「レンカさん? あのライブハウスの店主さんでしょうか?」
「あっ、そうそう。恋に歌って書いて恋歌っていうの」
「そうだったのですね」
「恋歌でライブハウスのオーナーか。なるべくしてなったって感じだな」
「そうそう! あたしも同じようなこと言った」
三人は談笑しながら駅を出ると、薄暗い街灯が辛うじて地面を照らしている場所まで歩いた。すると突然璃音が数歩前に抜け出して、慧と恵凛の前に立った。
「あのさ……」
「どうしたのですか?」
「あの、また次も来てくれる?」
璃音の突飛な発言に慧と恵凛が戸惑っていると、璃音は表情を引き締め、姿勢を正し、二人の顔を交互にじっと見つめ、
「あたしがライブに誘ったら、二人はまた来てくれますか?」
と、真剣な面持ちと声音で言い直した。仄かに射す蛍光灯の明かりの下、璃音の瞳は潤んでいるように見えた。
「はい。もちろんです」
「うん。行くよ」
恵凛が先に答え、続いて慧が答えると、璃音は目を見開いて二人の顔を見つめた後、恵凛に抱き付いた。
「ありがと!」
「ふふっ。待ってますからね」
「うん!」
抱き付いたまま答えると、璃音は更にギュッと恵凛を抱きしめてからようやく離れた。
「それじゃああたし、もっと頑張らなきゃね! 絶対招待するから待っててよ!」
近所迷惑にならないギリギリの声量で答えると、璃音は歩き出した。かと思うと、何かを思い出したかのようにパッと振り返り、
「じゃ、また明日ね!」
と満面の笑顔で付け加え、線路沿いの道を駆けて行った。
「はぁ……」
去り行く璃音の背中が闇の中に消えた頃、恵凛がため息をついた。
「どうしたの?」
「あっ、すみません。これは悪い意味の溜め息では無くて……。もう今日が終わってしまうのかという意味の溜め息で……」
「なるほど、確かに。もう今日も終わりか……」
恵凛に言われた慧は突然現実に引き戻されたような気がした。そしてそれと共に大型連休が終了することも思い出し、夜空を見上げた。
「はい。とても楽しかったせいか、あっという間に感じました」
「そうだね。俺もだよ……」
慧は答えるともなく呟くと、始終ときめきに満ち、時間を忘れて過ごした今日という日を回顧した。こんな幸せな休日、一昔前の自分ではあり得なかったな。なんてぼんやり思いながら慧も小さくため息をつき、
「明日から学校だし、そろそろ帰らないとね」
と言った。
「はい。そうですね」
慧と同じく恵凛も夜空を見ながら答えると、二人は疲労感と充実感の満ちた足でゆっくりと歩き出した。
……こうして慧は、初めての慌ただしい大型連休を終えるのであった。




