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第五十九話 屋内の星空

 伊武を説得することに成功した慧たちは早速ライブハウスに入り、エントランス入り口から真っすぐ奥にあるバーカウンターに腰掛けていた。


「はい、これ。麦茶しか無くてごめんね~」


 バーの奥にあるスタッフオンリーのドアから出て来たのは、このライブハウスを経営している女性店主である。彼女は温かく親しみのある微笑みを浮かべながら慧たちそれぞれの前にコースターを置くと、次いでそこに麦茶がなみなみに注がれたグラスを置いた。


「あざーす。それじゃ遠慮なく!」


 グラスが置かれてすぐ、砕けた調子で答えたのは璃音であった。元より、女性店主と璃音は長い付き合いらしく、今回のライブに璃音を招待したのも彼女であった。そんな彼女に璃音が事情を説明したところ、バーカウンターを使って良いと快諾してくれたので、慧たちはその言葉に甘える形となり、今に至るのであった。


「あっ、ありがとうございます。いただきます!」


 璃音に続き、慧が感謝と挨拶を述べてグラスを手に取る。するとそれに倣って恵凛と伊武も二言三言発してグラスを手に取り、一行はほとんど同じタイミングで麦茶を飲んだ。


「皆りーちゃんのお友達?」

「うん。そうだよ。てか、その呼び方やめてよ」

「良いじゃない。可愛らしくて」


 膨れる璃音に店主は悪戯な笑みを浮かべて返すと、璃音から視線を外し、流れるように隣へ視線を滑らせ、座っている順に恵凛、慧、伊武の顔を見ていき、


「三人とも、今日は来てくれてありがとね。良いライブが出来るように頑張るから、楽しみに待っててね」


 と言って、身を翻した。


「あっ、そうだ。りーちゃんは準備手伝ってね」


 スタッフオンリーのドアに手を掛けながらそう言うと、店主は答えを聞く前にドアの向こうに消えて行った。


「分かってますよ~! まったく、距離感バグってる人でゴメンね」


 閉まったドアに大声で答えた後、璃音は少し身を乗り出して一番端に座っている伊武の横顔も見えるようにしてから詫びを入れた。


「いえ、少し驚きはしましたが、とてもお優しい方で助かりました」

「そう? なら良かった。馴れ馴れしくて嫌になったらあたしに言ってね」


 言葉とは裏腹に璃音は嬉しそうに笑みを浮かべながら答えると、残っている麦茶を一気に飲み干した。


「じゃ、あたしは準備手伝って来る!」


 そう言い残すと、璃音はエントランスの右側にある両開きの大きな防音ドアを押し開き、辛うじて人一人が通れる隙間を抜けていった。すると当然支えを失ったドアは鈍く緩慢な動作で閉まり始め、やがて重々しい音を立てながら完全に閉まった。

 慧は何となくそのドアの行く末を見届け、カウンターに視線を戻す。手元には汗をかき始めたグラスが置かれており、まだ一口しか飲んでいない麦茶がグラスの大半を茶色く染めている。慧は漠然と、何か話さないといけない。と思ったが、まずは喉を潤すために、いや、話題を考える猶予を生むために、麦茶を飲んだ。


「ライブ、楽しみですね」


 慧が麦茶を飲むことで問題から目を逸らそうとしていると、恵凛が話題を提供してくれた。


「うん。雀野がどんな演奏をするのか楽しみだね。と言うか俺、ライブを見るのが初めてだから、ライブ自体が楽しみって言った方が正しいかも」

「ふふっ、風見君もでしたか。実は私もライブを見るのは初めてなので、ずっとワクワクしてます」


 恵凛は少し緊張の解れた様子で答えると、そっとグラスを手に取った。そして一口二口と慎ましく麦茶を飲む恵凛を見ていると、何故だか疚しいことをしているような気がして来て、慧は急いで視線を伊武の方に向けた。


「江波戸はライブ見に行ったこととかあるの?」

「……ある。一回だけ」

「へぇー、そうなんだ」


 自分から聞いておきながら、慧は伊武の性格的に恐らくライブに行ったことは無いだろうと無意識に思い込んでいたようで、伊武の返事を聞いて言葉が詰まり、素っ気ない返しをしてしまった。しかしすぐその過ちに気付き、慧は話が続きそうな言葉を選んだ。


「それはつい最近のこと?」

「結構前。もうあんま覚えてない」

「そっか……」


 それならむしろ新鮮な気持ちで楽しめるかもね。とか、覚えてないだけで俺も行ったことあるのかも。とか、続きそうな言葉は数種思い浮かんだが、どれもこの場に適していない、無遠慮な明るさを含んでいるような気がした慧はそこで言葉を止めた。伊武としてもそれ以上自発的に話すつもりは無いようで、彼女は麦茶を一口飲むと、退屈そうにグラスを円く揺らしてその表面に生ずる微かな水面の変化を眺めた。そんな伊武の様子から、慧は尚のこと話を広げづらく感じた。もしかしたら、伊武はライブにあまり良い思い出が無いのかもしれない。視覚から得た情報だけでは、杞憂ばかりが膨らんでいった。


