第五十八話 不意の招来
恵凛と買い物デートをして? 伊武と親交を深め? 慌ただしい一日を終えた慧はようやく自室に戻って来た。勉強机の上には一度帰宅した際に置いたショルダーバッグと二冊の小説がそのままになっている。それを目にした慧はまず片付けをしなくてはと歩き始めるのだが、身体が行き着いた先はベッドの前であった。そして慧は自らがベッドの前に来てしまったのだと自覚するよりも前に、気絶するようにベッドに倒れ込んだ。
……ほとんど気絶に近い眠りから目覚めた慧を迎えたのは、点けたままになっていた室内灯であった。それを直視した慧は太陽を直視した時のような目眩を覚えたが、高速で瞬きを行うことで無理矢理に視界を犯す室内灯の残像を消し去り、現在の時刻を確かめるために視線を移した。時刻は八時前であった。それを見た慧は案外寝ていないなと思いながら体を起こした。
続いて慧に襲い掛かったのは空腹であった。思えばショッピングモールで摂った昼食が最後だ。そう考えると尚のこと食欲は膨張し、それはあっと言う間に抑え難い大きさにまで成長した。ここまで膨れ上がった本能に理性が叶うはずも無く、慧は寝起きで気怠い全身に力を入れて立ち上がると、食事を求めて歩き出す。しかしそれを妨げたのは、またしても机上のバッグと小説であった。
(そう言えば、寝る前にこれだけは片付けようと思ってたんだよな……)
然程散らかっていないにもかかわらず、一度やろうと決めていたことを後回しにしてしまうと何故に人間はこうもやる気が出ないのだろうか。なんてことを思いながら、慧は渋々机の前に移動する。
ひとまず小説は机の端に積んでおき、次に慧はショルダーバッグを手に取る。するとその重さに少し驚き、そしてすぐに中身のことを思い出して「あっ」と思わず声を漏らした。恐る恐るバッグに手を入れ、物を掴み、慧はそれを引っ張り出す。
【ごーしゅーじーん】
「ごめん。本当に……」
取り出した時は逃げてしまおうかとも考えたが、後々ダル絡みをされた時のことを想像すると、この罪は今償っておくべきだと思い直し、慧はイヤホンを装着してラヴィを起動したのであった。
【どこへ行っていたのですか。一度帰ってきましたよね?】
「はい。帰ってきました」
【それで?】
「江波戸から変な連絡があって、急いで家を出て……」
今回に関しては自分に非があると全面的に認めた上で、慧は叱られている子どもさながらの態度と声音で、ここ数時間に起きたことを説明した。
【なるほど。事情は分かりました。期せずして江波戸氏とお近づきになれたのですね。まぁそれはいいでしょう】
「ん?」
【それよりも今私が気になっているのは、一昨日も似たような報告会をしましたよね? と言う事です】
「え、うん。まぁ部活の日も結局眼鏡は掛けてなかったからな」
【そうなんです! 私を持ち歩いてくれるようになったのは嬉しいのです。しかーし。眼鏡を装着しなくては意味が無いじゃないですか!】
「お、仰る通りで……。でも、誰かにバレたりとか、変な機能が勝手に起動したりとか怖いし……」
【機能に関しては大丈夫です。私が制御しますから! バレるのは……。堂々としていれば大丈夫です!】
「根性論かよ」
【そう聞こえるかもしれませんが、実際、ご主人も周りの人も慣れていないだけですよ。だから、今度からは最低限眼鏡だけは装着してください!】
「わ、分かったよ」
まさかの方向性で怒られたことに多少驚きはしたが、その後ラヴィを置き忘れて行ったことに関しての言及や、恵凛や伊武と何があったのかについて詳しく聞かれることも無く、結果的に短めの叱責で済んだ慧はそのままラヴィを連れてリビングへ向かい、簡素な夕食を摂るのであった。
翌日。何の予定もない慧は昼前に起床した。水曜日から始まったゴールデンウィークも、今日を含めて残り二日である。この土日はきっとどこに行っても混んでいるだろう。しかしそれにしても、今年のゴールデンウィークはとてもゴールデンウィークらしかったのでは? と慧は考えた。基本的にゴールデンウィークに外出することの無かった慧は、今年初めて大型連休を有意義に過ごせたような気がして上機嫌であった。
孤独な休日の過ごし方を心得ている慧は、その日一日をグダグダと過ごした。昼食のために起き上がることも億劫で、慧はユニユニをプレイしたり、昨日買った小説を読んだりして夕方までほとんど自室にいた。そうして五時も過ぎると流石に腹の虫が鳴り始めたので、慧はようやく動き出すことにした。