「江波戸さんは、ライブにあまり良い思い出が無いのでしょうか?」


 話しの接ぎ穂が見付からず、このまま沈黙が始まると思われたその時、恵凛がつと口を開いた。しかもその内容は、慧が地雷だと感じて口を噤んだ台詞そのままであったので、慧は抑止の言葉を発することも出来ず、チラリと視線を向けるだけに終わった。


「あっ。ごめんなさい! 私、無神経なことを……」

「ふっ。気にしないで。別に、良い思い出も悪い思い出も無いから」


 慌てて謝る恵凛に対し、伊武は思いのほか優しい口調で、それも少し微笑みながら答えた。そして伊武はこれ以上話すつもりはないと言いたげに麦茶を飲み始めた。


(雀野と仲直りする前に龍宮とまで関係がこじれるかと思ったけど、何とか回避したみたいだな……。てか、龍宮にズバッと言われた割には嬉しそうにも見えたような……?)


 黙り込む二人に挟まれている慧は、左右に座る二人にバレないように二人の様子を盗み見ながらそんなことを考えた。するとその直後、恵凛が慧の方を向いたので、慧は慌てて麦茶のグラスを手に取った。


「本当にごめんなさい。でも、行ったこと自体は覚えているのに、内容は全く覚えていないというのが少し引っ掛かってしまって……」


 意味も無い中傷をするつもりは無かったという意志を伝えるために恵凛は再度謝ったようだが、傍から聞いている慧からするとそれは全くの逆効果で、ただ追い打ちをしているようにしか聞こえなかった。それで肝を冷やした慧が様子見のために伊武の方を向くと、彼女はグラスを置き、また鼻で笑った。


「ふっ。確かにそうかも」

「え?」


 流石に怒るんじゃないかと思っていた慧は、伊武の予想外の賛同を聞いて声を漏らしてしまった。それで話の流れが止まってしまいそうになったので、慧は自然と話が繋がるように言葉を選び、


「何が確かになの?」


 と付け加えた。


「覚えてるけど、覚えてないってこと」


 伊武は淡々と答えると、二人が何かを言い出す前に席を立った。


「あっ、江波戸!」

「トイレ」


 このままでは伊武が帰ってしまうと思った慧が彼女を呼び止めようとすると、伊武はその全てを見透かしていたように言下に答え、バーカウンターの右横にあるトイレに向かった。その声音は、今まで会話を交わしていた中で一番不機嫌であった。


「よ、良かったです。私のせいで帰ると言い出していたら……」

「結構ギリギリではあったね……。ははっ……」


 全否定も全肯定も出来ないと思った慧は曖昧に答え、乾いた笑いで誤魔化した。


「風見君にも迷惑を掛けましたよね。ごめんなさい」

「いやいや、俺は大丈夫だよ。それに江波戸の方も、完全にしくじったわけでは無いと俺は思うよ。龍宮にライブのことを聞かれたとき、何となく嬉しそうに見えたし。本当に何となくだけど……」


 とても偉そうなことを言っている気がした慧は慌てて後半部分を付け加えた。


「そう、ですかね?」

「うん。だからさ、少しずつ江波戸と距離を縮めて行こう。そうすればきっと、いつの間にか雀野とも仲直りしてるはずだよ」

「確かに、そうですね。私、頑張ります!」

「うん。俺も頑張るよ――」

「なになに、今あたしの話してた?」


 二人の話が終わると同時に防音ドアが開き、そこから璃音が出て来た。


「あれ、いないじゃん?」


 慧たちが答えるよりも前に璃音が続けて言った。誰とは明言しなかったが、慧と恵凛はすぐにそれが伊武のことだと分かった。


「お手洗いに行きましたよ」

「ふーん。そう」


 恵凛の答えを聞いた璃音は少し安心したようであった。


「で、どうしたんだ?」


 恐らくこの件で戻って来たのではないと思った慧が話を元の路線に戻す。


「あっ、そうそう。風見にちょっと手伝ってほしくて」

「俺?」

「うん。ほんの少しだけ!」

「別に構わないけど」

「サンキュ! もしアレだったら恵凛たちも来ていいからね!」


 そう言い残すと、璃音は先に防音ドアの向こう側に消えて行った。


「私、江波戸さんが戻ってきたら一緒に行きますね」

「分かった。じゃあ先に行ってるね」


 恵凛が気を利かせてそう言ってくれたので、慧は素直にそれに従い、防音ドアの先に踏み入った。

 入ると真っすぐ正面にステージがあり、その壇上には璃音と二、三人のスタッフが立っていた。それだけの人数で檀上は詰まっているように見えた。入って右側にはエントランスと似たようなバーカウンターが設置されていたが、エントランスのバーよりは小さく狭く感じた。左側にはパイプ椅子やら背の高いテーブルやらがまとめて置かれている。ライブが始まったら使うのだろうか。そして最後にステージまで広がる何も無い空間。小一時間後にはここに人がごった返すのだろう。ステージとホールの様相は慧のイメージ通りであった。


「風見! 早くこっち来て!」

「あ、うん。ごめん」


 初めて見る光景に気を奪われていた慧は、璃音に呼ばれて急いでステージに上がった。

 手伝いはとても簡単なことであった。出勤予定だった男性スタッフが来れなくなったので、少し重めのギターとベースのアンプを指定の位置に運ぶだけのことであった。


「ふぅー、サンキュ。あとは音の確認だけだから、ゆっくりしてて」

「聞いてても良いの?」

「あぁー、うーん。まぁ大丈夫だと思うけど……」

「聞かせるために呼んだんでしょ?」


 ステージを降りたところで立ち話をしていると、ステージ裏から店主が出て来てそう言った。


「ま、まぁそうなんだけど」

「それじゃあ聞いてもらいなさい! フフッ」


 店主は言いたいことだけを言うと、すぐ裏に引っ込んでしまった。


「じゃ、準備するから、後ろの二人にも伝えて来て」


 璃音は少し不服そうに伝えると、店主の後を追ってステージ裏に入って行った。

 慧は璃音に言われた通り、防音ドアの近くでパイプ椅子に座って待っていた恵凛と伊武のもとに戻ると、今さっき話していたことを伝えた。「もう聞けるのですか? ふふっ、楽しみです」と、純粋に嬉しそうな恵凛に対し、伊武は何も言わずにスマホをポケットにしまった。聞く気はあるんだな。慧は頭の隅でそんなことを思いながら、自分もパイプ椅子を持って来てそれに座った。

 数分後、ステージに璃音が出て来た。その手にはアコースティックギターが握られていた。


(あれ。雀野ってバンドのギターボーカルだったよな? 勝手にエレキギターだと思い込んでたな……)


 またしても勝手な思い込みをしていた自分に慧が気付いていると、その間に準備は進み、ギターの音と璃音の声がそれぞれアンプとマイクを通ってホールに響く。


「あー、あー、大丈夫そ?」


 璃音は袖の裏にいるスタッフにそう聞いた後、慧たちの方に視線を向けた。するとそのタイミングで防音ドアが開き、店主が入って来た。


「大丈夫よ! チューニングも、声とギターのバランスも」


 そう言われて安心したのか、璃音は小さく頷いた。

 その後数秒の沈黙を挟み、ギターの演奏が始まる。しっとりと切なげに、しかしはっきりと力強く、アルペジオで奏でられる一音一音がホールに広がって行く。そしてその独立した点たちが静かにホールを満たそうとした時、奏法がストロークに代わり、ホールに散らばっていた点たちが一瞬にして繋ぎ合わされた。かと思うと、今度はその線をなぞるように璃音の清く、細く、綺麗な歌声が通い、点と線に光を宿す。リハーサルのためにライトアップされていない暗いステージから聞こえてくる声が、微かに見える璃音の姿が、慧に満天の星空の幻影を見せる。しかしその音は、光は、流星群のようにひと時の夢に終わった。


「どう? あの子、良いセンスしてるでしょ」

「はい。聞き入ってしまいました」

「でしょう? 私は、バンドよりソロの方が向いてると思うんだけどね~」


 そう言い残すと、店主はステージの方に歩いて行った。慧も感想を伝えようと思っていたのだが、安っぽい言葉しか出て来ない気がして憚られたのであった。

 ……興奮冷めやらぬ状態のままライブ開始の時刻を迎えた。エントランスで待機していた慧たちも改めてチケットを見せてホールに入り、ライブ初心者なりに邪魔をしないようバーカウンター付近でライブの開始を待つ。つい先刻までガラガラだったホールはほとんど満員電車状態であった。

 人が増えれば増えるほど大きくなるざわつきを静めたのは、女性店主の一声だった。あっという間に場を静めると、それから流れるように短めの開場挨拶を終え、早速一組目のバンド紹介をした。するとその直後に幕が開き、ライトが点き、三人組の男性バンドが現れた。その姿を見たホールの人たちは湧き立ち、その熱狂に応えるかの如く演奏が始まる。それをホール後方で見ていた慧は、会場の熱気に感化され、心が再燃するのを感じた。

 一組目が終わり、二組目が終わり、三組目になって璃音が代理ボーカルを務めるバンドが出て来た。ホールは前者の二組同様に湧き立つ。璃音の名前を呼ぶ者もいた。


「こんばんは~! 楽しんでますか~! 今日は久し振りにお呼ばれしたので、来ちゃいました~!」


 璃音のトークに観客たちは歓声でレスポンスする。客の熱を確かめた璃音は、次いで演奏する楽曲説明に移行し、その内に他三人の女性メンバーが各々の楽器をセットする。そしてそれが終わるタイミングでトークを止め、ドラマーがスティックで拍子を取り、演奏が始まる。

 リハーサルで聞いた時よりも重厚で複雑な音楽が慧に押し寄せる。別にそれが下手なわけでも無く、ロックが嫌いなわけでも無い。むしろ好きなバンドもいるくらいだ。しかし慧の中で急激に熱が冷めていくのが感じられた。この難解に絡む合奏の中に璃音が埋もれてしまっているような気がして、慧は必死に彼女の声を探した。しかし演奏が終わるまで聞こえ続けたのは、演奏の籠に捕らわれた璃音の歌声であった。

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