とりあえずキッチンに来た慧は真っ先に冷蔵庫を漁る。しかし目星い物は無く、慧は次に冷凍庫を開く。すると偶然にも奥底に埋まっていた冷凍チャーハンを発見し、これだと思った慧はそれを取り出してキッチンに置いた。一袋四百五十グラムのチャーハンだったが、今日の空腹具合ならば全部食べられるような気がした慧は袋の中身を全てフライパンに出した。そして早速炒めようとコンロの前に立ったその時、ポケットに入れていたスマホが振動した。こういう時、慧は気付いているのに放置しておくことが出来ない性質なので、すぐにスマホを引っ張り出して起動した。
『グループに招待されました』
スマホの待ち受けには珍しい文言が表示されていた。
(グループ? 誰からの招待だろ)
思い当たる節が無かった慧は答えを知りたい一心で、考える間もなくメッセージアプリを起動した。そしてアプリが起動されると、その送り主が判明した。
「雀野?」
送り主は璃音であった。まぁ璃音なら拒絶する理由も無いだろうと、慧はひとまずそのトークルームに入室だけしておき、チャーハンを炒めながら璃音のアクションを待つことにした。
その後チャーハンを炒めている間に新たな動きは無く、慧は炒め終えたチャーハンを皿に盛り、それを持ってダイニングへ移動した。
通知が来たらすぐ確認出来るよう、慧はスマホをテーブルに置いたまま食事を始める。皿の底に触れるスプーンの音だけが室内に響く。それはいつしか慧の中で食事のリズムとなり、慧は無意識にその音に従って食事を進める。そうして数分が経った時、通知音と共にスマホがバイブレーションした。慧は順調だった手を止め、スマホの画面を覗き込む。すると画面には『グループに新たな参加者がいます』と表示されていた。
(なんだ他の参加者か……。まぁそりゃそうだよな。俺だけに用があるなら個人のトークルームで良いもんな)
慧がくだらないことに躓いていると、スマホの自動電源オフが機能して画面が暗転した。それに気付いた慧が再び電源を入れようとすると、スマホが震え、画面が明るみ、新たな通知が届いた。
『お、二人ともそろったね!』
表示されていたのは璃音からのメッセージであった。もしかしたら何か続きがあるかも知れない。そう思った慧は少し様子を見ることにした。
『こんばんは。このグループは一体何でしょうか?』
間もなく表示されたメッセージは名前を見るまでもなく、その文面と絵文字からして恵凛だと分かった。それで多少の安心感を得た慧はメッセージをタップしてトークルームを開き、自分も何かメッセージを打とうかと考えていると、先にメッセージが入った。
『ごめんね。急に招待しちゃって! グループトークにしたのは、こないだバンド練習を見せれなかった埋め合わせが出来そうだから、二人まとめて連絡させてもらったって感じ!』
という璃音からのメッセージであった。
『なるほど! そうだったのですね。それで、日時はいつなのでしょうか?』
『明日!』
あ、明日? 良い時分で会話に参加しようとしていた慧だが、璃音の想定外の即レスを見て心の中で声を漏らし、メッセージを打とうとしていた指を離した。
『二人とも大丈夫そう?』
慧からも恵凛からも返信が無かったので、璃音が続けてメッセージを送って来た。
『私は大丈夫ですよ』
数秒後に恵凛のメッセージが届く。珍しく絵文字が無かったので、恵凛も返信に困っていたのだろうかと慧は思う。すると、
『風見は?』
標準が慧に向いた。
(特に予定は無いし、龍宮も大丈夫って言ってるし、それに雀野の歌も気になるし、断る理由は無いよな)
念のため頭の中で予定の確認を行った後、慧は『俺も大丈夫だよ』と返信した。
『ほんとに? 良かった! 詳細がまだ確定してないっぽいから、もう少ししたらまた連絡するね!』
まるで璃音の声が聞こえてくるような口語文に、慧は事務的に『了解』とだけ返してアプリを閉じ、再びスプーンを手に取った。チャーハンは大分冷めていたが、慧は構わず完食した。
……それから数時間後、風呂や歯磨きなどの寝支度を済ませて自室に戻った慧がスマホを開くと、メッセージが数件来ていた。最後の一件が恵凛の『分かりました』というメッセージで、それ以外は全て璃音からのメッセージであった。まずはライブをする場所と開始時刻が文字で送られて来ており、それに続いてライブハウスの位置を示すマップ画像と大まかなライブスケジュールが書かれた画像の二枚を添付してくれていた。慧はそれらにザッと目を通して『了解。ありがとう』と返し、スマホのアラームを昼前にセットしてその日は床に就いた。
慧はアラームが鳴るよりも前に目が覚めた。予定がある日はいつもこうである。緊張からなのか、生真面目な性格がこうするのか。とにかく予定がある日はいつもアラームよりも先に起きてしまう。今日もそうして目覚めてしまった慧は朝のルーティーンを済ませるために自室を出た。
ライブの開始時刻は夕方の六時半と言う事なので、慧はそれまで退屈であり、しかしどこか落ち着かない時間を過ごした。昼食はあえて摂らず、四時頃に昼食を兼ねた早めの夕食を摂り、慧は自室に戻って出掛ける準備を進める。そんな折、メッセージが来た。
『あたしはリハと会場準備があるから五時ちょい過ぎの電車で行くけど、二人はどうする?』
璃音からのメッセージであった。
『あ、でも。恵凛って安雲橋に行くの初めてだよね?』
慧が何て答えようかと考えていると、続けて璃音からメッセージが来た。
『はい。安雲橋に行ったことは無いです』
『だよね。じゃあ一緒に行っちゃおう! ライブハウスの場所もあたしが直接教えた方が分かりやすいだろうし!』
『そうですね。私はそちらの方がありがたいですが……』
恵凛の返信には何かを気遣うような躊躇いが見られたので、慧はここで会話に参加することにした。
『それなら俺も一緒に行くよ。ライブが始まるまでは安雲橋の案内でもして時間を潰すからさ』
『それいいじゃん。採用! それじゃ、駅集合で!』
何だか璃音に乗せられたような気もするが、恵凛一人を歩き回らせるのも、ライブハウスの詳細な位置も気になっていたので、まぁ結果オーライなのかと考えながら慧は短い返信をしてあと少しの準備を終えた。
昨日ラヴィに忠告されたので、慧はしっかりと眼鏡を掛けて家を出た。そしてまずは恵凛と合流し、続いて古屋根駅前で璃音と合流し、三人は電車に乗って終点の安雲橋駅で下車した。
「じゃ、とりあえずライブハウスの場所だけ教えとくね」
駅を出たタイミングで璃音が言う。慧と恵凛の二人はその提案を受け入れ、三人はライブハウスを目指して歩き出した。
駅から国道へと伸びる大通りを数分間歩き、あと二個ほど信号を越えると国道に出るという所で右に折れ、裏道に入る。
「あれ! あそこに見える豆腐みたいな所!」
裏道に入るや否や、璃音がそう言って指差しする。確かにその指の先には真っ白くて角張っている倉庫のような簡素な外観をした小型寄りの建物があった。慧はてっきりライブと言うものは地下で行われると思っていたので、少しだけ驚いた。
「チラッと中覗いてから、一旦解散にしよっか」
璃音のその提案に慧と恵凛は頷いて応えた。そして三人が改めて歩き出した直後、ライブハウスの十数メートル先にある十字路の角から見覚えのある人物が出て来た。
「あれ、江波戸……?」
掛けていた眼鏡のレンズに『江波戸伊武』という名前が表示され、慧は思わず声を漏らした。するとその声に釣られて恵凛と璃音も視線を前方に向け、伊武の姿を視界に捉える。
(ここで何してるんだ?)
伊武の姿を目にした慧の心には、真っ先に心配が生じた。これはただのお節介のようにも思えたが、先日のコンビニでの一件を考慮するととても自然な思考であった。
そんな思考の合間に現実では新たな動きがあった。伊武のあとを追い、派手なデザインの服を着た三人組のチャラ男が伊武を取り囲んだのであった。
「ちょっと待ってよ~」
「一人なんでしょ。俺たちと遊ぼうよ~」
男の一人が伊武の行く手を阻み、残りの二人が左右から伊武に話しかける。伊武はそんな男たちの間を抜けて行こうとするのだが、男たちは巧みに足を運び、伊武を再度囲む。
(こんな古典的なナンパをするやつがまだいるんだな)
慧はそう考えながら、伊武を救うために声を掛けようと息を吸う。そしてそれを発そうとした直前。
「いぶー! お待たせー!」
と、璃音が駆け出した。慧と恵凛は一瞬呆気にとられたが、すぐにその意図を察して璃音に続いた。
「ちっ、待ち合わせしてたのかよ……」
またしても典型的な捨て台詞を吐き、男たちは去って行った。慧、恵凛、璃音の三人はその背中がある程度遠のくまで見送った後、伊武の方に視線を向けた。
「へーき?」
「……うん」
「そう、なら良かった」
璃音と伊武がぎこちない会話を交わす。
「ん。それじゃ」
そう答えた伊武が再び歩き出そうとすると――
「待って!」
璃音が呼び止めた。
「ま、また変なのに絡まれたらあたしの功績が台無しになるし、ライブの招待チケットもまだ残ってるし、だから、落ち着くまでそこに居れば?」
腕組をしている璃音は努めて高慢な口調で話しながら、最終的には顎でライブハウスの方を示した。
「……」
下を向いて話を聞いていた伊武は少しだけ視線を上げてライブハウスの方を見た。しかし何か答えるわけではない。
(雀野はデレを発動してるっぽいし、江波戸も興味があるっぽく見える……。これはもしかしてチャンスなのか?)
二人の様子からその予感を得た慧は、
「そ、そうそう。俺と龍宮もいるし、一緒にライブを見て行こうよ。忙しく無ければだけど……」
勢いで話し始めたはいいものの、もしかしたら予定があるのかもしれないと余計なことを考えてしまい、慧の言葉は尻すぼみになった。すると伊武は冷ややかな瞳を三人にゆっくりと向け、
「行こうかな」
と呟くように答えた。




